完結
※原作にはない設定があります。





 第一部隊の出陣により、近侍の水心子は本丸を離れて戦場へと出陣した。
 水心子が霊力供給として審神者である名前と共に過ごすようになって二週間が過ぎたものの、名前の体調が一日を通して良好な日は未だ一度もなかった。

 日が傾いた頃に出陣する第一部隊を見送る名前の表情を思い出しながら、水心子は指揮を執る。名前の少しだるそうな顔に気付いたのは水心子だけではないはずだ。しかし、本丸の男士が名前の体調について水心子に問うことはなかった。少し良くなったかと思えば振り出しに戻るような名前の体調を傍で見る水心子が、誰よりも名前を気に掛けていることを男士は皆知っているからだ。

 夜になる度に、水心子は迷う。名前の部屋の前に立つ度に、どうしようと考える。いっそ嫌われる覚悟で口付け以上のことをした方がいいのでは、と。体調が優れない名前を傍で見ている水心子は、それが一番の道筋のように思えたのだ。
 しかし、部屋に入る水心子に笑いかける名前を見る度、水心子は駄目だと踏みとどまった。水心子は名前に嫌われたくない。それに、どうしたって嫌がることはしたくなかったからだ。


「我が主の体調について……?」

 夜、名前の部屋へ向かう途中、廊下を歩いていた水心子にこんのすけが声を掛けてきた。周りに男士はおらず、他に話を聞かれたくないのだろうと察してこんのすけに合わせるようにしゃがみこむ。

 こんのすけの尻尾は弱々しく下がっており、黒い大きな目も縋るように水心子を見ている。何だと問えば、こんのすけは「新たに発覚したことがあります」と口にした。
 こんのすけが言うには、霊力が元に戻らない原因の一つに名前の自尊心の低さが関係しているとわかったらしい。審神者を続けるためには心身の健康が第一だということは以前から政府によって謳われていたが、名前は元来明るくよく笑う子であった。確かに、時々自分をへりくだるような言葉を口にするなと水心子も考えていたが、霊力に影響する程だとは思ってもいなかった。

「それは、間違いではないのか?」
「はい」

 こんのすけは静かに、しかしはっきりとした口調でそう言った。

「元々、極端に自尊心が低い方ではありません。刀剣男士を統べる能力と精神がなければ審神者にはなれませんから。どちらも持ち合わせていなければ、そもそも刀に選ばれることもないでしょうし……」

 だから、とこんのすけは続ける。何かきっかけがあって心に傷を負ったような状態なのでは、と。

「そうであるならば、納得はいきます。自尊心が低くなっている状態が続いているため、心の傷が治らないのでしょう。霊力が供給されても半日で元に戻ってしまうのも、与えられた霊力が心の傷から漏れているのでは?」

 こんのすけは一度俯き、首を振る。お可哀想に、と呟いて。

「そんな状態では、性交したとしても正常な状態には戻らないだろうと政府は判断したようです」

 こんのすけの言葉を聞いて、水心子は動揺する。そうなのか、と思わず口に出てしまった。

「よって――水心子正秀、貴方に政府から指令が下りました。ここで審神者を失う訳にはいきません」

 こんのすけは顔を上げ、強い口調でそう言った。大きな黒い目がじっと水心子を見つめている。

「今夜、審神者に気付かれないようにまじないを掛けてください。成功すれば、就寝と共に審神者の夢の中に入ることが出来ます。夢の中では審神者の精神が露わになるので、そこで心の傷を修復するのです」
「ゆ、夢に入る?」
「人ならざる者だからこそ出来ることです。どうか、宜しくお願いします」

 驚いている間にも、時間がないというようにこんのすけは説明を続ける。いくつかの話の後、こんのすけは水心子の紋が入った小さな瓶を差し出し、まずそれを飲むように言う。

「今夜のうちに、必ず成功させてください」

 名前のこととなれば、やるしかないと水心子も頷く。こんのすけが差し出した紫色の瓶の蓋を取り、一気に口に流し込んだ。中身が空になったことを確認し、水心子は瓶をこんのすけに渡して立ち上がる。

「必ず、成功させる」

「はい」

 背筋を伸ばした水心子が名前の部屋に向かうのを、こんのすけは姿が見えなくなるまで見送る。まっすぐな瞳で「必ず」と、そう口にした水心子を信じて。


 名前の部屋の前に到着すると、眠そうな名前が水心子を部屋へ迎え入れてくれた。

「今日は来るの、いつもより遅かったね」
「……すまない。話をしていたんだ」

 水心子がそう言えば、名前は勝手に「水心子は源清麿と話しをしていた」と考えたようだった。清麿は、と口にする名前のことを、水心子は気付かれないように見る。
 内容が内容なだけに、こんのすけと話した内容は告げず、水心子は名前と共に布団の中に入り、普段通り手を繋いだり口付けを交わして霊力を送った。体調はどうだと聞けば、名前は水心子のおかげで楽になったと笑う。それでも、水心子が初めて霊力供給をした日と比較しても名前の体調は悪いように見えて水心子は焦った。

「寒くないか?」
「うん」
「もう一度、口付けをしてもいいだろうか」
「うん」

 名前が嬉しそうに笑う顔を見ると、水心子は胸の辺りがきゅうと締め付けられるようだった。必ず今夜成功させると心に誓いながら、ゆっくりと唇を合わせる。心の中で好きだと言いながら、少しでも良くなるようにと霊力を送った。


 こんのすけから渡された瓶の中身には、深い眠りを誘う薬も含まれているらしい。それを飲んだ状態で霊力を送れば、その効果は人間にも効くのだとか。
 暗い部屋の中で静かな寝息を立てる名前を覗き込んだ後、水心子は自分の髪を一本抜き、それを名前の左手の小指に慎重に結ぶ。こんのすけが言うには、名前の髪を水心子の小指に結び付けるやり方が正式らしいのだが、髪の一本であったとしても許可なく名前の髪を切りたくはなかった。

 今回水心子が行うまじないは、こんのすけと協議した上でのやり方ではあるものの、本来の方法とは異なるものである。そのため、例え水心子が名前の夢の中に入ることが出来たとしても、その夢は正式な方法で行ったまじないで見る夢とは異なるものになるだろうと、こんのすけは語った。その上、このまじないは本来名前の霊力を戻すために生み出されたものではないらしい。そのため、任務成功率は低いと水心子は聞いた。それでも、水心子は名前を傷付けることのないこの方法でやると決めた。

「……ふう」

 水心子はゆっくりと目を閉じて、呼吸を整える。心の中でこんのすけから教えられた言葉を唱えれば、少しずつ意識が遠くなっていった。

   〇

 肩を揺すられながら「ねえねえ」と声を掛けられ、水心子はハッと顔を上げる。座って壁に背を預けていた水心子を、小さな女の子が覗き込んでいる。

「あ、貴方は……!?」

 目が点になった水心子の前にいたのは、幼い姿の名前であった。丁度、源清麿との任務の際に現世で出会ったあの時と同じ恰好をしている。その姿に驚きながらも水心子が辺りを見渡せば、今いるのが子ども部屋だとわかった。
部屋の端にある学習机の上にはランドセルが置かれ、窓へと視線を向ければレースのカーテン越しに青空が見える。ベッドの上に置かれたクマのぬいぐるみは、名前の部屋にある本棚の上に飾られているものと同じであった。

ここは幼い頃の名前の部屋を模しているのだろうか、と水心子は考える。
幼い名前は、水心子が目を覚ましたことを喜んだような顔で「あなたはどうしてここにいるの?」と問いかける。夢の中の仕組みがどうなっているのかわからないが、水心子のことを覗き込む少女は、水心子のことを知らないようだ。水心子が「ここは貴方の部屋なのか?」と問えば、すぐに頷く。

「どうしてわたしの部屋で寝てたの?」

 水心子に興味があるようで、幼い名前は顔をぐっと近付ける。教えて、と再び肩を揺すられ水心子は少し困ってしまう。少女は好奇心旺盛のようだ。

「我が主を、助けるためだ」
「ワガアルジ……?」
「あ、えっと……わ、私の……好きな人で」

 そう言えば、少女は突然「嘘!」と大きな声を出した。頬を染め、目を大きく開けて、「誰? 教えて!」と言いながら水心子の肩を強く揺する。強く揺すられたことで水心子の頭から帽子が落ちる。

 そこで漸く、水心子は自身が戦闘着で名前の夢の中に入り込んだことに気付く。刀はどこにもなく、何かあったら不味いなと考えながらも水心子は幼い名前に強く言うことが出来ないまま揺すられていた。
もう揺すらないでくれと言おうとしたところ、幼い名前が「あれ?」と手を止め、首を傾げる。

「ここにいるのはわたしと……もう一人お姉ちゃんがいるだけだから……もしかして、あなたはお姉ちゃんが好きなの?」
「お、お姉ちゃん?」

 未だ状況が掴めないまま新たに「お姉ちゃん」という存在が明かされる。水心子が「お姉ちゃん?」と言って首を傾げると、幼い名前も「お姉ちゃん」と繰り返す。
幼い名前は、何か考えたように視線を右往左往させてから「お姉ちゃんは最近、悲しそうにいつも泣いてるよ」と俯く。「部屋も暗いの。前はもっと遊んでくれたのに」と悲しそうな顔をするのを見て、その「お姉ちゃん」が今の名前なのでは、と水心子は考えた。

「ああ、きっとその『お姉ちゃん』が私の好きな人だ。悲しいことがあったと聞いているから」

 会えば何かわかるかもしれない。その思いで水心子が「『お姉ちゃん』のところに案内してくれないか」と聞けば、幼い名前は目をぱちくりさせてから力強く頷いた。いいよ、と言って胸を張る姿が子どもらしくて可愛らしい。

自然と口角が上がっていることに気付いて水心子は真面目な顔を作るも、幼い名前は水心子の表情には気にも留めず、新たなおもちゃを見つけたように目を輝かせた。そして、内緒話をするように水心子の耳元に口を寄せる。

「案内してあげるからさ、お姉ちゃんのどこが好きか教えてよ」

 教えてくれたらちゃんと案内するとでも言うような言い方に驚いて見れば、幼い名前はちょっとませた表情をして笑っている。ふふふと笑って、教えてともう一度ねだる。
 そんな少女を前に、水心子はタジタジになりながらも「愛らしい、ところ」と答えた。しかし、その言葉を聞いた幼い名前は納得がいかないとでもいうように「なにそれ」と一言。「お姉ちゃんにどこが好きか聞かれても、それは言わない方がいいと思うよ」とまで言う。

「なんかもっと、あるでしょ」

 大人ぶったような言い方に、水心子は困ってしまう。本物といっていいのかわからないものの、幼い頃の名前はませた印象だ。やれやれといった風に肩をすくめ、少女は水心子から離れた。
 初めて会った時にしていた小さなポシェットを斜め掛けにして、ドアノブに触れた幼い名前が「じゃあ、ついてきてね」と言って振り返る。水心子が頷けば、ドアがガチャリと開いた。背後にあった窓から強い風が入ってきて、少女のポシェットが揺れる。

「こっちだよ」

 ドアが開けば、そこには長い廊下があった。壁も床も白いが、壁にはいくつもの額縁が飾られている。それは少女からは見えない高さに飾られており、前をゆっくり歩く幼い名前の後に続いて歩きながら、水心子はその額に飾られた写真を見ていった。

 額に飾られた写真には、全て名前が写されている。飾られている写真を見るも、一枚も水心子に覚えのあるものはなかった。刀剣男士が写っていないのを見るに、きっとそれは彼女が審神者になる以前の一場面を写したものなのだろう。
 ランドセルを背負う前と思われる頃のものや、誕生日ケーキと一緒に写るもの。ハロウィンの仮装をしたもの、学生服を着たもの、振袖を着たものもある。勉強している姿や友達と遊んでいるもの、頬や髪に泥がついて泣いているものもあった。

 額縁に収められた写真に写る名前の年齢はバラバラで、飾られている順に法則性もないようだ。
 名前の部屋にある本棚に、アルバムらしきものが数冊置かれているのを水心子は知りつつ、実際に写真を見たことはなかった。霊力供給の際に話すことは専ら本丸で起きたことで、審神者になる以前の話を聞くこともほとんどなく、飾られたどの写真も、水心子が知らない名前の姿が映されていた。
 勝手に思い出を覗くようで申し訳ない気持ちになりつつも、水心子は名前の過去を知ることが出来て嬉しくなる。水心子は、普段よりもゆっくりと歩いて写真を見ていった。

 目を細めながら優しい表情で写真を見ていた水心子は、豪華な額縁の前に立った時、自然と足を止めた。額縁は今まで見た中で一番上等なものに見えたが、よく見ると所々傷があったり、メッキがはがれている。しかもその傷は古いものではないようで、最近出来たもののように見えた。

「……」

 足を止めた理由は、あまりにも豪華な額縁だったから――という訳では勿論ない。額縁に収められている写真が、夕日に染まった教室と思しき場所で、学生服を着た男子生徒と女子生徒が親しそうに話しているものだったからだ。

 机を挟んで向かい合う二人の前にはプリントがあり、何か作業をしていたのかもしれない。横から二人を写す写真は明らかに第三者から撮られた構図ではあるものの、自然体の二人の写真を見るに実際にこの写真が存在する訳ではないのだろう。これは夢なのだから何が出てきてもおかしな話ではない。
 頬を綻ばせて男を見る女子生徒は、名前である。あどけない様子で、水心子には十代半ば頃のように見えた。

 今よりも幼いとはいえ、名前である。名前に恋をしていると気付いてから、水心子はいろんな表情を見てきた。笑った顔も怒った顔も、照れた顔もよく知っている。けれども目の前の写真に写る名前の横顔は、見たことのないものだった。

「……」

 向かいに座る男を見る名前の横顔は、恋をした少女の顔をしていた。

「――ねえ、ここだよ」

 突然声を掛けられ、水心子は写真から幼い名前へと視線を向ける。こっち、と言って手を挙げる少女が立つドアの前まで足早に向かい、軽く頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
 幼い名前は、少し落ち込んだ様子で「ここ」と一枚のドアを指さす。「お姉ちゃん」がいるという部屋のドアは、先ほど子ども部屋から廊下へ出る際に見たものと同じであったが、よく見るとドアの下の方にいくつかの傷がついている。

「わたし、ここから先は行かない。暗くて、ちょっと怖いから」
「暗い、のか?」
「最近、いっつもお姉ちゃんカーテンしてて……暗いの。だから代わりにこれ、お姉ちゃんに渡して」

 そう言って、幼い名前がポシェットから取り出したのは白いハンカチだった。前に借りたの、とタオル生地のそれを水心子が受け取れば、少女は「絶対渡してよね」と強い口調で言う。

「わ、わかった。案内感謝する」
「いいよ、別に。お姉ちゃんに会ったら変なこと言っちゃ駄目だよ。フラれちゃうから」
「……善処する」

 善処、という言葉に首を傾げながらも、幼い名前は余程その場を離れたいのか早口で「ばいばい」と手を振って足早に駆けて行った。幼い名前の姿が見えなくなったところで小さく息を吐く。水心子は、先ほどの写真が頭にチラついて変な気持ちになっていた。
 二度程深呼吸をしてから帽子を取り、ドアを三回ノックする。「我が主、入ってもいいだろうか」と声を掛けるも中から返事はない。

 暫く待つも反応はないため、入るぞと声を掛けてからゆっくりとドアを開ければ、幼い名前の言う通り部屋の中は暗かった。照明に照らされている廊下との違いが激しく、少女が部屋に入りたがらないのも納得に思えた。

「我が主……いるだろうか。水心子正秀だ」

 部屋に一歩入ると、暗い部屋の中で何かが動いた。小さいながらも名前が水心子の名を呟く声も聞こえた。声色から、この部屋にいる名前は水心子のことを知っているようである。

「勝手に入った無礼については……その、申し訳ないと思っている」

 ドアを閉め、目が慣れればそこが本丸にある名前の私室と似た部屋だと気付く。幼い名前の部屋は洋室だったが、ここは本丸と同じく和室のようだ。名前らしき影は部屋の端にあり、座り込んでいるようだ。遮光カーテンの隙間から一筋、日差しが差し込んでいる。

「カーテンを開けても良いだろうか」
「……うん」

 カーテンを開けて、ついでに窓を開けて喚起をする。窓の外は青空で、昼時のようだった。部屋は一気に明るくなり、風が入ってくる。窓の外の景色は本丸に似ているものの、生えている植物や庭の造りを確認するとやはり実際とは少し違うようだ。
 水心子が振り返れば、名前は体育座りをして顔を膝に埋めていた。よれよれのパジャマを着ていて、髪は何日も梳かしていないようにぼさぼさだ。そこには水心子が見たことのない名前の姿があった。

 水心子がざっと見た所、部屋の掃除もきちんとされていないようだ。脱いだ服が部屋のあちこちに散らばっていて、ごみ箱もいっぱいになっている。
 目の前にいるのは確かによく知る名前で、部屋も実際の私室とほぼ同じものに見える。それなのに、まるっきり違うものを見ているようだった。この部屋が今の心の状態を表しているのならば、何日霊力を供給したって元に戻らないのは当然だと水心子は理解する。

「我が主、私が部屋の掃除をしてもいいだろうか」
「うん」
「風呂があるのなら、入った方がいい。沸かしておく」
「……うん」

 会話を拒否することはないようでひとまず水心子は安心した。
 まずは部屋を綺麗にした方がいいだろうと外套を脱ぐ。動きやすいように手袋も外し、帽子と、幼い主から受け取ったハンカチとをまとめて部屋の隅に置いた。
 水心子はまず敷きっぱなしの布団を片すことにしたが、幼い名前に案内されたこの部屋の外へ出て何かあってはまずいと考えた。何日も干していないような布団を日光の下にさらしたい気持ちはあるものの、今回はシーツを洗うのみにして仕舞おうと押し入れを開ける。しかし、目の前には何故か脱衣所があった。どうやらここも、実際の部屋の造りとは違うらしい。

 水心子は面食いながら、何も入っていない洗濯機にシーツや脱ぎ捨てられた服を入れる。押し入れがなくなっているので、布団はとりあえず畳んで部屋の隅に置いておくことにした。
 布団の傍に積んであった本は本棚に戻し、机の上に乱雑に置かれた化粧品類も仕舞って机の上を拭く。
 脱衣所の奥は風呂場になっていたので風呂場を掃除して湯を沸かす。湯が沸くまで時間があるため部屋の掃除に戻り、掃除機をかけて畳を乾拭きし、最後にゴミ袋をまとめれば部屋は見違えるように綺麗になった。

 掃除の最中も時々水心子は審神者に声を掛けた。何か食べたいものはあるのか、したいことはないか、などなど。しかし名前は首を振る。顔は上げず、俯いたままだった。

「我が主、風呂が沸いたようだ」

 すっきりするから入っておいで。
 掃除を終えたタイミングで風呂が沸いたことを知らせる案内音を聞き、名前の前にしゃがみ込んだ水心子がそう言うも、名前は「やだ」と一言。疲れた、何もしたくないと言う。その声は弱々しく、今にも泣きそうなものに聞こえた。

「我が主……」

 ぼさぼさの髪を手で梳いてやれば、少しだけ名前は顔を上げる。見れば、頬に泣いた跡がある。化粧はしていないのに涙の跡は黒い。よく見れば、額にも煤が付いたように黒い汚れがある。

「我が主、すまない」

 そう言って水心子は名前の顎を優しく持ち、顔を上げさせる。名前は抵抗することはないものの、目に力はない。涙の跡はやはり黒く、その汚れは顎の辺りまで流れたように残っている。首元にも汚れがあり、よく見れば手や腕にも似たような黒い汚れがあった。汚れに触れてみれば、水心子の指が黒くなる。擦れば、汚れは薄く広がる。煤のようだ、と水心子は思った。

「我が主、やはり風呂に入ろう」
「……じゃあ水心子が入れてよ」

 私、疲れてて、歩きたくもないよ。
 水心子の言葉に名前はポロっと涙を流しながらそんなことを言った。最初は透明だった涙も、すぐに黒く色付き頬を汚していく。
 それを見て、水心子は胸の辺りが切なくなった。こんなにも弱った名前を見たことはない。そして名前がこんな状態になるまで何も気付けず、何も出来なかったのだと突きつけられたようだった。

「わかった」

 決心した水心子は名前を抱きかかえ、脱衣所に向かう。名前を風呂場のドアの傍に座らせ、水心子は着ていた詰襟を脱ぐ。ワイシャツの袖を捲り、靴下を脱ぎ、スラックスの裾を折り、身支度を整えていった。そして謝りながら名前の服を慎重に脱がせ、その服を洗濯機の中に入れた。
 水心子は裸の名前を再び抱えて風呂場に入る。直接触れる肌の柔らかさに驚いて思わず声を漏らしてしまったが名前に反応はなく、ホッとしつつも気まずいような気持ちになった。

 置いてあったアクリルのバスチェアに名前を座らせて丁寧に髪を洗い、それが終われば顔を優しく洗う。洗顔フォームをよく泡立ててから頬を撫でるようにすれば、顔の汚れは少しずつ落ちていった。
 良かったと安心した水心子は、既に服をびしょびしょに濡らしていた。名前は座っているだけで、あまり水心子に協力的ではなかったからだ。それでも水心子は不満に思うことはなく、名前を雑に扱うこともなかった。

 時々名前に声を掛けて注意しつつ、どぎまぎしながら体を洗って浴槽に入れてやる。これは任務だからと心に言い聞かせ、名前が不快にならないようにと細心の注意を払うものの、体を洗う間に目のやり場に困った水心子は、今までにないほど真っ赤な顔をして少し泣きそうになっていた。

 水心子は何かするごとに謝るも、名前の反応はほぼなかった。それでも、全身にあった煤のような汚れをすっかり落とし、ミルクの香りがする入浴剤が入った浴槽に名前を入れてやれば、浴槽の縁に頭を預ける名前も気持ちが良くなったのか、表情が和らいだ。
 名前が沈まないよう気に掛けながら、安心したように目を閉じている名前の頬にくっついた髪を水心子は直してやる。
 すると、名前はゆっくりと目を開けて水心子へと顔を向けた。

「水心子……ありがとう」

 浴槽の淵に手を置き、水心子に向き合うよう体勢を変えた名前は、少しだけ恥ずかしそうに笑う。その表情は、水心子のよく知るものだった。
 水心子は平気だというように首を振る。いいんだと口にした言葉は少し震えていた。よく知る名前の表情を見ることが出来て、緊張が解れたように体の力が抜けたのだ。

「貴方が元気になるのならば、私はなんだってする」
「うん、本当に嬉しかった」
「……」

 お風呂、気持ちいいなと名前は呟く。

「水心子は、私を助けに来てくれたんだね。ありがとう」
「気にしないでくれ」

 服濡れちゃったね、ごめんねと眉を下げる審神者に水心子は首を振る。名前は嬉しそうに目を細めた。
 浴室内に、ちゃぷりとお湯の音が響く。この入浴剤、良い匂いだねと名前は落ち着いた声を出した。

「……あのね、水心子。私……昔は誰もが誰かの特別な人になれるんだと思ってたの」

 その言葉を聞いて、水心子は名前が心の内を明かそうとしているのだと気付く。名前は一度視線を落としてから、再び水心子を見て泣きそうな顔を作った。

「大人になっていくにつれ、それが、違うことに気付いたの。特別な人は限られていて、私は、違うって。けど、別にそれは仕方がないなって理解した。特別でなくとも充実した日々を送れたら、それでいいって……けど」
「……」

 けど、と再び名前は口にする。瞳は再び伏せられる。水心子から見ることの出来ない瞳はきっと潤んでいるのであろう。水心子は手を伸ばし、名前の前に垂れてきた髪を耳に掛けてやった。

「少し前に研修で蜂須賀とふたりで現世に行ってたこと、覚えてる? あの時、研修まで結構時間があったから蜂須賀と喫茶店に入って、そこで……そこで、昔好きだった人に会ったの。中学の時のクラスメイトで、そこそこ話したこともあったんだよ」

 その言葉を聞いて、水心子は名前から視線を外す。名前が言っている相手が、あの写真の男だと気付いたのだ。

「その人は彼女を連れてて、なんでもないように隣の席に座ったの。席に座る前のその人と目が合ったけど、その人、私のこと忘れてたみたい。私は……すぐ気付いたのになぁ」

 はは、と名前は笑う。無理をしたような笑い方だった。

「隣で、二人は将来の話をしてた。来年挙げるらしい結婚式の話、もっと先の話もしてた……それを聞いたら私、ああそっかって。私、私は……!」

 クラスメイトに、好きだった人に忘れられたことは少しだけショックだったけど、それ以上に――と、名前は泣きそうな声を出す。その声を聞いたら水心子は思わず体が動き、名前の頭をそっと抱き寄せた。

「未来について語るその人たちは、恵まれていると思ってしまったの。当たり前に未来がくると思ってる。私は、ここ何年も将来なんて、考えてなかったから……仕事柄、いつも過去のことを考えてたんだなって、気付いて……」

 審神者になったことを後悔したことはない。これからも絶対、後悔なんてしない。けれども私は、他の人からしたら当たり前のことすらしていなかったのかって気付いてしまった――

 その言葉に、水心子は何も言えなかった。
 多分、タイミングが悪かったのだろうと水心子は思う。悪いことが重なってしまったのだ、と。名前は勿論、名前が過去に好いていた男だって悪い訳ではない。大人となり、化粧をした名前に気付かなかったのだろう。名前のことを覚えていたとしてもその男は恋人と一緒にいて、名前には共に研修まで時間を潰していた蜂須賀がいたはずだ。変に声を掛けて場の空気を悪くすることを避けた可能性もある。だから本当に、名前は運が悪かったのだと水心子は考える。しかしそれは口にすることなく、名前の頭を撫でる。

「――けど、そんなことを考える私自身も嫌だった。恵まれてるとか特別とか、優劣を考えているみたいで、嫌だった。それで多分、こんなことになっちゃったの……」

 水心子の肩口から顔を離した名前は「水心子がいろいろしてくれたから、漸くわかったよ。ありがとう」と言った。けれども今更ながらいろいろと恥ずかしいと両手で顔を隠す。名前は耳まで真っ赤に染めていた。

「我が主、貴方は敏い子だ。ずっと辛かったろうに……心の内を言葉に出来て偉かったな」

 水心子の言葉に名前は顔を覆っていた手を下ろして水心子を見つめる。名前の瞳は揺れ、綺麗な涙が溢れた。頬を流れる涙は顎を伝っても色を変えることなく、透明だ。
 暫く涙は止まらず、子どものように泣く名前の頭を撫で、偉いぞと水心子は繰り返した。

 少し落ち着いたらしい名前は、恥ずかしそうに頬を染めながらそろそろお風呂から出ると言う。そこで漸く、水心子は替えの洋服を脱衣所まで持ってきていないことに気付いた。そこまで頭が回らなかったのだ。
 水心子も上下とも服が濡れているため、名前が先に風呂を出て着替えてから水心子の服を持ってくると言う。代わりに良いと言うまで目を瞑って待っていてほしいと言う名前の申し出を聞き、水心子は待つことにした。

 暫くして、どこから持ってきたのかはわからないが、すっかり元気になった名前が水心子に新しい服を差し出した。水心子が着替えて部屋に戻った頃には窓の外は薄っすらオレンジ色に染まっており、烏の鳴き声が聞こえた。
 水心子に風呂に入れてもらったことを恥ずかしく思うのか、名前は未だに顔を染めて視線をあちこちに向けていた。照れる名前を見て、水心子は幼い名前から渡されたハンカチの存在を思い出す。そして、それを渡せばきっと名前の傷が癒えるのであろうと察した。

「我が主……」

 水心子の言葉に、名前は首を傾げる。頬を赤くしたまま、どうしたのと聞く名前の前に片膝をつき、水心子はハンカチを差し出す。

「どうか、受け取ってくれ」

 白いタオル生地のハンカチは、一見どこにでもあるようなただのハンカチに見える。けれどもそれは多分、名前が子どもの頃にどこか心の奥底へ置いていった大切なもののように水心子は思えた。そのハンカチは、以前水心子が幼い名前に渡したものと似ていたからだ。
 そのハンカチがあれば、きっと名前の心の傷は癒えるだろう。これから出来てしまうかもしれない傷からも、きっとそのハンカチが守ってくれる。その思いは、水心子の願いでもあった。

「ありがとう……まるで、王子様みたいだね」

 ハンカチを受け取った名前は嬉しそうに顔を綻ばせる。その表情は、幼いあの頃と似ている。

「我が主、私は貴方が好きだ。主として、人間として、一人の女性として、名前が好きだ。貴方の未来には私が……私たち刀剣男士がいるから決して悲しむことはない」
「うん、ありがとう」

 照れくさそうに名前は髪をいじる。へへへと笑って、嬉しいと言って。
 名前はドアを指し、そこから出たら元の世界に戻れるよと水心子に教えた。この夢の内容を起きた私はきっと覚えてないけれど、もう平気だよと真面目な顔をして。

「ありがとう、水心子」

 ドアノブに触れた水心子は一度振り返ろうと思うも、止める。部屋の窓から心地よい風が吹いて水心子の背中を押し、ドアを開けば次第に意識が遠のいていった。

20230310

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