「……おっし」

薄ーく開けた障子の隙間から、周りを見渡し、誰もいないのを確認して、そっと部屋を抜け出す。
そして縁側から草履を履いてだーっと橘家を抜け出した。


あの傷だらけの泥だらけになって帰ってきた日から2日。
私は先生に「何考えてるんですか!」と怒られて、そして数日間の絶対安静を命じられていた。
もうちょっと何かしようとしただけで怒る怒る。
ちょーっと腕を縫っただけで、私は元気なのに。
家事もだめ、走るのもだめ、遊びに行くのもだめ、とは、辛いものである。
そしてさらに元いた場所では友人達に「なまえってさ、黙ってじっとしてる事ないよね!」「動いてないと死ぬんじゃね?てかなまえってマグロの生まれ変わりじゃね?」とか言われた私だからさらに辛い。
ていうかマグロってなんだよマグロって!


「脱出成功〜!」

ま、なんだかかんだそういう事で私はいま橘家から逃亡を図ったというわけです。

といってもお金はないし、そもそもこの時代にふらりとよってタダで暇つぶしできるような娯楽もないので、行くところは一つ。

「医学所に行こー」


◇ ◇ ◇

「こんにちわー」

とペニシリンの製造所に入るけど、誰もいない。今は休み時間なのだろうか?と思いいったんそこをあとにする。
そして、もはや私の特等席とも言える母屋の縁側に腰をかけた。

なんだ、つまんない。佐分利さんにちょっと相手してもらおうと思ったのに。

ふうっとため息を付いて、目を閉じる。しばらくそうしていると、どこからか話し声が聞こえてきた。この声は、多分緒方先生だ。
縁側を這いつくばって、その声が聞こえる方へと向う。
そして、ある部屋の前に止まった。ここから声が聞こえてくる。どうも、誰かに何かを教えているような感じだ。
閉められている障子を音がしないよう、そっと薄く開ける。そこから中を覗けば、そこにはたくさんの男の人たちが正座をして、一番前で話をしている緒方先生の話を聞いていた。その中には佐分利さんもいる。
きっと、医学の授業なんだろう。私もしばらくその場で話を聞いていたのだけど、言葉や言い回しが難しくてさっぱりわからなかった。
いいかげんわけも分からないし、障子を閉めようとしたその時ふと佐分利さんと目が合った。
佐分利さんは一瞬きょとんとした顔になって、そしてギョッとする。「え、なに?何でそこに!?」って顔をするから、私は静かに笑って手を振ってソッと障子を閉めた。

◇ ◇ ◇


しばらく一人で日向ぼっこをしていると、さっきの部屋からわらわらと男の人たちが出てきた。授業、終わったのか。
そうぼーっと考えていると「なまえさん」と名前を呼ばれる。


「おー、佐分利さん」
「おーじゃないですよ。ほんま、さっきはびっくりしましたわ」
「あはは、すみません」
「もー、ほんまに。なまえさんは何するかわ……」

佐分利さんの言葉がふと途切れる。「どうかしましたか?」と聞けば「その、」とわたしの頬を指差した。

「どないしたんですか。その傷」
「ああ、これですか?いやぁちょっとね」
「なまえさんのちょっとはどうも信用できんのですけど」

と訝しげな顔をして言う佐分利さんに、わたしはあははと笑う。

「ていうか、よお見たら手も傷だらけやないですか!ほんまどないしたんです?」
「いや別に大したことないですし……」
「もしかして、前の、あの南方先生が襲われたんと 、なんか関係あるんですか?」
「え、いや、うん、まあ、そうですね」
「なっ……!」
「いや!べつに大したことはないんです本当に!!先生を襲ったやつにケンカ売って、ちょっと切られて、ちょっと縫っただけですし」
「そ、それは大したことあります!!」


「何考えてるんですか!!」と怒る佐分利さん。私は思わずひいっと両耳を自分の手で覆った。
もー、南方先生にもさんっざん怒られたし、もう勘弁してほしい。

「なまえさんは女の子なんですから」
「ううん……、まあ、おしとやかさが足りないのは重々承知しております……、でも」
「でもなんですか?」
「あの時はそんなの考えてる間も無かったんですよ。助けなきゃって、思って」
「まあなまえさんらしいといえばなまえさんらしいですけど」
「でしょ!でも、凄く、怖かったんです。殺意とか、そんなの初めてだし。足も手も震えて、初めて人を傷つけて……」
「なまえさん……」
「だから、私はもっと強くならなくちゃ。大切な人を守れるように」
「なまえさん、」

「なんであなたはそうなるんですか」と佐分利さんがため息をつく。少し困ったような顔をして、それから「でもそれがなまえさんですからね」と言った。

「でも辛くなったら、その、わ、私がいますから、いつでも、言うてくださいね」
「へへへ、じゃあそうしますね」
「いつでも、まってます」
「はい!」