「ねぇ、名前ちゃん、今A組と一緒に生活してるんでしょ」
それは、一人でざるそぼを食べた食堂からの帰り道、偶然廊下で会った普通科の友達――棘池築稚ちゃんから言われた言葉だった。
休日ではあるが、文化祭の準備をするために校舎は多くの人が行きかっていた。
賑やかな声があちこちから聞こえ、既にお祭り気分の生徒も多いように見受けられる。楽しそうに段ボールを抱える女子生徒とすれ違ったり、試作のクレープを食べてみないかと突然声を掛けられたり。
普段と違う校舎の雰囲気にのまれ、教室へすぐ戻るのも惜しいような気になった私は、他のクラスの様子を見るのも仕事のうちだと言い訳をして遠回りをしていくことにした。
その遠回りの際に声を掛けてきたのが築稚ちゃんだった。彼女は買い出し帰りらしく、制服にビニール袋を持った姿で声を掛けてきた。
「うん、ちょっとした事故で個性に掛かっちゃったから、今はA組にお世話になってるよ」
「そう」
眉をぎゅっと寄せ、困った顔をした築稚ちゃんが私を見る。
築稚ちゃんとは、食堂で何度か隣の席に座って食事をしたことをきっかけに仲良くなった。季節限定のパスタが美味しいと教えてくれたのも実は彼女で「美味しいと勧めた本人よりもハマるなんて」と笑った表情を思い出して胸が騒ぐ。どうして彼女は今、こんな表情をしているのだろう、と。
「A組さ、バンド楽しそうなんだ。いろいろあったけど他学科のためにって一生懸命練習してて――」
「けど、A組に振り回されてる事実は変わらないでしょ」
彼女がどうして難しい顔をしているのかわからず、話題に上がったA組の話を続けるも、私の言葉に築稚ちゃんは吐き捨てるように言い放った。
驚いて彼女を見れば、ハッとした表情で「違う、名前ちゃんに怒ってるわけじゃなくて」と首を振る。彼女のチャームポイントの一つである、耳の上で結ばれた髪が揺れる。
彼女のさっきの表情や言葉でようやく察する。
「ごめん」
気付かなくて、ごめん。築稚ちゃんに共感出来なくて、ごめん。
そんな気持ちで謝れば、築稚ちゃんはまた首を振って「私の方こそ、ごめんね」と力なく俯いた。
「名前ちゃんがなんでA組と一緒にって、ずっと思ってた。今の名前ちゃん楽しそうで、それがまた、なんかちょっと嫌で。でも、名前ちゃんが言う通り、A組は本当に他学科のためにやろうとしてるんだろうね……」
築稚ちゃんは、絞り出すような声を出した。片手で胸の辺りを抑えている。
「ライブ、見に行くよ。綺麗な気持ちで見ることなんて出来ないと思うけど。なんならこき下ろす気で行くと思う。けど、今の私にとって、A組とはそういう感情でしか向き合えないんだ。けど名前ちゃん、私の気持ちに共感しなくてもいいから、知ってほしい」
口をきゅっと結んでこちらを見る築稚ちゃんに頷けば、彼女は小さく謝罪の言葉を口にして行ってしまった。
築稚ちゃんが、A組に対してストレスを感じていたなんて知らなかった。そもそも、今までヒーロー科の話をしたことがなかったし、彼女がヒーロー科に対してどう思っているかなんて、ちっとも知らなかった。
ヒーロー科は、雄英の花形といっていいだろう。
ヒーローが活躍する社会において、ヒーローだけがいても成り立たないことは誰だって知っているはずだ。ヒーローを支える存在がいなければヒーローは笑って戦い続けることは出来ない。だから雄英にも、いくつもの科が存在している。
けど、雄英に入る前も、後も、何を語るにおいてもまず一番にスポットライトを浴びるのはヒーロー科だった。
中学二年生の冬、雄英を受験することを先生に伝えた時はひどく驚いた顔をされたのを覚えている。
基本的に、雄英に行くと言えばヒーロー科を想像するのが一般的なのだ。だからきっと、無個性なのにヒーロー科を受験するのかと先生は驚愕したのだろう。
しかし、そんなヒーロー科が原因で他学科に影響が及んでいるのもまぎれもない事実だった。
A組が好き好んで事件に巻き込まれているわけではないことは百も承知だ。けど、ネットニュースにあることないこと書き込まれて家族から心配されるくらいならまだしも、将来を見据えて雄英に入学したのに、雄英だからと進路が絶たれる可能性も出てくるのではと口にする生徒もいると聞いた。それを考えれば、どこで誰がストレスを感じていてもおかしくなく、築稚ちゃんがあんな表情をするのも理解できないわけではなかった。
皆が皆、笑ってハッピーエンドってそんなに難しいことなのかな。そんなこと思ってしまうも、首を振る。
今は、私は私に出来ることをしようと急いで教室に戻ることにした。
〇
私たちのクラスは、良いペースで作業が進んでいる。
校舎を出て経営科の寮に戻っても、共同スペースで話すことといったら文化祭に関するものがほとんどだった。夕食後に少しお喋りをしてから寮を出ると、既に太陽は沈み空は暗く、星が輝いていた。
最初はお風呂も済ませてヒーロー科の寮に戻ろうと思っていたけれど、夜になると一気に寒くなる日が続いていたためもう戻った方がいいと友人に言われた。
寮と寮の間を通るようにして吹く風は冷たく、空気は季節の移り変わりを感じさせるような冷たいものだった。雄英の敷地が山の上に建てられているからかもしれないけれど、実家で過ごしていた時よりもずっと、季節の移ろいを肌で感じるようになった。
友達の言う通りにしておいて良かったと急いでヒーロー科の寮へと戻ると、外との気温差だろうか、頬や鼻の頭に微かな痛みを感じる。暖房をつけているわけではないが、寮の中はホッとする暖かさに包まれていた。
共同スペースに集まっていたバンド隊の練習を見ながら辺りを見渡すも、轟くんの姿は見えない。
どこにいるんだろうと考えながら男子棟のエレベーターのボタンを押せば、お風呂上りらしく、首にタオルを掛けた障子くんと出会う。
「轟なら部屋にいるぞ」
そんな風に平然と言われ、恥ずかしいやら驚くやら。轟くんを探していることに気付かれてしまうとは。
有り難うとお礼を言うも、照れくさくて障子くんと目を合わせることが出来なかった。
エレベーターを降りて轟くんの部屋の前まで来ると、ドアストッパーによって出来たドアの隙間から賑やかな声が廊下に漏れている。
あれ、轟くんの他に誰かいるのだろうかと思いながら「轟くんただいま」と部屋に入ると、演出隊の面々が勢ぞろいしており、畳の上にはノートだったりルーズリーフが散らばっていた。瀬呂くんの前にあるノートパソコンからは最近テレビでよく聞く曲が流れている。
「名字、おかえり」
ふっと表情が綻ぶ轟くんの顔を見てきゅんと胸が締め付けられる。たった数時間、されど数時間といった感じで彼の笑顔に心臓が騒がしくなる。
部屋を見まわして演出隊のみんなに「ただいま」と言えば、彼らも声を掛けてくれた。
「名字も帰ってきたし、今日は終いにするか」
「そうだね」
切島くんの言葉に静かに返事をしたのは口田くんで、瀬呂くんは「思ったより時間経ってたな」と片付けを始める。青山くんが「明日これ試してみようよ」などと言っているうちに部屋は元通りになり、彼らはあっという間に各自の部屋に戻っていってしまった。
手早い撤退にあっけにとられていると、轟くんが「名字はもう飯すんだのか?」と尋ねてくる。
「うん。これからお風呂入ろうかなって」
お風呂の準備を、と口にする前に轟くんは少しだけソワソワした様子で私に背を向ける。
「じゃあ風呂入る前にこれ食わねぇか?」
轟くんが冷蔵庫から二つの瓶を取り出してきて、私に差し出してきた。
何だろうと思うも、とりあえず受け取る。彼の表情はなんだか少し浮足立っているような、そんな楽しそうなものに見えた。
「これ、プリン?」
「ああ、砂藤が演出隊で食べてくれって持ってきてくれたんだ。名字の分も一緒にって。普通のプリンと、牛乳プリンだ。名字はどっちがいい?」
二つ残っているということは、轟くんはまだ食べてないってことなんだろうか。
手に持つ瓶が冷たい。自分の体温のせいでぬるくなってしまわないだろうかと、そんないらぬ不安を抱いてしまうくらい気持ちが舞い上がっている。
「残ったのがこの二種類だったんだ。名字が好きな方を選んでくれ」
「そんな、先食べてくれて良かったのに」
「名字が普通のプリンと牛乳プリンどっちが好きか知らなねェし、それに、一緒に食べたかったんだ」
そっちの方が美味いだろうなって。
そう最後に付け足した轟くんの言葉に何も思わない訳がなく、騒ぐようにうるさい心臓を落ち着けるように小さく息を吐いて心を落ち着かせる。
嬉しくて口元は緩んでいないだろうか。両手に瓶を持っているせいで変な顔になっていても隠すことは出来ないのに。
「砂藤くんが作ったのなら、どっちも美味しいんだろうね」
「そうだな、みんな美味いって……ああ、じゃあこれ半分こするか?」
顎に手を当て、真面目な顔をして言う轟くんにちょっと笑って、でもそういうところがすごく好きで、可愛いと思う。胸の辺りが幸せな気持ちでいっぱいになる。
「じゃあさ、お互い最初の一口は相手のプリンから貰うようにしない? そうしたら、どっちの味も楽しめるから」
瓶に入っているプリンを半分ずつってのもなかなか難しい気がするから、と言えば轟くんは「名字がそれでいいなら俺は構わない」と表情を綻ばせる。
女の子同士なら半分こなんて何も気にしないでやれるけど、轟くんとそういうことをする気にはならなかったし、今回の提案が一番私の身の丈に合っている気がした。
轟くんはどっちが好きかと尋ねるも、特にどちらが好きというわけではないようなので私は牛乳プリンを貰うことにした。
「じゃあ、一口目を」
お互いに向き合って座ってスプーンを持つ。轟くんが私の持つ牛乳プリンにスプーンを差し込む。私も、彼の持つプリンを一口貰い、零さないようゆっくり口に入れた。
「んっ、美味しい」
「ああ」
冷やしてあったプリンは、固すぎず柔らかすぎず丁度良い。じゃあ今度はと自分が持っていた牛乳プリンを一口食べる。美味しい。甘すぎないからペロリと平らげてしまった。プリンが入っていた容器は少し小さめの瓶だったため、罪悪感も少ない。砂藤くんに感謝だ。
轟くんが半分こにしようと提案してくれなかったら、二種類のプリンを口にすることはなかったはずだ。轟くんが先にプリンを食べていたらこんな幸せな気持ちにならなかったはずで、とにもかくにも嬉しくてお礼を言わなくてはと顔を上げると轟くんが目を細めてこちらを見ていた。
「可愛いな」
綺麗な、色違いの瞳がこちらを見ている。優しく見つめられているような錯覚と、優しい低い声が、私を自意識過剰にさせる。
思わず持っていたスプーンを落としそうになるも、どうにか持ち直す。
「えっ……?」
カワイイ……?
オイシイ、ではなくて?
「名字は美味そうに食うから、いいな」
そう言った轟くんはゆっくりと立ち上がって「洗って、砂藤に返してくる」と、私の手から瓶とスプーンを取って部屋を出て行ってしまった。
膝と膝がぶつかるくらいに近い距離で聞き間違いなどするはずもなく、多分、どういう訳か、おかしなことに、轟くんは確かに「可愛い」と言った。
最初はまさかそんなと思ったけれど、にやける顔を手で覆いながら、でも今日一日頑張ったからご褒美と思うことにした。自分の記憶を否定しないで大切に胸に仕舞っておいて、次の頑張りの源にしよう。それくらい、許してほしい。だって、私は轟くんが好きなのだから。
轟くんがどういった気持ちで言った「可愛い」なのかは正直わからない。
小さな子を見たり、動物を見た時の「可愛い」に似てるかもしれない。好きな女の子を見て思う「可愛い」だったら勿論嬉しいと思うけど、そんなの都合がいい。
嬉しいことには変わらないから、きっといいのだ。
お風呂の準備をしながら築稚ちゃんのことを思い出す。
やっぱりみんな楽しくて幸せになるような、そんな文化祭になったらいい。
ライブを見に行くと言った築稚ちゃんが、思いっきり楽しめる時間になったらいい。そんなライブを作るのは私ではないけれど、彼らのライブが素敵なものになると信じることだったり、どんな気持ちで作られているのかを周りに知らせることは出来るはずなのだから。
20190905
20191013加筆修正