夕食を食べ終え、お風呂に入る前に今日返却期限となっている本を返そうと図書室へ向かう途中、廊下の向こう側から後輩のトモミちゃんが首元に手ぬぐいを掛け歩いてきた。
「あれ、トモミちゃん久しぶり」
「名前先輩お久しぶりです。あっ、今私運動してきたので汗すごくて、匂いしたらすみません」
困った顔をして前髪に触ったトモミちゃんの頬は確かに普段よりもほてっているように見える。この時間ならもうお風呂も入れるし、そっちへ向かうのだろう。運動することは気持ちの良いことだが、運動した後の汗の具合は気持ちが悪い。早くお風呂に入りたいだろうと察し、挨拶をして別れようとした。
「あぁ、先輩。そういえば一年は組の……皆本金吾が先輩を探していましたよ。図書室の近くで先輩のことを聞かれました」
「えっ、本当? わかった。有り難うね。トモミちゃんお疲れ様。夜はゆっくりしな」
「はい。有り難うございます」
手を振って別れの挨拶をすると、頭を下げ、照れくさそうな表情をしながら控えめに手を振ってトモミちゃんは歩いていった。
さて、元々図書室には向かうつもりだったが、金吾くんも探さなくては。何か用事でもあるのだろうか。
○
図書当番だったのは同学年の不破雷蔵だった。
もうすぐ図書室を閉める予定だったようで、ギリギリではあるが返却日を過ぎることなく返すことが出来て安心する。
彼に顔を少し近付け、小さな声で会話をする。中在家先輩が静かに図書の片付けをしているため普段よりもずっと音に気を付けなければいけないのだ。
「これ、返却するね。こんな時間になってごめん。あと、一年は組の皆本金吾くん、見なかった?」
「ううん大丈夫だよ。うーん、ああ、そういえば君を探していたな。でもさっき図書室を出て行ったよ。医務室に行くって言ってた」
「そっか、有り難う。また今度借りにくるね」
「わかった。気を付けてね」
図書室を出る時に不破に向かって手を振ると、笑いながら不破も手を振ってくれた。
中在家先輩がいる方を見ると、こちらを見て軽く会釈された。同じように頭を下げて図書室を出ると綾部喜八郎が泥まみれになりながら塹壕を掘っている。図書室の戸をしっかりと閉めてから彼に「もう夕飯の時間なんじゃないの」と言えば、まだお腹が空いていませんからと、こちらの顔も見ずに言葉が返ってきた。
「ほどほどにしないと怒られるよ」
「僕なんかより、探した方がいいですよ。廊下で何度も貴女の名前を呼んでました」
主語が無いが、金吾くんのことだろう。有り難うと返せば今度は私の方を振り向き、泥まみれの綺麗な顔が少し笑って見えた。
○
失礼しますと声を掛けてから医務室に入ると三年生の三反田数馬くんがいた。
「名字先輩、伊作先輩は今日当番ではありませんよ」
「あっ、いや、今日はそうでなくて」
私の姿を見た数馬くんは少し慌てたように私にそう言ったが、先輩に用が無いことを伝えればすぐにああ、と小さく声を漏らした。
「そういえば、先ほど一年の皆本金吾が先輩を探してました」
「やっぱりもう来てたのか。どこに行くか言ってった?」
「いえ、ここに名字先輩がいらっしゃらないとわかると、すぐに出ていってしまいましたよ」
「そっか、わかった。有り難うね」
「いえ、気にしないでください」
失礼しますと声を掛け医務室を出る。
もう時間も時間なのに忍たまは委員会の仕事があるのか。委員会は授業等とはまた異なったものを学べるようだし、忍たまのこの制度は大変だが羨ましいと今まで思っていた。けれども、今日の様子を見るにこれはこれで大変だなと思わされる。もしも私も委員会に所属しなければならないとしたら、自由に薬草の勉強も出来ないはずだ。いや、保健委員会なら……なんて考えながら廊下を歩く。
さて、金吾くんの行く先がわからなくなったが、次はどうしようか。
金吾くんがいろいろと場所を変え私を探しているのならば、今日中に会って話を聞いた方がいいだろう。次はどこに行こうかと考えていた時、ふいに後ろから声を掛けられる。
「名字先輩ですよね?」
後ろを振り向くと体育委員の時友四郎兵衛くんが嬉しそうな顔をして手を挙げて駆けてきた。
「同じ委員会の皆本金吾が名字先輩のこと探してました。えっと、今さっき食堂にいたので、今向かえば会えると思います!!」
「本当? そっか、とても助かる。有り難う」
一生懸命伝えてくれる四郎兵衛くんにお礼を言って足早に食堂へ向かう。
あの角を曲がれば食堂だ。足音がしないように気を付けて歩く。食堂内に入ると美味しそうな匂いに包まれ、辺りを見渡すと先生方が食事をされていた。食堂の出入り口に一番近い机に金吾くんは座っており、私に気付くとさっと立ち上がる。
「先輩!! 良かったぁ」
安心したような表情をした金吾くんは「先輩、来てください」と私の手を引っ張って食堂を出た。
「ど、どうしたの、金吾くん」
「先輩、あの、ぼく先輩に見てもらいたくて!! あの、本当は今日じゃなくたって良かったんだと思うんですけど!!」
ずんずんと金吾くんは進んでいく。忍たま長屋の方へ向かう金吾くんは私の方へ振り返り、ここで待っててくださいと急いで駆けていった。
少し待っていると、折りたたまれた紙を持った金吾くんが頬を染めて駆けてきた。
「これ!! ぼく乱太郎とか、保健委員の人たちと一緒に薬草を取った時に作ったんです!!」
受け取った紙を開けば、近くの林や森などが簡単に描かれている地図であった。
「ちょっと前に乱太郎に人数が足りないから薬草を一緒に取りに行ってくれないか頼まれたことがあったんです。善法寺伊作先輩に教えてもらいながら薬草を取っていって、その時に地図に薬草があった場所をまとめていったら便利かなって……あ、伊作先輩と一緒に作っていったので間違いはありません。ただ、本当に大雑把にしかまとめられなかったんですけど……」
一気に金吾くんは話す。
その様子はとても嬉しそうで、真面目で一生懸命で優しい彼に私はなんてお礼を言えばいいのかがわからなかった。なんでこんなにも優しいのだろう。どうしてこんなことをしてくれるのだろう。
「有り難う、有り難う金吾くん。すっごく嬉しい。とても。……有難う」
「そんな、ぼくは全然、そんなお礼を言われるほどじゃなくて」
乱太郎と一緒に間違いがないか確認して、さっき完成させたのだと胸を張って言う金吾くんに私は思わず抱き着いてしまった。ああ、本当に彼はなんて優しいのだろうか。
「金吾くん、金吾くん、有り難う」
「う、先輩く、苦しいですよぉ」
その言葉に腕の力を緩める。大丈夫か声を掛けると何度か頭を縦に振った。
「私は、どんなお礼をすればいいのかわからないくらい、今すごく嬉しくて、嬉しくて……。本当に、どうしよう、有難う」
完成したから、早く渡そうと思って私を探してくれていたのかと理解して、彼の純粋な気持ちに私は思わず泣きそうになる。
前にもらった、乱太郎くんが描いてくれた絵のある冊子もそうだが、何かもらって嬉しいという気持ちより、私の将来の夢のために助けてくれる人たちの存在が有り難いと思った。私のことを気にかけてくれ、私のために時間を使ってくれることが嬉しかった。幸せ者だと思った。
「ほんと、お礼をしたいな。なんでもお願いを聞いてあげるから、考えておいてよ」
「そんな、いいんです。ぼく、たいしたことしてないです。それにそれ、本当にちょっとしか描いてなくて」
「ううん、数とか、そういうのじゃないんだよ。金吾くんの気持ちが嬉しいの」
以前、お礼の仕方で少し後悔があったことを思い出して、今回は金吾くんに直接聞いてみようと試みた。私の言葉に金吾くんはうーんと唸る。
「じゃあ金吾くん、また今度お礼何がいいか聞くから、その時までに考えておいてくれるかな?」
「うーん、本当にいいんでしょうか。……でも、それなら先輩と一緒に楽しめるもの、考えておきます」
にっこりと笑った金吾くんは、すぐに「みんな、もうすぐお風呂って言ってたんだった!」と慌てて長屋の方へ顔を向けた。
「じゃあ大変だ。今日はどうも有難う。はやく戻りな」
「すみません、ではぼくはここで失礼します」
くるりと後ろを向いて金吾くんは駆けていく。しかし突然立ち止まり、再びくるりと私の方へ振り返った金吾くんは手を大きく振って先輩と私を呼んだ。
「名字先輩、おやすみなさい」
「金吾くんおやすみなさい。今日は有り難う」
満面の笑みで金吾くんは手を振ってくれた。私も同じように声を掛けて手を振ると、金吾くんは頭を一度下げて再び駆けだした。
彼の姿が見えなくなった頃、改めて彼に貰った地図を見る。
地図には学園を中心として簡単に場所が記されていて、その場所の横に薬草の名前がいくつか書かれている。小さな字で、一生懸命に書いてくれたのだろう。
紙の上部には、思い切りのよい字で「薬草の場所」と書かれていた。そのまだ幼くて思い切りの良い男の子の字を見ると思わず笑ってしまう。嬉しいという気持ちで胸がいっぱいになる。
前回の時も嬉しかった。今回も同じように胸のあたりが幸せな気持ちで満たされていく。自然と口元がにやけてしまうのをこらえていたら、長屋へ向かう途中だった鉢屋と鉢合わせてしまった。忍たまの長屋の近くに私がいたことに驚いたのか、私を伺うような顔をした後、ふっと私を見て笑った。
「……顔、にやけてるぞ」
「うるさい」
20161001