▼ 3.私にとって一人の人間である前に「主」なのです
「何故泣く」
何故、俺を一人の人間として見ない。
俺は随分と前からお前の事を。ああ、そうだ仕え始めた頃からそそっかしいお前を見ていたんだ。ここにまだ人が残っていた時には考えていたさ主従のあるべき姿を保たなければ示しも付かねえとな。
「しかし、もうお前は役目に縛られる必要はねぇだろう」
俺だって好いてる奴と共に寝てえと本音を漏らせばなんだか誰に聞かれている訳でもないのに恥ずかしくなってきやがる。
「もういい」
好きにしろと口から嘘が出てきてしまった。
「出て行くなら別に良い。刀ぐらい俺一人で充分だ」
もう後戻りなど出来ない。どうするつもりなんだ、どうしたい、柄にもなく少し焦る。背中を向き合わせいつもの所に俺は座りうつむき目を瞑る。
ガタガタと襖を開ける音がして出て行くのが分かった。
「あーあ、何してんだかな。俺は」
この部屋から簡単に出る事の許されない俺は好きな女を追いかける事すら出来ない。
なんて情けない主だ。
この刀を扱える者が居なければこの部屋から出る事など出来ない。別にそれでも良い。
だが、あいつがいる事に意味があった。
きっとあの最後の日にあいつもでて行くのだろう、それが普通だから別に気にも止めなかった。だけど違ったあいつは背中を向けたかつての同僚や仲間にふざけるなと罵倒した。俺も引くほどの酷い言葉の数々を浴びせた後、俺の元へ駆け寄りひざまずいた。"あたしは貴方に心底惚れております、貴方の側を離れる時は死ぬ時、これからも共に居させて下さい"と頭を下げる。
思えばあそこで離しておけばこのような苦しく情けない思いはしなかったかもしれない。
二人で生活するようになり欲が出てきた、触れたい衝動に幾度駆られそれを我慢した事か。共にいるたび愛しい、好きという感情が増してついに我慢出来なくなっていた。
俺が悪い、あいつの忠誠心を利用してでも己の欲を叶えようとしていたから。
−−ガタガタ
「…花子!?何故まだいる、出ていけと…」
「あたしがいなければ風呂にも厠にも安心して行けぬでしょう」
そう言ってお茶を運んできた花子はにこりと笑った。
「今度は苦くないはずです」
「………そうか」
茶を入れ始めたその姿をとても愛しく大切に感じた。そうだな、これで最後にしよう。
「花子」
「はい?」
「好きだ」
「…はい」
「俺の元に残ってくれた事、礼を言う」
「従者として当然です」
「これで最後にする、だから少しだけ我慢してくれ」
「−−っ!?」
ぎ、銀閣さまっといつもの様に狼狽えるその姿も最後になるのかと笑いが出た。
「愛しい好きだ、ここへ産まれ落ちた事を後悔した事しかなかったがお前が居た事が救いだった。ずっと、ずっと昔から」
押し黙る花子はどんな顔をしているのかここからでは見えない。
「これからも、俺に仕えてくれ」
「…言われなくとも。私にとって一人の人間である前に「主」なのですから」
その言葉が強く胸に突き刺さったが、まぁ茶を飲んで寝て忘れるとしよう。別にどうってことじゃねえ。簡単だ。
簡単だ。
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