完結
※本丸襲撃、及び刀剣破壊描写を含みます。





「なんなんだ、これは……!?」

 長義が出陣から帰城すると、そこには荒れ果てた本丸の姿があった。
 ばさりと、長義が手にしていた花の束が落ちる。青いリボンで纏められたその花束は、ムスカリと呼ばれる青い花をメインにしたブーケで、長義が夕飯前に審神者に渡そうと思っていたものだった。


 出陣前、堀川国広によって干されていた白いシーツが地面に落ちて泥まみれになっている。足元の石畳には泥で汚れた見慣れぬ足跡がいくつも残っている。池の近くに植えられていた桜の木の枝が折れている。本丸へ視線を移すと障子戸が壊れ、窓ガラスは割られ、あらゆるものが壊れていた。

 長義が目にしたのは、時間遡行軍に襲撃された本丸の姿だった。
 鉄屑があちこちに散らばり、畑は踏みつぶされている。空気が淀んでおり、気分が悪い。
 辺りに血が飛び散っていることに気付き、長義は急いで審神者の姿を探した。

 長義が向かうところには必ず、よく見知った物が落ちていた。それを目にする度、長義は言葉にすることの出来ない感情が腹の底から湧き上がってくるようだった。視界を閉じ、歯を喰いしばる。
 あの時に似た感情だ、と長義は胸の辺りを抑える。翡翠色の瞳を持つ己の写しが、まっすぐにこちらを見据えて喋ってきたあの時と。
 泥と血で汚れた畳の上にも、刀傷がついた廊下にも、銀色の鉄屑が散らばっている。

「……くそっ」

 耳の奥で耳鳴りがして、呼吸はどんどん浅くなっていく。辺りが静かすぎるせいか長義は自分の呼吸音が普段よりもずっと大きなものに感じた。
 長義が本丸にやってきてから、ただの一度もこんな静かな本丸はなかった。夜でさえ、虫の音や風の音が聞こえていたのだから。
 夜、仕事をしている審神者の手伝いをしようと部屋に向かう途中、刀たちが賑やかに酒盛りをしている部屋の前を通ったことがある。仕事が終わった長義が自室へ戻る途中、障子戸の奥から聞こえる寝息に気付いて足音に気を付けたこともある。
 絶えず、本丸には音があった。だが今、そういった音は一切聞こえない。

「くそっくそっくそっ」

 障子が破れ、見知った戦装束が散らばり血に染まっている。
 橙色の鉢巻が、青いネクタイが、畳の上に散らばっている。
 忘れたくとも忘れられない刀が一振り、畳に刺さっている。
 切っ先は畳に刺さっているが、二つに折れてしまったらしく柄の部分は傍らに転がっていた。

 酷いものだと、長義は思った。
 音のない部屋で折れたものを見て、怒りが込み上げてくる。あの時、あんなにも達観した顔をしていたのに、どうしてそんな姿になっているのだと長義は思った。
 また話をしようと言った山姥切国広と、長義は結局話らしい話をしていない。しようとも思わなかった。話をしても山姥切国広の言葉なんて納得出来そうになかったからだ。
 いや、納得なんてしたくもなかったのだ。

 理解したくなかった。わかってしまったら、長義は自分が自分でなくなってしまうような気がした。
 それでも、写しである。同じ主の下で生活した本丸の仲間である。関係ない間柄ではないし、本丸の古株である山姥切国広のその強さを長義は認めていた。
 あんなことを言っておいて何故こんなところで勝手に折れているのか。そう問いただすことすら出来ないのだと長義は気付く。

「話をしようと言ったのは、お前なのに――」

 これでは俺の方が話をしたいみたいじゃないか。
 返ってくる言葉はないと知りつつも、それでも長義はその折れてしまった刀に言葉を投げかけた。

 進んだ先の別の部屋の壁には血の手形があった。大きさと高さからいって短刀のものだろう。その傍にも小さな刀が転がっている。刃こぼれが激しく見るだけで胸の辺りが痛くなり、長義は唇を噛みしめた。
 審神者が普段仕事で使用している部屋に近づくにつれ争った形跡は激しく、部屋の破壊はより大きくなっていった。
 切れた数珠玉が散らばっていたり、籠手が落ちていたり、切られた紐が踏まれていたり。見るも無残な本丸の奥へ向かえば、長義が探していた女が茶色く錆びた刀に腹を刺され、倒れている。

「……」

 横たわった女の傍らに寄るも、反応はない。伸ばした長義の手は震えていた。主、と口にしようとするも声が出ない。唾を飲み込もうとしても上手くいかず、口の中が渇いていることに気付いた。
 濁った色をした女の瞳は、長義の美しい瑠璃色の瞳を見ることはない。
 認めたくない出来事が目の前に広がっている。
 顔を上げた長義は漸く気付く。

 その場所は、監査官として本丸にやってきた時、長義が審神者と初めて対面した部屋だった。

   〇

「聚楽第、監査がどんな感じなのかわからないけど、いけるとこまでいこう」

 監査官として本丸に赴き監査の説明をした後、開口一番近侍の歌仙兼定に言った名前の第一声を長義はよく覚えている。迷いのない声だと思った。真っ直ぐな瞳で歌仙を見る瞳が綺麗だと思った。そして、やはり噂の通りだと長義は思った。
 長義が監査をする特命調査は過去の任務と異なり、賽を振って出た目の数しか進むことが出来ない。任務の詳細を伝えていない段階での名前の力強い言葉に長義が少しばかり申し訳なく思いながら言葉を続けていたことを名前は一生知ることはないのだろう。

 長義の今の主は、決して無茶な戦いはさせないし馬鹿でもない。だが、考えるより先にまず力でなんとかしようとする戦い方が多いことに長義が気付いたのは、特命調査で本丸に足を踏み入れるよりも前のことである。
 今回「優」を与えるだけの力のある本丸だと判断したようだが、だからといって文句のない優秀な本丸というわけではない――特命調査の後、長義が政府の職員に言われた言葉には何一つ間違いはなかった。ただ、その言葉を聞いて妙に引っかかるものがある理由を、その時の長義には理解が出来なかった。


「お前、もう少し言い方とか態度とか、どうにか出来ないのか……にぁ」

 ある晴れた日のこと。長義はその日も審神者と共に仕事をこなしていた。
 名前が実家から電話があったからと部屋を出たところでカルピスが入った三つのグラスを盆に乗せて持ってきた南泉が立ったまま長義を見下ろして言う。苦虫を噛み潰したような顔をして理解出来ないとでも言いたげだ。

「ああ猫殺しくん、審神者に対する態度のことを言っているのかな? でも、特別酷い扱いをしているとは思っていないけど」
「お前はそう思ってるのかもしれねぇけど、こっちとしては言いたくもなるんだよ」

 不可、と長義が口にすれば名前が口を尖らせ眉を寄せるのを南泉は何度も見ている。長義が日々添削している文章だって誤字こそあれ、ここ数ヶ月で随分良くなった。

「お前だって主に嫌われるのは本心じゃないだろ」
「……それは確かに本心ではないけれど、けれども別に構わないよ。あの子の評価が良くなるなら、俺への好意なんて惜しくない。いつも言ってるだろう? 持てる者こそ与えなければ、と」

 なんでもないように言う長義を見て南泉はため息を吐く。
 前から南泉は思っていたが、長義の名前への愛情は回りくどいにも程がある。腰を下ろして南泉が机にグラスを置いていくと、長義は軽く礼を言ってグラスを手に取った。
 誰これ構わず「与えている」訳ではないことに、こいつ自身は気付いているのか。いや、きっと気付いていない。お前のそれは主に対しての忠誠心だけじゃないだろ――と言いたい気持ちを飲み込むために南泉はグラスを手に取った。

「嫌われても後悔すんなよ。泣いても慰めてやんねーからな」
「ああ、肝に銘じておくよ」

 本当にわかってんのか、と思いながら南泉はもう一度大きなため息を吐く。
 遠くから聞こえる名前の足音に気付いて顔を上げれば、長義も同じように顔を上げたようで瑠璃色の瞳が南泉を見ていた。その瞳が明らかに嬉しそうに細められているので南泉は胸の辺りがむず痒くなる。気を紛らわせるように視線を外してカルピスを一気に飲み干せば、カルピスが瑠璃色の瞳を思い起こさせるような甘さで南泉は余計に困ってしまった。

 政府から監査官として赴く本丸を伝えられた時、自分が担当する本丸について調べるのは当然のことだと長義は思った。そうして調べあげたことでわかったのは、戦は出来るがそれだけの本丸という評価だった。
 ある役人は、お眼鏡に叶う審神者であったならば喜んで支援するのにと言った。戦に勝利した数だけでいえば優秀かもしれないと、わざとらしく肩をすくめる者もいた。審神者にもっと品があれば優れた素晴らしい審神者になれただろうに、と嘲る政府関係者もいた。
 長義はそれを聞いた時、人間に一度失望した。
 自分がこれから向かう本丸の評価に哀れみすら感じた。

「山姥切長義くん。もしかして君は、あの脳筋審神者のところに監査かい?」

 とある職員にそう笑われた時、こめかみの辺りがぴくりと痙攣したことを長義は今でもはっきり覚えている。面白おかしく話す職員の顔は既に朧気だが、声だけは耳に残ってこびりついたようだった。嘲笑の入った嫌な声で、その言葉を思い返す度に長義は嫌な気持ちになる。
 苛立ちをぶつけるように自分が赴く本丸について調べ、過去に提出されていた書類を片っ端から読んでいった。
 建物の地下にある書類庫に初期の頃に提出された書類もあると聞かされ、掃除が行き届いていない薄暗い階段を下りて書類庫へ初めて訪れた時、長義はいずれ特命調査に赴くという源清麿と出会った。頼まれているわけでもないのに書類庫の整理をしているような口ぶりだったので、目的である本丸の書類について長義が尋ねれば、清麿はすぐに部屋の奥の方にあった棚まで長義を案内した。

「ここがそうだよ。この本丸は本当に興味深いんだ」

 その言葉に動揺した長義に構うことなく目を細めて笑みを作った清麿は「審神者の指揮がね、大雑把に見えて案外基本に忠実なんだ」と言った。

「失敗も確かにあるけれど、何も知らない子じゃない。彼女のことを知れば知るほど会ってみたいと僕は思ったよ」

 棚に仕舞われたファイルに長義が手を伸ばそうとしたところで隣にいた清麿がそんなことを呟いた。驚いて顔を向ければ清麿は笑って「それじゃあ」と背中を向けて行ってしまう。

「なんなんだ……」

 ここまで案内してくれたことは有り難いことだが、好き勝手喋って行ってしまった清麿の後ろ姿を見ながら長義はパチパチと瞬きを繰り返す。しかし、礼を言っていなかったことに気付いて戻っていく清麿に礼を言えば、清麿はゆっくりと振り返り、嬉しそうに笑って行ってしまった。
 案内された棚には多くのファイルが仕舞われており、その中でも一番古いと思われるものを取り出して表紙を捲る。そこには、審神者になる際に提出されたらしい書類が綴じられていた。その書類に貼られた証明写真を見つけた時、長義は目を見張った。

 政府関係者から散々話を聞かされてきた長義は、並外れた武力の持ち主が審神者をしているのだろうと想像していた。さぞ自信に溢れた顔をしているのだろうと、そう思っていた。
 だから驚いた。
 制服姿でぎこちない笑みを浮かべる少女は、あまりにも想像とかけ離れた普通の女の子だったのだから。

 会ったことのない審神者のことを考えると複雑な感情を抱いた。戦は出来るようだから将来自分が仕える可能性は十分に高いということも長義は理解していた。
 政府関係者の耳障りな声を忘れるため、長義は再び資料を読み進めることに集中し、本丸を訪れる日を待った。

 そうして監査官として本丸に赴いた長義は政府から与えられた仕事をこなし、規則通り「優」を与え、山姥切国広の本歌、山姥切長義として本丸の仲間に迎えられた。

 勢いと強さで殴りにいくような戦闘を好む本丸であったが、決して馬鹿な審神者が指揮している馬鹿な本丸ではない。本丸で生活していくうちに、政府が影で言うような汚名を返上させてやりたいと長義は思うようになった。

 決してあの子は馬鹿ではない。
 長義は真面目に書類を読んでいる時の審神者の横顔が一等美しいことを知っている。
 あの子はただ知らなかっただけだ。
 長義がやってきたことで審神者が少しずつ変わろうと努力しているのを知っている。

 高校を卒業してすぐに審神者となり、刀に囲まれる生活を送っていた名前は、確かに政府が求めるような人間ではなかった。あそこの審神者は学生気分が抜けてないと笑われていたこともある。
 真面目に努力をし、一定の水準を保って戦う本丸を何故馬鹿に出来るのか、長義にはやはり理解が出来ない。危険に晒されるリスクが低い場所で働く政府の人間たちが、危険と隣り合わせで働く女の子を笑う道理があるものか。ある日、名前が書類を読む横顔を見ながらそんなことを考えた。

 戦をさせているのは政府のはずなのに、戦は出来る審神者を馬鹿だと笑う。そんな政府に不満を抱いていった長義は、気付かないうちに名前を好意的に見るようになっていた。
 主のことが好きだと長義が気付いたのは、腹を刺されて倒れている名前の顔を見た時だった。


   〇


「すまない。寄りたいところがあるんだが、ここから別行動でも良いだろうか」

 新たなる時代へ出陣し、出現していた時間遡行軍を倒した後、名前がよく足を運ぶ万屋へ立ち寄ったところでそんなことを言い出したのは、ここ半年近侍を務めあげている山姥切長義であった。

「手当てはしたが、帰って大将に手入れしてもらった方がいいんじゃないか?」

 出陣先で使い切ってしまった道具を補充したかった薬研が提案したため寄り道をすることになったが、晒された太ももに巻かれた包帯に血が滲んでいるのも気にしない様子で買い物を続ける君が言うのかと思いつつも燭台切はやり取りを見守る。

「確かにそれに越したことはないんだが、実は少し先にある店に寄る用事があってね。駄目かな?」

 薬研が傍にいた歌仙をチラリと見やり「まぁ、歌仙がいいならいいんじゃないか」と言う。歌仙は僕に投げないでほしいな、という顔をさせながらも「まぁ、そういうことなら構わない」と言った。歌仙のその言葉に長義は随分と表情を明るくさせ「本当かい? 助かるよ。恩に着る」と丁寧なお辞儀をしてみせた。
 近侍である長義は第一部隊の隊長でもあるため、本来であれば別行動は推奨されない。だが、既に任務を終え、帰城途中であったことから他の面々も異議を唱えることはなった。
 燭台切は、歌仙から許しを得た長義の嬉しそうな表情を思い出しながら「ねえ、燭台切」と声を掛けてきた歌仙へと視線を向ける。

「驚いたね。彼が、ああいったことを言ってくるとは思わなかった。仕事に対しては真面目すぎるきらいがあるだろう」

 その場を去っていく長義の背中をぼんやりと見ながら呟いた歌仙に、燭台切は「本当にね」と頷いた。


 万屋から少し離れ、人気のない裏道にあった小さな花屋に到着した長義は、一呼吸置いてから店に足を踏み入れ「すまない」と、奥で作業をしていた店員に声を掛ける。

「ああ、山姥切長義さん」

 声に反応し、エプロンについた葉を手で払いながら出てきた店員は長義を目にして表情を綻ばせる。

「実は、審神者に花を贈りたいんだが……」

 長義の言葉に店員はゆっくりと頷いた。「審神者さまの誕生日でしょうか?」と聞かれ、長義は突然照れくさくなった。

「ああ、いや、誕生日ではない。そういうのではなくて……」

 ごまかすように咳払いをし、名前へ花を贈ろうと決めた経緯を大雑把に伝える。すると店員は、自分が教えるから長義自らブーケを作ってみるのはどうかと勧めてきた。その方がきっと喜ばれるという言葉に思わず二つ返事をしてしまうほどに、長義は名前に喜んでほしいと思う気持ちが強かったことに気付かされる。恥ずかしく思いながらも名前の笑った顔を想像して「それでお願いしようかな」と、平静を装った。
 後から考えれば、長義の話には随分と必要のない情報が多かったが、花屋に入ったのも名前への贈り物も初めてだった。長義は、長義が思っている以上に緊張していたのだ。

 どうぞと笑う店員に頷いて奥へと足を進める。こういうことが時たまあるのか、既に準備が整えられているようだった。部屋の隅に置かれた机には新聞紙が敷かれ、真新しい白い雑巾と鋏が置かれている。

「早速始めましょうか。それでは、まずはこちらのエプロンをどうぞ」
「ああ、宜しく頼む」

 店員の言葉に頷いた長義は戦闘で汚れたストールを取り、ジャケットを脱いで店員から渡された黒いエプロンを付ける。机の傍らにあった背もたれのない椅子に座れば店員は楽しそうに軽くお辞儀をして説明を始めた。

 花の香りに包まれた長義の心は戦場で味わうものとは全く異なる高揚感でいっぱいだった。色とりどりの花に囲まれた長義は、一つのバケツに入れられた青い花を見て思わず名前の顔を思い浮かべた。
 あれを入れたら、どうだろう。
 傍に立つ店員の話を聞きながらも意識は既に名前と、名前に贈る花へと向かっていた。

「君のところの審神者は随分と頑張っているそうじゃないか。いやあ私は前から彼女には期待をしていてねぇ」

 先日、審神者と共に万屋へ買い物に出たところ、長義はとある政府関係者から声を掛けられた。
 話によれば、多くの審神者が利用するこの街に視察に来たのだと言う。挨拶もほどほどに、買い物を続ける名前のもとへ向かいたい長義の気持ちに気付く様子のない男は、わざとらしく声色を変えて先の言葉を言った。その言葉を聞き、長義は一瞬眉を顰めるも、口元に微笑を浮かべ礼を言う。その後もいくつかの話をしたものの、何を話したのか長義は覚えていない。
 政府の評価に変化があったのだと察するも、男の言葉を長義は素直に喜べなかった。わかっているような口ぶりで己の主を褒めるのが許せなかった。
 散々馬鹿にしていたのを知っているぞと言えば、この男はどんな顔をするのだろう。そう思いながらも長義は表情を変えずに対応を続けた。俺があの子の評価を下げてはいけない――その一心だった。

 政府関係者の手のひらを反すような言葉に苛立ちはしたものの、名前の評価が高くなることは喜ばしいことだと長義は思った。そのため長義は普段厳しい態度を取っている名前にせめてもの償いとして、そして名前の努力の成果に誉として花を贈ろうと考えた。
 普段利用する万屋からそう遠くない場所にあるこの花屋は、知識と経験のある店員が客の要望に応える確かな接客をしてくれるらしい。
 そういうところなら良いだろう。そう考えた長義は、思い立ったが吉日とばかりに寄り道を決めた。今日の少し変わった言動は、これによるものだった。

「ムスカリという花には失望という花言葉があるんですが、それと同時に明るい未来、なんてものもあるんですよ。山姥切さんが選んだお花は、今の貴方に合っているような気がします」

 悲しい花言葉はありますが、きっとあなたなら大丈夫ですよ。
 ブーケを作り、店を出る時にそう言った店員の言葉が頭を過る。
 慣れない作業ながらなんとか作り上げたブーケは本丸に戻ってきた時、地面に落としたまま置いてきてしまった。見せる相手も贈る相手も既にいないのだからいいかと思いながら倒れた女の傍に膝をつく。
 長義は女の開いたままの瞳を優しく閉じてやり、乱れた服は直し、口元の血をハンカチで拭い、汚れを優しく払ってやった。髪を撫で、頬を撫で、長義は最後に女の唇に触れる。初めて触れた女の唇は固く、長義は己の唇を噛みしめながら零れる声を殺すように自分の腕を口元に持っていく。

「名前……」

 終ぞ、本人に向けて発することはなかった女の名を口にするも勿論反応はなかった。

「痛かったね」

 汚らわしい刀を抜いて外へ放り投げれば刀が庭の石にぶつかり折れる音がした。

 パキリ。

 その音は、山姥切長義の心が折れる音のようだった。
 監査官として本丸に初めてやってきた日を思い出す。
 山姥切長義として本丸にやってきた日を思い出す。
 本丸にただ一振り。
 主のいない俺は、次は何になるのだろう。


「待っていてねと言ったのは、聞こえなかったのかな」

 長義は動かなくなった女の横に胡坐をかき、女の顔を見る。腹から血を流していなかったら寝ていると勘違いするような姿に長義は手を伸ばすも、触れることなく戻した。
 何故、という言葉が長義の頭の中を巡る。
 ジャケットの胸ポケットに仕舞っていたお守りを取り出し、それを握りしめた。
 それは、長義の最初の出陣の際に名前が長義に渡したものだった。

 ――長義の行く末が幸せなことを願って。

 名前がそんなことを言っていたことを思い出した長義は、俺は君が幸せでいることをいつも願っていたよ、と心の中で呟きながら再びお守りをジャケットへと仕舞った。

 しかし、時間が経ってくると長義には疑問が浮かぶ。
 果たして、うちの本丸が襲撃されて全滅するだろうか、と。
 政府関係者からは脳筋審神者と呼ばれ、戦しか出来ないと馬鹿にされた本丸がこんなにもあっさりと敗れるだろうか。ただ一振りも生き残っていないなんてことが本当にあるのだろうか。

 いや、あるはずがない。
 そもそも内番でもないのに道場で手合わせをし、兄弟刀と筋肉がどうとか言ってる写しがあんな簡単に折れるわけがないだろう。
 この本丸の刀が、敵襲を確認しながらも主を一人にさせるはずがない。
 夜の脱衣所に出た百足に驚いて叫び声をあげる名前に異様な速さで集結したあの刀たちが、主として認める存在にこんな最期を迎えさせるわけがない。
 破壊を尽くした本丸の様子を見るに激しい交戦をしたようだが、それでも一振りは必ず審神者を守ろうとするはずだ。
 そもそも初期刀を歌仙兼定、初鍛刀を小夜左文字とするこの本丸が簡単に敗れる未来などあるものか。

 なら、これはどういうことだ?
 ここは、本当に俺のいた俺の本丸なのだろうか。
 一つの疑問はすぐに別の疑問を生んでいく。
 女の顔をもう一度見る。よく知る顔だったが、確認するために長義は女が着ていたワイシャツの袖元を捲る。

「……」

 女の手首に腕時計がないことを確認し、ゆっくりと腰を上げる。鯉口を切ると、女の閉じていた瞳が突然開き、長義を見てにやりと笑った。

「化け物め」

 長義は片方の口の端を上げ笑う。
 これは、自分の主ではない。
それがわかると、長義は目が覚めたように冷静になれた。
 髪を耳に掛け、ソレを見下ろす。

「狐か狸にでも化かされているのかな」

 時間遡行軍がこういったことをするとは聞いたことがない。そうなると、妖の類だろうか。まあなんにせよ、こんな世界を見せられて気分が良いものではない。そんなことを考えながら長義はゆっくりと刀を抜き、構える。
 少しでもこの世界を本物だと信じてしまった己が恥ずかしく、そしてそれを上回る苛立ちが長義の胸を占める。起き上がる様子もなく、ただにやりにやりと笑う顔を見ていると、普段名前に抱いていた慈しむ感情を少しでも与えてしまったことに後悔した。
 あの子に与えるべき気持ちを、こんなものに与えてしまうとは。

 あの子はこんな顔をしない。
 あの子はもっと愛らしい表情をする。
 ああ、よく見れば全然違うじゃないか。
 霧が晴れるように感覚ははっきりしていく。

 目の前のソレも、気付かれたのなら仕方がないと思っているのか、おどろおどろしい気配を隠すことなく長義へ向けた。

「妖でもなんでも、それこそ山姥であっても関係ない。俺は今からお前に死を与えるだけだ」

 審神者のふりをしていたソレは、一層目を細めて笑った。切られることを望むように、楽しそうに。
 静かだったその場所に、いつの間にか風が吹き始める。冷たい風は木の葉を揺らし、どこからか汚れた布が飛んでいくのが見えた。ざわざわと一気に騒がしくなった世界とは逆に、長義の心は一気に落ち着いていく。
 偽物とわかれば躊躇など一切ない。ただ、向こうがそれを望んでいるような様子に長義は納得がいかない。何が目的かわからないが、斬らないわけにもいかない。
 今やるべきことは審神者に化けた目の前の妖を斬るのみである。

「俺は優しいからね、お前に教えてあげよう。俺の主はそんな下品な笑い方なんてしない。それに、いつも腕時計をしている」

 まぁ、教えたところでお前が再びあの子の顔を真似ることはないが。
 嘲笑して言う長義は刀を振るう。例えソレが己の主に姿を変えていようとも迷いはなかった。
 本物でないのだから躊躇する気持ちは生まれるはずもない。
 にやりにやりと笑う顔がやはり汚らわしい。
 不快で仕方がない。
 斬った途端、斬った部分から黒い靄が溢れ長義の体を覆っていく。

「ぐっ」

 長義の体を靄が覆っていく中で、主の姿をした偽物の口が形作ったものが「ちょうぎ」という己の名だったことが腹立たしくて仕方がない。ここでも「長義」か、と舌打ちをする。
 主の偽物に「山姥切」と呼ばれても腹が立つであろうことは長義自身十分承知の上で「ふざけるな」と声を荒げる。
 靄が辺りを覆い徐々に視界が悪くなっていく中、下品に細められていた目元が見えなくなったことで己の名を形作った口元は残酷なほどに名前と似ていた。それがまた長義の気持ちを苛立たせた。
 纏わりつく靄により体がどんどん重くなり、長義の意識は薄れていく。意識を手放す瞬間、名前のことを思い出して会いたいと、帰りたいと、心から思った。
 あの子に名を呼ばれたい――長義がそう思ったのは、名前の刀となって初めてのことだった。

20220411
Thank you very much!(10周年&30万打企画)

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