咲さんは佐分利先生から着物を借り、すばやく着替えて先生と吉原へ飛んでいった。
医学所に残された私を含む大勢の人は、先生と咲さんを見送ったやいなやすぐにペニシリンの製造へと取り掛かった。


じめじめと湿気の多いこの季節、誰もがだらだらと汗を流しながら休まずに作業を進める。
私も例外ではなくて、ほほに張り付く髪の毛を引き抜きたい衝動に駆られながらろ過作業を進めていた。


「なまえさん、疲れたら休んでええんですよ」

両手にカビを抱えた佐分利さんが、心配そうに眉毛をハの字に下げて言う。
私は「いいえ、大丈夫です!」と笑って言い返す。

「さっきも、ほかの方がおんなじこと言ってくれたんですけど、私そんなに疲れてるように見えます?」
「いや、元気そうですけど」
「でしょ?」
「でも、なまえさんは女子ですし、われわれより体力もないかと思って」
「やだなー!バカにしないでくださいよ!!こんなの痛くもかゆくもないっすよー!」


期末テスト前の3連徹夜にくらべればね!という言葉はごくんと飲み込んだが、ははは!と笑って見せる。

「なら、いいですけど、しんどなったら言ってくださいよ!」
「はーい」



ペニシリンを先生に届けるたびに帰ってくる先生からの「夕霧さんの容態がどんどんよくなっていっている」という伝言に、全員が喜び、そしてペニシリン製造への力をますます注いでいた。

しかし、先生と咲さんが吉原へ行った日から5日後。

「夕霧さんがなくなった」という知らせとともに、ペニシリンの製造はストップした。




「夕霧さん、治らなかったんですね」
「先生も、相当ひどい梅毒や言うてはりましたし…」


医学館の縁側に私と佐分利先生で並んで座る。
ふわりと湿った空気がほほをなでる。
なんだか、久しぶりにこんなにゆっくり外の空気を吸った気がする。


「梅毒って、すごく辛いんですよね?」
「ええ、そうです。どんどん体が腐って、布団に体が擦れるだけで痛くて叫び声を上げる…辛いでしょう」
「その…夕霧さんの梅毒は治せなかったですけど、せめて、せめて夕霧さんは梅毒からの痛みから開放されて逝かれたんたんでしょうか」
「ええ、笑って逝かはったって、聞きましたし」
「なら、私達は、私達の作った薬で少しでも夕霧さんを救えたんですよね」
「ええ、私はそうや思います」
「そうですよね」


それからしばらく、空を眺めながら、二人でぼーっとした。
空の向こう側が真っ赤になって、ちょっと薄暗くなってきたとき、隣から「あ、先生」と佐分利さんが呟いたのが聞こえた。
門のほうをみると、先生と咲さんが立っていた。


「先生!」

なれない草履でだっしゅして、先生にがばっと飛びつく。
「どうしたんですか?」とちょっと困ったように笑う先生の声がなんだか久しぶりで、ちょびっと涙が出た。


「お帰りなさい先生」
「ええ、ただいま。ペニシリンありがとうございました」
「みんなでがんばりましたよ」
「ありがとうございます」
「咲さんも、おかえりなさい」
「はい、ただいまもどりました」

ふふふ、と咲さんも笑う

「さぁ、橘の家に帰りましょうか」




(せ、先生!おかえりなさい!)
(佐分利先生もありがとうございました)
(い、いえ!あの、ところで…)
(はい?)
(いや、なんもないです)
(そうですか?)


なまえさんとはどういう関係ですか?
なんて恥ずかしくて聞けない。