完結
 放課後、買い出しに付き合ってほしい。

 お昼休みに入ってすぐ、クラスメイトからそんなメッセージが届いた。教科書やノートを仕舞ってから、勿論と返事をする。
 ビデオ通話でやり取りをしているものの、文化祭の準備を手伝えない状態は心苦しい。平日は一人で出来る作業をして、休日は人一倍仕事をするつもりで頑張っているけれど、その気持ちは晴れることはない。放課後に経営科の寮で友人たちが準備している様子を画面越しで見ていると申し訳なくなる。その分当日は励むつもりだし、こうやって連絡がくれば喜んで引き受ける。
 けど、みんな本心では何を思っているんだろうと、時々考えてしまう。

 食堂に向かうためにお財布を鞄から取り出し、待ってくれている轟くんに放課後は経営科に行きたいと言えば、彼は「授業が終わってからでいいのか?」と私に確認を取る。それで平気だと頷きながら「良さそうな空き教室があったら、そこで無効化すればいいかな」と言えば、彼はそうだなと呟く。

「突然ごめんね、有り難う」

 朝、響香ちゃんが「今日は体育館で通しなんだ」と言っていたから、轟くんは寮に戻るのが遅いかもしれない。見てみたかったのだけど、仕方がない。
 教室を出ると、ガラス越しにどんよりとした雲が空を覆っているのが見えた。今日は夕方から雨が降るらしい。

「名字」
「なに、轟くん」
「……なんでもねぇ」

 拗ねたように言う轟くんの声に胸がぎゅっと締め付けられる。
 どんな顔をしているのか想像をしてみる。声色から、無表情ではないだろう。もしかしたら少し怒っているかもしれない。もしかしたら悲しい顔をさせてしまっているかもしれない。そう思うと、心臓の辺りが苦しくなる。

 部屋から脱出するために轟くんとキスをして以来、私は轟くんの目を見て話すことが出来なくなっていた。
 彼から話しかけられると嬉しくて、色違いのあの綺麗な瞳を見たいと思う。優しく名を呼ばれれば、彼がどんな表情をして私のことを呼んでくれているのかを想像してしまうほど心浮かれる出来事なのに、返事をする時の私はそっぽを向いたまま。そのせいで轟くんは少し不満げだ。
 彼が不満に思うのは当然だと思う。けれども顔を上げてしまったら、私はきっと今までのようには出来ない気がした。
 あの時のことを思い出して既に溢れ出そうになっている好意を伝えてしまうんじゃないかと考えてしまう。好きだと、そう伝えてしまうんじゃないか。そうなってしまうのが、とても怖い。

 昨日からそんな調子だからか、A組のみんなも何かあったんじゃないかと心配しているようで、何か言いたげな様子だ。
 轟くんと一緒にいたい。話をしたい。そう思うのに、今はほんの少しだけ、早く赤い糸が切れてしまえばいいのにと思ってしまっている。そうすれば彼にこんな不誠実な態度を取ることはなくなるし、A組のみんなに要らぬ心配を掛けることもないだろうから。

   〇

 放課後、雄英から一番近いホームセンターまで買い出しに来た私は、託されていたメモを片手に歩き回っていた。クラスメイト数人でやってきたものの、書かれている品を確認すれば置かれているフロアが違うことに気付き、それぞれ分担して探すことになったのだ。
 ホームセンターにやってきて十数分。お目当ての品を見つけ、カゴに入れて立ち上がろうとするも、突然背中に衝撃を受ける。

「おねーちゃん!!」
「えっ……?」

 少し前にも似たようなことがあったなと思いながら振り返れば、驚いた顔をした小さな女の子がいて、みるみる顔を赤くして目に涙をためていった。
 あれ、これ泣いちゃうやつでは、と思いながら殊更声を優しくするよう努めて「何か探し物?」「どうしたの?」と声を掛ける。まだ小学生にもなっていないような女の子にどう対応をすればいいのかわからず、なるべく怖くないように笑ってみるも、努力は実らず泣かれてしまった。

「わー、ごめん。ごめんね」

 誰かと勘違いしたんだろうか。
 雄英の制服を見て“おねーちゃん”だと思って抱き着いたのに、振り返ったら全く知らない人だったら、小さな女の子が混乱して泣いてしまうのも理解できる。
 泣きじゃくる女の子に平気だよ、大丈夫だよと繰り返して背中を撫でるも効果はない。こんな時どうすればいいんだろうと困っていると、女の子に触れていた右手に突然電流が走った。

「んっ!?」

 バチッと流れた電流に驚いたのは女の子も同じようで、静かになって私の顔を見つめ瞬きを繰り返す。涙に濡れた目も、頬も真っ赤だ。
 そんな瞳に再び涙を溜め、顔を手で覆った女の子は、より大きな声で泣き始めてしまった。

「おねーさん、ごめんなさい、また、やっちゃった、また悲しくなっちゃう」

 しゃっくりをあげながらそう言って、泣きじゃくりながらお母さんと叫んだ女の子は駆けていってしまった。嵐のような出来事に思わず床に座り込む。ピリピリと、指先はまだ痺れている。
 あの電流は、あの子の個性なんだろうか。電流だから上鳴くんみたいなものなのかな。そんなことを考えながら腰を上げれば、背後から足音が聞こえた。

「あら、雄英の子だわ」

 カゴを持とうとした瞬間、後ろからよく通る声が聞こえた。その声に、痺れている指先がぴくりと反応する。
 突然のことに驚いて振り返ってしまいそうになるも、どうにか留まる。息をゆっくりと吸って吐くも、上手くいかない。

「ええ? どこ」
「ほら、あそこ。……そうそう、近所にも雄英の子がいるのよ。でも無個性なの。無個性で雄英よ」

 体は石になったように固まってしまったのに、鼓動は速くなっていく。どくどくと、耳元で心臓が鳴っているかのように煩い。
 どうしてあの人がここに。こんな場所で、何を。ありえない出来事に、理解が追いつかない。よく知る声に息苦しさがどんどんと増していく。

「無個性で雄英なんて本当なの?」
「ヒーロー科じゃないって言ってたもの、そりゃそうよ。でもその子の母親がね、最初は雄英行かせる気なかったのよ。無個性だから、ほら、可哀想でしょ。周りはみんな優秀な個性持ってるんだもの。そりゃあ親ならそうよね、子どもに悲しい思いなんかしてほしくないもの。優しいのよ、その子のために家の中ではみんな個性を使わないし、ヒーローの話題は出さないんですって。ヒーローになりたいなんて言って、あなたはヒーローにはなれないのよなんて、言えないからって聞いたの。そりゃそうよね、無個性なんだもの」

 同情するような喋り方で噂話をする。その声の主に覚えがあった。顔を見なくてもわかる。その人のことが、私は昔から苦手だった。
 家の近所に住むその人は、私たちの世代で無個性は珍しいと知るや否や励ますように「無個性なのに偉い」などと言って学校へ行く私に声を掛けてきた。ワイドショーで無個性の学生が不登校になった話が取り上げられたのがきっかけだった気がする。それ以降、その人たちの世代では無個性が特別珍しいわけでもないはずなのに、まるで知ったようなふりをして、私のことを理解している風なふりをして、同情するように「無個性が」「個性が」と話しかけてくるようになった。
 お節介で噂話が好きな人だった。一人暮らしで寂しいのよと母は言っていたけれど、だからといって納得出来るわけではなかった。

「今の子の世代で無個性は珍しいって言うでしょ、本当に可哀想よね。無個性なんて、ほら、本当に何も持ってないんだもの」
「そういえば、テレビで『個性特異点』ってのを話してるの聞いたことあるわ。『個性婚』って問題になったけど、けどそういうことなのよね。最近の子たちって強い個性を持ってるって言うし。無個性だから結婚出来ないとか、そういう話まで出てきてるそうよ」
「あら、そうなの。大丈夫かしら心配だわ」

 何を言っているのか、わからない。この人たちは、何の話をしているんだろう。
 可哀想だと繰り返し、同情し、理解しているといったふりをする。
 可哀想にと私を見る目が嫌いだった。無個性だからと始まる言葉に耳を塞ぎたいと何度思ったか、この人たちはきっと知らないのだ。

「本当に心配。だって、無個性なんだもの」

 耳鳴りがしてきた。足元に力が入らなくて、何も考えたくなくなってきた。


 しばらくして、声の主たちは去っていったのか辺りは静かになっていた。
 ゆっくりと息を吐き、何するんだっけと足元を見て、ああレジ行かなきゃと思い出す。
 傍に置いておいたカゴを持って会計へ向かう途中、特徴的な赤と白の頭が前を通ったことに気付いて立ち止まる。轟くんと声を上げそうになるも、それよりも先に彼の後を追う存在に気付く。

「すみません、ヒーロー科の轟焦凍さんですよね? 私、体育祭見てたんですよ〜」
「はぁ」
「あの時からファンなんです」
「有り難うございます」

 他校の生徒から話しかけられてしまったようだ。少し違和感を感じながら、私は咄嗟に棚の影に隠れる。
 どうしてホームセンターに轟くんがいるんだろう。今日は体育館で練習のはずなのにと思うも、もしかしたら演出で使うものを買いにきたのかもしれない。
 話が終わったら、轟くんに声を掛けても大丈夫だろうか。昨日からそっけない態度を取っているのに、こんな時だけ彼に助けを求めるのは都合がいいんじゃないか。そう思うも、不安が収まらなくて少し恐怖すら感じ始めている。轟くんの近くにいれば、少しでも手を握ってもらえたら、きっと治るはずだと縋りたくなってきているのだ。

「今度文化祭ですよね、行くの楽しみなんです」
「どうも」

 轟くんに話し掛けている女の子の顔は見えないけれど、ファンと名乗る通り嬉しそうな様子だ。けど、轟くんは少しそっけない気がする。
 何か変な気がする。何が変なのかわからないけれど。

「同じ中学だった女の子も、雄英行ってるんですよ。それで、噂で聞いたんですけど轟さんと仲いいって。本当なんですか? 名字名前って言う子なんですけど」

 自分の名が出てきて驚愕する。雄英に同姓同名はいない。確実に私のことを言っている。
 同じ中学?
 噂?
 どういうことなのかわからない。意味がわからない。煩い鼓動を落ち着かせるようカゴを持っていない方の腕で胸を抑える。

「嘘ですよね、だってあの子、無個性ですよ? 轟さん将来有望なんだから、付き合うならもっとちゃんとした子の方がいいですよ」
「付き合ってない」
「でも、轟さんの方が好きなんじゃないかって聞きましたよ。SNSで雄英に通ってる子に聞きましたもん」

 苛立ったような轟くんの声と、女の子の声。
 冷や汗が出てきた。息が苦しい。どうしてあの子がそんなこと聞くんだろう。どうして私は今、こんな場所にいるんだろう。

「名字さんのこと、好きなんですか?」

 うるさい。心臓が煩い。
 そんなこと、聞かないでほしい。苛々している轟くんに気付かないのか、女の子は轟くんとの距離を縮める。やめてほしい。全部、全部。何もかも。
 女の子の言葉に轟くんは顔を上げる。その轟くんの顔を見た瞬間、ああダメだと思った。

「あり得ないだろ、好きになるとか。無個性のヤツは興味ない」

 少し離れたところに制服姿の轟くんが立っていて、彼の色違いの瞳は体育祭の日に見たような冷たい目をしていた。
 心底うんざりした顔で「無個性なんて」ともう一度吐き捨てるように言った彼の目が、私の方を見ていたような気がして、心臓が縁結びの個性に掛かった時のように痛んだ。


 いつの間にか二人はいなくなっていた。
 持っていたはずのカゴはいつの間にか床に落ちている。中に入れていた商品は壊れ物でなかったのが幸いだ。良かった。でも気をつけなきゃ。壊れたら大変なのだから。

 キーンと、再び耳鳴りがする。
 轟くんが言っていた言葉を思い出して、そりゃそうだと思う自分がいて、胸が苦しくなる。どんどんと視界がぼけて、ついに涙が溢れてしまった。
 ここ数週間轟くんと過ごして、あんなこと轟くんが言うわけないと思う自分がいる。けれどもすぐそこに轟くんがいて、轟くんの声がして、あの冷たい目も、私が知る過去の轟くんの一部だった。知りすぎてしまったから、わからなくなってしまったのだ。
 きっと少し前の私なら、自分の知る轟くんはあんなことを言わないと信じることが出来たに違いない。けれども今の私には、自分すら信じることが出来ないのだ。

「大丈夫、大丈夫だから、だから止まって」

 震える手で涙を拭う。大丈夫だと何度も呟けば平気になる気がして、何度も唱える。
 そろそろクラスメイトと合流しなくては。心配掛けないよう気を付けないと。


   〇


 文化祭もあと一週間となったことで芦戸や耳郎の指導も熱が入る。体育館で初めて通してみたものの、まだ完璧とは言えず何度か繰り返した結果、ダンス隊は最後には汗だくになっていた。
 体育館で実際に通してみると、バンド隊にとって体育館は想定していたよりも広く、ダンス隊にとってはステージが想像以上に狭く感じたらしい。実際にやってみないとわからないもので、一回通した後は気になった部分を皆で確認し、話し合って修正していくのを繰り返していった。

 八時を過ぎ、キリの良いところで今日の練習は終いになり、片付けを済ませて寮に戻ることになった。
 名字から何か連絡が入っていないか確認してみれば、メッセージが届いていることに気付く。

「……『先に寝ます』?」
「あれ、轟くん、何かあったの?」
「いや、名字から連絡がきてたんだが、もう寝るって」
「経営科の方の仕事が疲れちゃったのかな?」
「それにしたって、寝る前に――」

 赤い糸が薄れているからって、寝る前に手繋がねぇと悪い夢見んじゃねぇのか。
 最後まで口にはしなかったものの、隣にやってきた緑谷は中途半端に途切れた言葉には触れずに肩をすくめて「昨日から、なんか本調子じゃないっぽいから心配だね」と言った。

 演出のメモが書かれたノートを持ち、寮に戻るために体育館のドアを開ける。
 飯田は体育館の鍵を返しに行くようで、忘れ物がないか最後の確認をしている。飯田に「平気か」と声を掛ければ、体育館の照明を落として「轟くんは早く名字くんのところに行った方がいい」と真面目な顔をした。

「ああ、そうだな」

 確かにそうだと頷いて、中途半端に開いているドアを開ける。
 どうやら雨が降り始めてしまったようで、靴を履き替えている間に雨で顔が濡れていく。
 焦りにも似た感情は治まらず、何かあったかと返事をしてみたものの既読にはならない。ただ疲れてすぐに寝たかっただけかもしれないが、本当にそれで納得していいのかと疑問を持つ自分がいる。
 この焦りが、ただの取り越し苦労であってほしいと思いながら靴紐を結ぶ。腰を上げれば、後からやってきた緑谷が「あれ、雨降ってる」と呟いた。
 八時を過ぎた今、太陽は沈み辺りは真っ暗だ。敷地内に設置されている電灯がぽつりぽつりと寮までの道を照らしていて、それが少し寂しく感じた。

「昨日から名字がそっけない理由はわかるんだ。けど、それだけじゃねぇ気がしてならねぇ」
「……そっか。何もないといいね」

 緑谷は、鍵を返しに行く飯田に付き合うらしい。先に戻ると言えば「もう少し待ってたら雨弱まりそうだよ」と言う。

「名字が心配だから」

 ありがとな。そう言えば、緑谷は困ったような顔をして「気を付けてね」と手を挙げた。

 寮へ戻る道は既に雨で濡れ、所々水溜まりを作っていた。傘は持ってきていなかったため雨に濡れてしまい、ジャージは水で重くなっていく。
 雨で濡れる度、濡れて邪魔になる前髪を掻き上げる度、気持ちはどんどん重くなっていった。

 寮へ戻れば、既に寮に戻っていたヤツは雨に濡れたために風呂に入るのが殆どだった。名字は見たかと聞くも、皆首を振る。不安に思う気持ちは増し、急いで部屋へ戻ることにした。

 エレベーターを待つ時間も、最上階の五階までエレベーターが昇っていく時間も、それこそ部屋までたどり着く時間全てが長く感じた。ドアノブに手を掛けて部屋へ入る。「名字、ただいま」と声を掛けるも反応はなく、部屋の照明も消えているために慎重に進む。
 本当に疲れて寝てしまっただけなんだろうか。

「名字」

 声を掛けるも反応はない。
 どんよりとした厚い雲が空を覆っているため、普段部屋を照らす月明かりはない。部屋は暗いが、目が慣れてくると俺の布団も既に敷いてあることに気付く。
 髪から垂れる雨粒を腕で拭う。布団を濡らすのはまずいと思い、名字は寝ているようだからまずは俺も風呂に入ることにして静かに部屋を出た。

 赤い糸で結ばれてから少しの間、名字は満足に眠ることが出来なかった。
 その時のことを思うと、寝ているなら平気なんだろうかと気持ちが少し落ち着いた。あと数日で切れてしまうくらいに薄く、細くなった赤い糸を見れば、前に比べて悪い状態にはならねぇのかもしれねぇ。

 そう思って自分を納得させてしまった。



『――ごめんね、轟くん』

 名字が寝ている俺の左手を取る。

『ごめん、本当に』

 震える指は白く、冷たい。
 名字がやろうとしていることに気付いて早く起きねぇと話が出来ねぇと思うも、夢は覚めることなく続いていく。
 既に日が昇り始め、部屋はうっすらと明るい。そのため名字の手が震えているのもよく見えた。

 名字の夢を見た。
 それは、久しぶりに胸が痛くなるような苦しい夢だった。
 心がぐちゃぐちゃになるような夢だった。無個性だと笑われた時のことに始まり、昨日の出来事と思われる夢だった。

 持っていた俺の手を顔に近付け、名字はゆっくりと俺の小指にキスをする。赤い糸が消えていく間、名字は震える右手の小指を俺の口元に近付けた。

『どうにかするから。ちゃんと轟くんと話せるように頑張るから』

 泣きそうな声で名字はそんなことを言った。
 声を掛けたいと思うのに、それは叶わない。手を握ってやりたいと強く思った。好きだと言って抱きしめたかった。名字が見た俺は俺じゃないと、ホームセンターでのあの一連の出来事は現実ではないと安心させたかった。
 けど、それは出来ない。
 静かに立ち上がった名字は、最後に何度目かわからない謝罪の言葉を口にして部屋を出ていってしまった。

20190923
20191013加筆修正

- ナノ -