右手の小指に赤い糸が結ばれたあの日から、あっという間に十日が過ぎていた。
リカバリーガールの助言を受けてから、毎日寝る前に轟くんと手を繋ぐようになった。驚くことに、言葉通りに手を繋いだだけで快眠出来たのである。
初めて手を繋いだ日の翌日、轟くんにぐっすり眠ることが出来たと報告すれば、彼は安心したように「なら、寝る前に続けるか」と言ってくれた。それからは寝不足と無縁の生活を送っている。
夜、電気を消す前に布団の上で手を差し出せば、轟くんは必ず応えてくれる。三分にも満たない時間、手を繋ぎながらいくつかの話をするようになった。文化祭の話が専らで、時々夢の話をする。
「夏休みにA組のみんなで花火見に行ってたでしょ、あれって学校の近く? なんとなく見たことある景色があったんだけど」
「ああ、上鳴がいい場所見つけたって案内してくれたんだ」
「そうなんだ。確かに上鳴くんってそういうの詳しそう」
赤い糸が結ばれてからずっと、私は断片的なシーンを接ぎ合わせた轟くんの思い出を夢に見る。手を繋ぐようになってからは楽しい思い出ばかり見るようになり、夢の話もしやすくなった。
「今度は名字と一緒に見てぇな。来年、見ねぇか」
「来年?」
「ああ」
うん、と頷けば約束だと言わんばかりに轟くんは握る力を少し強める。
赤い糸が消えたらどうなるんだろうと、実は考えたことがある。彼と同じ舞台に立てない私は告白をするつもりはなかったし、今後会っても挨拶する程度の関係にしかならないと思っていた。
けど、轟くんは違ったらしい。その事実が嬉しくて胸の辺りがきゅっと締め付けられた。
〇
『無効化する時に赤い糸が結ばれてる小指にキスするでしょ。じゃあ赤い糸がない方にキスしたらどうなるんだろうね』
朝、布団を仕舞う轟くんにそんな疑問を投げかけたのがいけなかったと今になって後悔をする。
「ごめん、轟くん。ほんと、なんと言ったらいいか」
「いや、こうなると知れただけ良かったんじゃねぇか?」
無残にボタンが取れた轟くんのワイシャツを見ながら、私は何度も頭を下げた。
「お、おはよう」
ワイシャツのボタンが取れた轟くんと、膝をすりむいて赤くなった私が教室へ入ると飯田くんが「ああ二人ともおはよう……って、君たちどうしたんだい!?」と心配したような声を掛けてくれた。しかしそれが大きな声だったため、A組の面々はなんだなんだとこちらに目を向ける。
始業チャイムがなる少し前のことで、既に教室には先生以外が集まっている状態だった。
「……なんでもねぇ」
「いや、なんでもないって様子じゃないでしょ」
轟くんの言葉に反応したのは耳郎さんだ。
困った顔をする耳郎さんは「どうした? なんかあったの?」と心配してくれる。申し訳ない気持ちがこみ上げてきて、違うのと口を開こうとしたところで「喧嘩に巻き込まれたとか……?」といった不安そうな声が遠くから聞こえてきた。
「大丈夫、これ、全部私がやったから!」
喧嘩をしたわけでも、何か危ないことに巻き込まれたわけでもないと証明しなくてはと思っていたら自分でも驚くほど大きな声が教室に響いた。みんなに見開いた目で見られ、ああやってしまったと頭を抱える。
これは、ちっとも大丈夫じゃない。
「つまり、ラッキースケベの派生だろぉ」
心配そうな表情から一転、何が大丈夫なんだと詰め寄られたので話をかいつまんで話せば、峰田くんが手をワキワキと動かしながらそう叫んだ。
赤い糸を無効化する要領でちょっと応用してみたところ、転んだ拍子に轟くんの服を脱がそうとしてしまうのだと私が説明すれば、峰田くんが興奮したように「おい、轟お前はどうなんだよ。お前は名字――」と、蛙吹さんに途中で口を塞がれていた。
「もし皆に迷惑を掛けたらごめんね。自分の手が、何をするかわからないから……」
「ムッ」
「発言は厨二っぽいのに事実だから怖ェ」
常闇くんと上鳴くんが反応するも、上鳴くんの口調は軽い。顔を上げれば蛙吹さんが「二人がいざこざに巻き込まれた訳じゃないなら安心したわ」と言った。
「蛙吹さん……」
「名字ちゃん、梅雨ちゃんと呼んで」
ケロケロと笑う梅雨ちゃんの笑顔につられて笑った。
この展開を普通に受け入れられていることに安心しつつ、いやでも解決はしていないのだと隣にいる轟くんの方に体を向ければ、轟くんはワイシャツを脱ぎ、下に着ていたタンクトップの上に体操服を羽織っていた。
「あっ、轟くん。そのワイシャツも私がボタン付け直すね」
「そうか?」
「……轟ちゃん、もしかして今日ワイシャツ二枚目なの?」
「ああ」
思った以上に大変なことになっていると察したらしく、皆顔を引きつらせて私に向かって「転ばないようにね」と言った。
どうしたらワイシャツのボタンを全部飛ばすような転び方が出来るんだよ、教えてくれよ名字と叫びながら近付いてくる峰田くんに恐怖を感じる。寮を出る前、轟くんのベルト部分を思いっきり掴んでこけたことは言わなくて正解だったのだろう。
腰穿きしてる男の子だったら下着も一緒にずり下げてたかもしれないと思うと、轟くんがきちんと制服着てて良かったと心から思う。
轟くんからワイシャツとボタンを受け取ったところでチャイムが鳴り、相澤先生が教室に入ってきた。轟くんの体操服に気付いたらしいが、先生は特に問題がないと判断したのか滞りなくホームルームが進んでいく。
「名字、多分名字は他のヤツには何もやらないと思うぞ」
「えっ?」
「多分、俺にだけだ」
まっすぐ前を向いたままそうこっそり話す轟くんに、私は訳が分からないまま左手の小指を触る。
事態が判明してから互いに赤い糸が結ばれている方の小指にキスをして無効化を図ったが、効果が得られなかった。
峰田くんが言った「ラッキースケベの派生」が無効化の応用で起きたのなら、きっとこの状態も明日になれば元に戻るはずだと希望を持ち、とにかく轟くん含め周りに迷惑を掛けないよう今日一日乗り切るしかない。
教室のスピーカーからチャイムが流れ、午前最後の授業の終了を知らせた。
午前中は座学中心だったため、特に目立った事は起きなかった。しかしそれは、転びそうになる度に轟くんが助けてくれたからで、腕を引っ張られたり、抱き留めてくれたからだ。
朝の度重なる転倒により膝は擦りむけ、あらゆるところが痛い。そのため転倒が減るのは有り難いことこの上ないけれど、轟くんとの接触が一気に増え、それもそれで心臓がすごいことになった。
「名字さん、最近それ食べてるね。パスタ好きなん?」
お昼、賑やかな食堂で前に座った麗日さんが首を傾げる。麗日さんの隣には緑谷くんと飯田君がいて、彼らももぐもぐと口を動かしながらこちらを見た。
「パスタが特に好きって訳じゃなかったんだけど、食べたらハマっちゃって。期間限定のメニューだからついつい頼んじゃってるの」
「あー、その気持ちわかるなぁ」
友達にオススメされて試しに食べてみたらハマってしまったものだったが、改めて言われると少し照れくさい。
「それ、美味いのか」
「うん。和風で、案外轟くんも好きかもしれない」
横で蕎麦を啜る轟くんに尋ねられる。今月いっぱいはランチメニューになってるよと返せば、彼はそうかと小さく頷く。
それにしても、朝から視線が合わない。轟くんの方から声を掛けてくれるから、転んでやらかしてしまっていることに対して怒っている訳でもないようだけど。知らず知らずのうちに何かしでかしているのではと思いながらフォークをクルクルと回してパスタを絡めとる。
「そういえば、午後は名字さんの好きな演習だね」
「うん!! 皆の個性強化見るのすごく楽しみ。実はノート一冊使い切っちゃったんだ」
ここ数日、演習の授業が終わるとA組の面々は私に声を掛けてくれるようになっていた。
あの必殺技はどうだったか。見ていて気になるところはなかったか。上手くいったのを見てくれたのか。そんな様々な言葉を投げかけられ感想を伝えれば、またそれぞれの反応が返ってくる。そういうのが楽しくなっていた。
今まで一方的だった観察が、彼らの為になっているような気がした。私の感想が絶対ではないのはわかっているが、それでも何かしら彼らのヒントになっていくとしたら、これ以上のことはない。
「名字くんは勉強熱心だな」
いいことだと頷く飯田くんに「好きなことだから」と言えば、彼は真面目な顔をして「好きだからといって、必ずしも君のようになれる訳じゃない」と言った。
「私もそう思うな」
そう明るい声で言ったのは、にこりと笑う麗日さんで「ヒーローがヒーローとして活躍出来んのは、名字さんみたいな人がいるからだって気付けたんよ」と、照れくさそうに言う。
「初めて仲良くなった経営科の子が、名字さんで良かった」
その言葉に、麗日さんの隣に並ぶ緑谷くんや飯田くんも頷く。
「経営科のことよく知らないかったけど、名字さんの話を聞くようになってから、きっと将来、経営科の人たちはヒーローにとって無くてはならない存在になるんだなぁって思った」
そう、麗日さんは言った。
まさか、食堂でそんな真面目な話をされるとは思ってもいなかったので驚く。ヒーロー科の人に、そんな言葉を言われる日がくるとは思ってもいなかった。ただひたすら嬉しくて、有り難うとお礼を言う。
胸の辺りがあたたかくて幸せな気持ちになった。
〇
必殺技の向上を目的とした午後の授業。
前回から場所を変え、今回は実際にヴィランと対峙することを意識して必殺技を使ってみようということになった。
もしも住宅街でヴィランと対峙することになったら、もしも近くに避難中の一般人がいたら……あらゆる場面を想定し、場面によってヴィランと戦う術を持っておくべきだということらしく、市街地をモデルとしたグラウンド・βでの授業となっていたのだが……
「悪い、名字」
「ううん、平気。むしろ、私の方がごめん」
だから忘れていた。昼食時の出来事に浮かれていた。
夢から覚めるんだよと言われているような出来事にゆっくりと息を吐く。
まさか、二人で落とし穴にハマって身動きが取れなくなるとは思ってもいなかった。
授業が始まって少しした頃、轟くんが声を掛けてきた。場所を変えたいと言った轟くんに頷き、彼の後に続く。場所探しをしていた折、場違いな穴の傍で私が転び、助けてくれようとした轟くんをも巻き添えにしてしまったのだ。
穴には、透明で粘着性がある液体が入っていた。轟くんのおかげで頭をぶつけるようなことはなかったけれど、ねばねばとした液体のせいで思うように動けない。
少し色のついた液体が体にまとわりついて体操服はべとべとだ。
どうしたらこんなことになるのだろうと思ってしまうけれど、今日はこうなる運命なのだと諦める。小さな穴に二人で落ちたせいで、轟くんとの距離は随分と近い。
穴の底に私がいて、向かい合った状態で轟くんが私に跨っている。壁面にもべとりと液体が塗りつけられているせいで、壁に手をついて体を支える轟くんはかなり動きにくそうだ。
「そう言えば、個性が液体のりの先輩がいた気がする……」
前の授業で作ったトラップか何かが残っていたのかもしれない。でもこれ、このままだとのりが固まってしまうのでは、と思っていると轟くんから声が掛かる。
「名字、嫌な気持ちになったら申し訳ねェんだが……」
「う、うん」
「峰田は、ラッキースケベの派生で名字が転んでるって言ってたが、もしかしたら互いに影響し合ってるのかもしれねぇ」
「えっ!?」
「……朝、前を歩いてる名字が転んでスカートが捲れた。転ばないように助けたら胸が当たっちまった。今も、透けてるから体操服の前を閉めてほしい」
こういうのが、峰田が言うラッキースケベってやつだろ。
そう付け足した轟くんは、視線を合わせないように横を向き、困ったような顔をしている。
今日は体操服の下に白いキャミソールを着ていた。普段は前を閉めているが、運の悪いことに着替える際にチャックが壊れてしまったのだ。
液体のりによってキャミソールが濡れ、下着が透けてしまっていたらしい。のりに浸かってしまっている腕を動かして体操着を右手で抑えるようにすれば、彼がゆっくりと息を吐いたことがわかった。
「気付かなくてごめん」
「いや。朝、気付いた時に言うべきだった。ただ、その、ラッキースケベに関して、名字に何て言えばいいのかわからなかった。悪い、本当に……」
転んで彼の服を脱がせていたことで頭がいっぱいで、他のことに気がいかなかった。
轟くんは直接的には言わなかったけれど、スカートが捲れたということは下着を見られてしまったということだろう。転んで距離が近いせいでそれどころじゃなかったけれど、胸が当たっていたことに気付かないとは。なんだか申し訳なくもなってくる。
だから今日、視線が合わなかったのだとようやく納得をする。轟くんも、流石にどうしたらいいのかわからなかったのだろう。
「言ってくれて、有り難う」
困った表情をする轟くんにそう言えば、彼は頭を振る。
「他の人巻き込むんじゃってすごく心配してたから、互いに影響し合ってるだけなら良かった。いや、轟くんに迷惑かけてるから、良かったって言ったらダメかもしれないけど」
轟くんはぎゅっと眉を寄せて、瞳を揺らす。
「名字はもう少し、自分の心配をしてくれ」
轟くんは大きなため息を吐きながら壁に額を付ける。
慌てて、のりがついちゃうよと言うも、彼はもうこうなったら変わらねぇよと呟く。
「ラッキースケベなんて、女子は嫌だろ。名字は何度も転んでるから怪我もしてるし」
「確かに転ぶのは痛いから嫌だけど、今回のラッキースケベはその、私が言い出したことが原因だし」
「……名字、そういうこと言ってると悪いヤツにいいようにされるぞ」
そうぽつりと呟いた轟くんの声は、困ったような、けれども少し怒ったような声にも聞こえた。頭上からぐちゃりと音がして顔を上げれば、轟くんが壁から頭を離してこちらを見ていた。眉間の皺が深く、怒っているようだ。
「そんなことはないよ」
悪い人に、いいようになんか。そう言えば、轟くんは困った顔をしてもう一度、のりがついている壁に額を押し付けた。
穴から抜け出そうと体を動かすたびにぬちょぬちょという音が響く。
顔を上げればすぐそこに轟くんの首元があって、何かの拍子に首の留め具の部分が外れてしまったのか、鎖骨のラインがはっきりと確認出来た。コスチュームから覗く首にはうっすらと汗がにじんでいる。
彼から目が離せない。綺麗で優しいこの男の子がやっぱり好きなのだと胸が締め付けられた。
膝立ちで私に跨っている彼が動かないと私も身動きが取れないが、どうにものりに足を取られて動きにくそうだ。一瞬、コスチュームを脱ぎながら脱出した方が上手くいきそうだなと考えてしまうも、今の状態でそんなこと言えるはずもなく、彼が上手く穴から抜け出すのを待ち、轟くんの頑張りにより十分もかからずになんとか穴から這い出ることが出来た。
穴から出るために彼の手を借りたが、どろどろになったスニーカーのせいで足がもたつき、今度は私が彼の上に倒れ込んでしまう。穴の中に落ちず、出てすぐの場所にあったノートに気付いて安心して気が緩んだのも原因だろう。
彼の胸に顔を埋める。申し訳なさと羞恥心から出た私の呻き声を聞いた轟くんは、力なく「風呂入りてェな」と呟いた。
〇
静かな寝息が聞こえる。既に明かりも消し、部屋の中は薄暗い。
顔を上げて隣の名字の様子を窺う。表情を確認すれば眉間に皺もなく、幸せそうな表情をしていた。前に見た寝顔とは、随分違う。
今日は一日散々だった。最悪な日というわけではなかったが。
夕方、経営科のクラスメイトとビデオ通話をしながらワイシャツにボタンを付けていた名字の困った顔を思い出す。垂れた髪を耳に掛ける動作が、いつもの名字と違って見えた。出来たと少しだけ眉を下げて一安心したような顔をした名字が可愛いと、そう思った瞬間心臓がうるさくなったことに気付いて、こういう感情が『好き』なのだと納得する。
それにしても、液体のりで体がべたべたになる経験はもうしたくない。髪が固まって洗う時に痛かったし、のりの匂いが長いこと鼻に残っていた。当分液体のりは見たくない。
それにあんな……転んで穴に落ちた時に見た、のりでべとべとになった名字のことを思い出して心臓がドッと音を立てた。
やましいことをしたわけではないのに、悪いことをしたような気になることもあるんだな。
恥ずかしそうに眉を八の字に下げる名字に何も言えなかった。本来、ああいった場面で女の子に恥ずかしい思いをさせるべきではないのに。
あの時どうやって脱出するのが正解だったのか、そんなことを考える。
今になって、個性を使えばもっと簡単に出られたのかもしれねぇなと思ってしまった。どうにも冷静じゃなかった。きっと、あそこで一緒に落ちたのが、あんなに近くにいたのが、名字だからなのだろうけど。
「んっ」
小さく漏れた声に気付いて隣を見れば、寝返りを打って体ごとこちらを向いた名字が気持ちよさそうな顔で寝ている。
「おやすみ、名字。今日は悪かったな」
返事が返ってこないことを知りながらも、そう呟いて布団に沈む。
明日になったら、いつも通り目を見て話せるようになるだろう。ゆっくり息を吐けば、次第に瞼が重くなっていった。
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20191012加筆修正