第八の契約

 時計塔からこの冬木に戻る時は、必ず訪れていた遠坂邸。見慣れたはずの館は、聖杯戦争中の今は一種の要塞と化し、圧倒的な魔力を放っていた。

 時臣、綺礼と共に、応接間のソファーに腰を下ろすと、優花梨は俯いて心の中で大きな溜息を吐いた。
 平和呆けしていた。なんて、私は未熟なんだろう。魔術師としても、一人の人間としても。

 自責の念に駆られる優花梨の胸中を見透かしたかのように、時臣は微笑を浮かべている。その笑みを、今は好意的に受け取る事が出来ない。責められて当然の事を、今までしてきたのだから。

「優花梨」
 時臣の声に、優花梨は我に返った。
「自分を責めるのも無理はない。だが、過ぎてしまった事を悔やんでも先には進めない。大切なのは未来、この先どうするかだ」

 自分の未来――初めから決まっている事だ。
 顔を上げ、優花梨は時臣に向かってきっぱりと告げる。
「はい、分かっています。私は時臣様に救われた身です。私の未来は、遠坂家に捧げるつもりです」

「いいかね、優花梨。思い違いをしている様だが、君の未来は君のものだ」
 時臣は優花梨の言葉をやんわりと否定するも、次の言葉を紡ぐ時にはその視線は鋭いものへと変わっていた。
「だが、この聖杯戦争で君が取った行動は、決して褒められたものではない」
「……はい、本当に軽率だったと思っています。時臣様に迷惑を掛けて、どう償えば良いのか…」
「その気持ちがあれば充分だ。この先、同じ過ちを繰り返さなければそれでいい」

 優花梨は神妙な面持ちで、こくりと頷いた。
 私の取った行動は過ちだ。そう分かっていながらも、感情を最優先して身勝手な行動を取ってしまったが、この冬木の地から離れて時計塔へ戻れば、軌道修正は完了する。

 そう思うと、ウェイバーの事が気懸かりで仕方がなかった。
 会えなくてもいい。どうか生き残って欲しい。生きていて欲しい。だが、その願いは果たしてそれは叶うのだろうか。

 優花梨の表情が徐々に曇っていくのを、時臣は見逃さなかった。
「ライダーのマスターについてだが、正直言うと彼のサーヴァントは難敵だ。そこで、君が知っている情報を全て教えて欲しい。打開策を見出せれば、マスターを手に掛ける必要はなくなる」

 時臣の言葉に、優花梨はライダーに後ろめたさを感じつつも、自分の知り得る事を全て打ち明けた。ゴルディアス・ホイールと王の軍勢の脅威。ライダーは霊体化せず普段から現界している事。それを聞いた時臣も綺礼も、表情は変わらない。既に抑えている情報だったのだろう。
 だが、優花梨の最後の発言で、時臣はぴくりと眉を動かした。
「最後に、変わった事といえば、常に現界していたライダーが、未遠川での戦闘後、霊体化していました」

「それは本当か? ……いや、君が嘘を吐く理由もないな。つまり現界も出来ないほど、あの戦闘で魔力を消耗したという事か」
 時臣は一人満足げに頷くと、優花梨へ笑みを向ける。
「ありがとう、優花梨。君の情報のお陰で、マスターに直接手を下す事なく、ライダーに打ち勝つ確信を持つ事が出来た。約束しよう。ウェイバー・ベルベットに手を掛ける事はしない。安心したまえ」
「時臣様…! あ、ありがとうございます!」
 一先ずこれで、ウェイバーが命を落とす確率は減った事になる。優花梨は胸を撫で下ろした。


 時臣はこれから凛に会いに、禅城の家へ向かうそうだ。護衛としてサーヴァントのアーチャーも連れて。勿論、霊体化した状態だ。
 優花梨を迎えに来た時も、霊体化したアーチャーが傍にいたらしい。今まで、常に現界しているライダーと共にいたせいで、姿の見えない人間(厳密には人間ではないが)が自分の近くに存在するという事実に、違和感が拭えない。尤も、ライダーの方が特殊な例なのは頭では分かってはいるのだが。

 陽も間もなく暮れる頃、時臣は遠坂邸を後にした。
 広々とした館に、優花梨と綺礼だけが残された。

 二人きりになり、てっきり批判のひとつでも言われるかと思ったが、綺礼からは意外な言葉が飛び出した。
「優花梨。君の行動には内心笑わせて貰ったよ。あの時の師の顔を君にも見せたかったものだ」
 何も言い返せない。言い返す事ができる立場にもいないし、自分のした行為を思えば、綺礼に小馬鹿にされても仕方がないからだ。
「反論がない所を見ると、茶番はもう終わりか。残念だ」

 茶番。傍から見たらそうなのだろう。自分の人生における、最初で最後の自分勝手な行動。批判はされて当たり前だ。
 でも、馬鹿にされるのはどうしても癪に障った。
 優花梨の瞳は、自然と綺礼を睨み付けていた。

「何か言いたい事があるのか?」
「………」
「時臣師もつくづく甘い。この娘に利用価値がそこまであるとは――」
「――綺礼。私を貶すのは構わない。でも、時臣様の事は貶さないで」
「結局君は何も変わっていないな」

 綺礼はどこか落胆するように溜息を吐くと、もう話す事はないとばかりに背を向けて、応接間を後にした。
 変わる必要がどこにあるというのか。どう足掻いても、私の未来は何も変わらないというのに。

 館の扉の開閉音が聞こえた。綺礼がこの館を後にしたのだろう。
 優花梨は大きく溜息を吐いた。

 予測は出来ていたが、綺礼は聖杯戦争敗退後も、時臣の傍にずっとついていた。今思えば、ライダーが王の軍勢を初めて展開した時にアサシンが全滅したのも、全ては時臣の計画の上なのだろう。
 やはり、この聖杯戦争で勝利を収めるのは、アーチャー率いる時臣なのだろうか。

 我が師であるケイネスや、間桐家の魔術を引き継いだ雁夜、そしてアイリスフィール。彼ら、および彼らのサーヴァントが勝つ可能性もないとは言い切れないが、優花梨は時臣のサーヴァントであるアーチャーの『本気の戦闘』を、未だ見ていない。
 少なくとも、ケイネス、雁夜、アイリスフィールがウェイバーを殺す事は性格上ないと優花梨は思っていた。だからこそ、時臣にさえ頼み込めば、ウェイバーの命は助かる。そう信じ切っていた。

 時臣が聖杯戦争の勝利者となり、根源へと至る事。その為には、サーヴァント全員の命が犠牲になる必要があるなど、優花梨は知る由もなかった。
 ましてや、アーチャーが綺礼にその事実を既に伝えられている事など、当然分かる筈もなかった。


「ん……」
 いつの間にか寝てしまっていた。気がつくと目の前の光景は、応接間ではなく凛の部屋の天井だった。
 自分でこの部屋へ移動した覚えはない。という事は、考えられるのはひとつだけだ。

 扉が叩かれる音が聞こえた瞬間、優花梨は慌てて起き上がり、乱暴に髪と服の皺を整えた。
「は、はい!」
 静かに扉が開かれる。
「起きたようだね、優花梨」
「…申し訳ありません、時臣様…」
 自分をここへ運んで寝かせたのは、紛れもない、今目の前にいる時臣だ。優花梨は恥ずかしさと情けなさで、頬を赤らめてただ謝るしかなかった。
「なに、気にする事はない。時計塔に戻る事になって、安心したのかも知れんな」

 正直、時臣の読みは外れていた。優花梨が安心したのは確かだが、その理由をあえて挙げるならば、ウェイバーを手に掛けない事を時臣が約束してくれたからだ。尤も、それをあえて口にするつもりもないし、必要性もないので優花梨は黙っていたが。

「…時臣様。凛ちゃんはお元気でしたか?」
「ああ、心配ない。あの娘なら、万が一私がこの聖杯戦争で命を落とす事になったとしても、遠坂の次期当主として、私の代わりに根源へ至る事が出来るだろう」
「…っ、そ、そんな! 時臣様が命を落とされるなんて、そんな事は有り得ません!」
「もしもの話だよ、優花梨」

 時臣は微笑んでそう言うと、優花梨のもとへ歩み寄り、懐から一通の封筒を手渡した。
 封を開けるとその中には、英国行きの明日の航空券と、宝石のネックレスが入っていた。航空券は分かる。だが、このネックレスは――優花梨はそれを手に取ってまじまじと見れば、思わず瞳を輝かせた。

「あ、あの、時臣様、これは…」
「魔術礼装だ。御守だと思って持っていてくれ。いつか君の役に立つ時が来るだろう」
「今の私には恐れ多いです、こんな…」
「今だからこそ、だ。私もいつ命を落とすか分からない身である事に変わりはない。どうか受け取って欲しい」

 聖杯戦争に勝ち残ろうと残るまいと、もしかしたら優花梨と時臣がこうして会話を交わすのは、最後になるかも知れない。恐らく時臣は、凛に会いに行った時もそのような気持ちでいたのだろう。『次期当主』『代わり』、そんな言葉が出て来たのは、時臣も覚悟しているという事だ。

「私なんかには勿体ないものを……本当に、ありがとうございます。一生、大事にします」
 優花梨は精一杯の笑みを作って、時臣に深々と頭を下げた。そして、恐る恐るペンダントを身に付ける。魔術礼装となれば、宝石に込められる時臣の魔力も相当のものだ。嬉しさよりも、一種の恐怖の方が感情としては勝っているかもしれない。
 歓喜と畏怖の感情を隠し切れない優花梨を見て、時臣は満足げに頷いた。

「よく似合っているよ、優花梨」

 こんな素晴らしい魔術礼装が似合うような身分ではないのだが、時臣にそう言われて、優花梨は照れ臭そうに身じろぎした。世辞と分かってはいても、褒められて悪い気は決してしなかった。


 アインツベルン――セイバー陣営との会合の為、時臣は綺礼と共に未明には館を後にして、教会へ向かった。
 館に留守番する事になった優花梨は、葵のネグリジェを借りて、凛の部屋で一晩過ごす事となった。
 やはり、人の物を借りるのも、人の部屋を借りるのも、居心地が悪い。でもそれも一晩だけだと自分に言い聞かせる。

 そう、夜が明けたら、私はもう冬木を出なくてはならないのだ。

 ふと目を向けると、窓から月明かり漏れていた。自然と足がそちらへ向かっていく。
 見上げると、夜の闇の中で月が煌々と輝いている。見慣れた光景のはずなのに、思わず魅入ってしまう。
 ――見慣れた光景。
 今頃、ウェイバーとライダーもこの夜空を見上げているのだろうか。
 そう思うと、胸が締め付けられそうになる。

 正直、心の中は複雑だ。時臣の事を第一に思えば、言い付け通り明日に冬木を離れ、時計塔に戻るのが最善である事は間違いなく分かっている。
 でも、ウェイバーの事を第一に考えたとしたら。
 ……いや、過ぎてしまった事を悔やんでも仕方ない。こうする事が最善だったと思うしかないし、きっとウェイバーも私が時計塔に戻る事になって、ほっとしているかもしれない。どの道、結ばれる事はないのだから。

 優花梨の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
 叶わないと分かっていながら、突拍子な行動を取って、押し掛けて。
 夢のような日々だった。失って初めて分かった。何気ない会話も、ちょっとしたやり取りも、もう全て戻ってくる事はない。
 ウェイバーが照れ臭そうに頬を染めたり、手を繋いできたり、肩を抱き寄せてきたり。思い返せば、本当にそんな事があったのかもあやふやになる位だ。夢のよう、というよりも夢だったのではないか。
 でも、感触も、胸の高鳴りも、全て覚えている。まぎれもない現実だった。

 会いたい――そう口にしてしまったら、決意が揺らいでしまう。もう勝手な事はしてはならない。
 欲を抱いてはいけないのだ。ウェイバーが生きてさえいれば、それでいい。生き残ってさえくれれば、またいつか、どこかで、それこそ時計塔でまた会える日が来るだろう。

 こうするしかなかった。今は、離れるしかなかった。そう思わないと。
 でも、夜空を見ていると余計にウェイバーとの思い出が蘇ってくる。本当は、本当はもっと一緒にいたかった。それは身勝手だと頭では分かってはいても。あと1日、あと1時間、あと1分でも、傍に立っていたかった。

 やっぱり、これで良かったのだと理屈では分かっていても、感情が許してくれない。だが、しっかりと自分の心のけじめを付けなくてはならない。それが自分に出来る唯一のことだ。
 優花梨はもう泣くまいと、乱暴に瞼を擦れば、踵を返して凛のベッドへ潜り込んだ。
 横になると、首に下げていたネックレスが視界に入る。これを授けてくれた時臣の為にも、もう迷ってはいけないのだ。



 なかなか寝付けずにいたが、物音で時臣が帰って来た事に気付き、優花梨は出迎えようとした。ベッドから出て、扉を僅かに開けて子供のように覗き見た。
 だが、時臣の顔色は優れない。また、綺礼の姿もない。

 アイリスフィール達との会合で何があったのかは分からない。何を話したのかも。自分は部外者であり、明日には時計塔に戻る身だ。首を突っ込むわけにはいかない。
 時臣の心労は、遠くからでも伝わってきた。こういう時は下手に表に出てはいけない。自分には何もできず、寧ろ足を引っ張っていた身なのだ。優花梨は静かに扉を閉じ、足音を立てずに静かにベッドに戻り、再び潜り込んだ。


 それも束の間、
「――そこな雑種」
 突然聞こえた男の声に、優花梨は慌てて飛び起きた。
 見れば、目の前には金髪の美男子の姿があった。
 例え現代風の服を身に纏い、髪を下ろしていても、見紛う事はない。彼は間違いなく英雄王――時臣のサーヴァント、アーチャーだ。
 目の前で現界しているその姿に、優花梨は驚愕し声を失い、そして畏怖するあまり、じりじりと身体を後退させた。背中が壁にぶつかる。冷や汗が身体から溢れそうになる。
「ほう?これはどうして、もっと大胆な娘だと思っていたが、やはりただの雑種であったか」

 アーチャーは紅色の双眸を細め、ベッドの上に腰掛けては、ただただ笑みを湛えている。その表情にどんな意味が込められているのか、優花梨には分からない。

「そう怯えるな、優花梨」
「……っ、え?」
 優花梨は驚きのあまり、呆けた声を漏らした。まさかアーチャーに名前を呼ばれるとは、全く思っていなかったからだ。そもそも、こうして対面する事自体、予想もしなかった事なのだが。

「アーチャー、どうして私の名前を…?」
「我が知らないとでも思っていたのか? 我のマスターが手塩に掛けて育てたにも関わらず、ライダーのマスターに現を抜かし、命令も無視して敵へ寝返ったのだろう?」
「…あ、アーチャー…貴方にもご迷惑を掛けて、本当に何とお詫びしたら良いか」
 遠慮などという言葉は存在しないとばかりにずけずけと言い放ったアーチャーの言葉に、優花梨は返す言葉もなかった。紛れもない事実だからである。謝るしかなく、優花梨は俯いた。考えてみれば、時臣を裏切ったにも関わらず、命があるだけでも最早不思議である。
「構わぬ。貴様の裏切りは愉快な余興であったぞ。そもそも、優花梨。貴様が聖杯戦争に横槍を入れたところで、戦況は変わらぬ。気にする事はない」

 その発言に、優花梨は恐る恐る顔を上げた。不敵な笑みのアーチャーと視線が合う。恐い。何を考えているのか分からない。どうして私に話し掛けているのかも。ただの暇潰しなのだろうか。

「それよりも、此度こうしておめおめと時臣の元に戻って来た事の方が、我は落胆したぞ?」
「え?」
「所詮、ライダーのマスターへの愛はその程度か」
「なっ…! 私がどんな思いでウェイバーと決別したと…」
 つい声を荒げそうになった優花梨だったが、目の前のアーチャーが小馬鹿にするような笑みを浮かべていて、乱暴な物言いになりそうなところをぐっと堪えた。多分、これは彼の暇潰しなのだ。
 それに、アーチャーの言っている事は、間違いではない。

「…申し訳ありません、アーチャー。貴方は何も間違った事は言っていないのに、つい」
「良い、無礼を許すぞ、優花梨。我は知りたいのだ、雑種の愛とはどの程度であろうものか、とな」
「それならば、私なんかより時臣様の方が、愛とはどのようなものか存じているかと」
「たわけ。あんなつまらぬ男が、我の求める答えなど言う筈がないであろう。我は貴様に問うているのだ」

 そう言って、アーチャーは優花梨の傍へずい、と身を乗り出した。逃げ場はない。優花梨は一瞬アーチャーの美しさに見惚れかけたが、それよりも恐怖の方が勝っていた。ごくりと息を飲み、言葉を選ぶ。

「アーチャー。お言葉ながら、私は生涯遠坂家に仕える身です。時臣様をつまらないと称するのならば、私はそれ以下の人間です」
「ほう? 我にはそこまでつまらぬ女には見えぬぞ。実際、貴様がライダーのマスターの元に行ったと知った時の時臣の顔といったら」
「と、時臣様の事を侮辱するのはやめてください!」
 言いながら、優花梨はこのやり取りに既視感を感じた。そうだ、綺礼にも同じ事を言われた。弟子からもサーヴァントからもこんな言われようとは、時臣の心中を察すると辛さしかない。

「貴様はそうやって時臣の後をついて回るつもりか? 優花梨。このままでは籠の鳥として一生を終える事となるぞ?」
「それで構いません。どうせ、ウェイバーとは端から結ばれない身なのです」
 分かっていながらも、こうして口にすると、その言葉が自分の心を蝕んでいく。無意識に悲愴な表情を浮かべていたのか、ふと見るとアーチャーが如何にも愉快そうに口角を上げてこちらを見ている。

 アイリスフィールの庭園で聖杯問答をした時に、こんな表情をしていた気がする。尤も、アーチャーがセイバーに対して向けたあの表情に比べれば、遥かに違いはあるが。
 ただ、眼前のアーチャーが自分の悲愴な態度を見て、楽しそうにしているという事だけは確実だ。

「貴方が何を言おうと、私はもう時臣様を裏切る行為はしません」
「それはどうだろうな? 人生は必ずしも決まり切っているものではないぞ」
 アーチャーはそう言い残すと、黄金の光を煌かせて姿を消してしまった。現れたのが突然ならば、消えるのもまた同様である。

 結局はアーチャーの暇潰しに使われたような気がしてならない。というか、それしか考えられない。
 優花梨はそれ以上何も考えず、大きく溜息を吐くと、改めてベッドに潜り込んだ。
 アーチャーの言葉が現実となる事も知らずに――



 翌朝。優花梨が目を覚ました時には、部屋の壁時計は6時を指していた。ホテルに滞在していた時やマッケンジー邸にいた時と、さして時間は変わらない。
 手早く着替えを済ませ、身支度を始めた。今日でこの冬木とお別れだと思うと、胸が切なくなる。ウェイバーとライダーと過ごした日々は、いい想い出だったと思うしかない。ここまで来れば諦めるしかない、というより諦める以外の選択肢は初めから与えられていないのだ。

 突然、館の呼び鈴が鳴った。こんな時間、ましてやこの聖杯戦争中にこの遠坂邸を訪れるのは、一人しかいない。
 部屋を出て玄関先へ向かうと、優花梨は館の主と来客へ頭を下げた。

「おはようございます、時臣様」
「おはよう、優花梨」
 時臣の顔色は優れない。恐らく一睡もしていないのだろう。きっと、昨晩のセイバー陣営との会談で、優花梨には計り知れない何かがあったのだろう。首を突っ込んではいけない。

「おはようございます、綺礼」
「…おはよう、優花梨」
 そして、こんな非常識な時間の来客――言峰綺礼は、相変わらずの無表情でぽつりと返答した。
「そういえば、君も今日冬木を出るのだったな」

 綺礼の意味深な言葉に優花梨が疑問を抱く前に、二人は応接間へと向かって行った。その背中を見送って、姿が見えなくなった瞬間、優花梨は違和感に気付いた。
 綺礼は『君も冬木を出る』と言った。という事は、綺礼も冬木の地を離れるという事だ。
 聖杯戦争の真っ只中だというのに、どうしてこんなタイミングで離れるのか。
 時臣の采配としては考えられない事だ。余程の事があったのだろうか。

 聖杯戦争に関わってはいけない。そう思いつつも、気になって仕方がない。
 普段ならこんな事はしないのだが、優花梨はつい好奇心で、緩慢な足取りで応接間へと歩を進めた。



 さすがに扉を開ける訳にはいかず、優花梨はこっそりと扉に身を寄せて耳を近づけた。

「いえ、心配はご無用です、マスター。――元より、飛行機の予約などしておりませんので」

 綺礼の声が聞こえた後、暫し間を置いて、どさり、と倒れる音が響く。

「ふん、興醒めな幕切れだ」

 突如聞こえたアーチャーの声。凄く、物凄く嫌な予感がする。この扉を開けてはいけない。本能がそう告げている。
 綺礼とアーチャーは一体何を言っているのか? 会話が頭に入って来ない。
 ――駄目だ。考えろ。扉の向こうでは何が起こっているのか。少なくとも、時臣の声は聞こえて来ない。
 柊優花梨は、遠坂家への忠誠を誓った身である。
 ならば、今この瞬間、取るべき行動は、一つしかない。


「時臣様――」
 優花梨は意を決して扉を開けた。
 その瞬間、視界に入って来たのは、絶望的な光景だった。

「と、時臣様…!!」
 優花梨の眼前には、大量の血を流して倒れている時臣の姿があった。何も考えず、転びそうになりながら時臣の傍へ駆け寄る。その顔を見て優花梨は絶句した。瞳孔の開き切った瞳。最早完全に、命というものを感じられない。

 一気に血の気が引く。優花梨は立っていられなくなり、床に膝を付いた。身体中が震える。正気なんて保っていられる状況ではない。
「い…いや! 時臣様!! 時臣様!!」
「喧しいぞ、雑種。新たなる契約を済ませたばかりだというのに…全く、台無しにしてくれるな」

 昨晩会話を交わした黄金のサーヴァントが、優花梨を見下ろす。
 今、アーチャーは何と言った?
『新たなる契約』。
 最悪の展開が、優花梨の脳裏を過る。

「…まさか…!」
 恐る恐る顔を上げると、悪魔のような笑みを浮かべるアーチャーと、傍らには綺礼の姿。その腕には、幾多もの令呪が刻まれていた。
 元々、アサシンが全滅した後、綺礼に再び令呪が宿った事や、聖杯戦争の監督役であった言峰璃正がケイネスに殺害され、息子である綺礼が歴代の令呪を受け継いだ事など、優花梨は知る由もない。
 だが、これだけは分かる。

 綺礼が時臣を殺し、アーチャーと再契約を交わしたのだ。

「綺礼!!」
 優花梨が叫んだ刹那、綺礼に嵐のような風が吹き付ける。昨日時臣から受け取った魔術礼装の影響で、優花梨の魔術はより強力なものへと進化を遂げていた。
 綺礼も油断したのか、優花梨の放った嵐をじかに受け、壁へと打ち付けられた。その壁が激しい音を立てて崩れる。
「許さない!! 時臣様の仇は私が…!!」

「余興はそこまでにしておけ」
 目の前の空間が揺らぎ、黄金の煌きと共にアーチャーが姿を現す。優花梨が魔術を放つ瞬間、霊体化していたのだ。
 実体化したアーチャーは、不敵な笑みを浮かべながら、優花梨をまじまじと見つめた。
「ただのつまらぬ雑種かと思いきや……なかなか面白いではないか」

 その笑みに、優花梨はぞくりと身体を震わせた。つい先程まで時臣のサーヴァントだった彼は、今や綺礼を新たなマスターとして迎え入れている。
 アーチャーも時臣の仇だ。
 でも――
 ライダーとはまた別の圧倒的な存在感。
 絶対に勝てない。刃向かえば間違いなく殺される。
 優花梨は初めて、死の恐怖を覚えた。

 優花梨が怯んだのと同時に、瓦礫の山から人影が現れる。
「……成程、そういう事か」
 己に治癒魔術を施しながら、綺礼はそう呟いた。優花梨の魔術礼装に気が付いたのだろう。
 優花梨としては全力で、それこそ殺すつもりで魔術を放ったはずだった。だが、当の綺礼は何事もなかったかのように平然としている。
 もう、優花梨に為す術はなかった。
 今目の前にいるのは、絶対に勝てない敵が、二人。

「さて、次はこちらの番だ、優花梨」
 綺礼がこんな笑みを浮かべるのは、今まで見た事がなかった。
 自分の師を殺してなお、こんな表情が出来るなんて。
 それは優花梨の理解を遥かに超越していた。

 もう、駄目だ。
 そう思った瞬間、身体に走った激痛と共に、優花梨の視界は暗転し、思考が停止した。

2015/09/30


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