完結
「と、轟くん、あの……」

 轟くんが触れている右手の小指から、じんわりと熱が伝わる。

『――こっちを見てほしいと言ったら、名字は困るか』

 轟くんの優しくて少し掠れた声の余韻は私の中にまだ残っていて、どうしたらいいのかわからないまま触れられている小指に意識がいく。少しして、彼の手が微かに動く。
 轟くんの方を見ることなんて、恥ずかしくて出来る気がしない。そう思うのに、断ることも出来ないまま、私は顔を隠した腕の中で下唇を噛む。
 どのくらい時間が経ったのかもわからないけれど、勇気を振り絞って口を開けた途端、ガタッと物音がした。

「あー、ゴホン。お二人さん。ちょっと寒くなってきたし、そろそろ部屋に戻ったら?」

 物音に驚いた直後、どこからともなくそんな言葉が聞こえた。その言葉に轟くんが私の右手から手を離す。私は思わず顔を隠していた腕を下ろしてしまった。

「せ、瀬呂くん……!?」

 耳覚えのある瀬呂くんの声に驚いてベランダの隔て板へ顔を向ければ、その向こう側から「網戸にしてたんだけど、夜だと結構聞こえるんだな……けど、何してるんだって先生に注意されたら二人も大変だろ」と申し訳なさそうな声がする。

「まぁ、轟が言ってたように風邪ひいちゃ大変だしな」

 まさか聞かれているとも思わず驚いていると、反対側から砂藤くんが話しかけてきた。
 ケーキ作ってて甘い匂いが充満してたから喚起してたんだが、とわざわざ教えてくれたので両隣の二人は本当に申し訳なく思っているのかもしれない。けど、その申し訳なさそうな声がまた恥ずかしいと思う気持ちを倍増させていく。

 顔から火が出そうだ。
 けど、両隣の二人から声を掛けられてしまうくらいには、恥ずかしさのあまり声が大きくなっていたのかもしれないし、見回りをしているハウンドドッグ先生に何をしているんだと注意される可能性がないわけでもない。そうなると、そっちの方がずっと困る。面倒なことを起こすなと相澤先生に言われているのだから。

「う、あの、二人とも心配してくれて有り難う。おやすみなさいっ!!」

 すぐ後ろのガラス戸を開けてそう言えば、困ったように笑う瀬呂くんと砂藤くんの挨拶が返ってくる。
 轟くんの手を掴んで勢いのままに部屋に入る。彼の腕を離して部屋の奥へ進むと、後ろからガラガラと戸が閉じる音が聞こえたので轟くんがガラス戸を閉めてくれたのだとわかった。

 バクバクとうるさい心臓と汗がにじむ拳は、今年の春に無個性を皆の前で告白した時と似ているようで全く違うように思えた。
 胸が締め付けられるそれは、ただの少しも恐怖心はなく、ただひたすらに困惑と期待と、そして轟くんへ焦がれる気持ちでいっぱいだった。

 轟くんに、無自覚に触れようとした己の手と、左側を恋しいと思った自分の心と、先日先延ばしにしようとした感情がしっかりと結び付けられる。
 実のところ気付いていた感情を知らぬふりをしていた部分が大きいような気もするが、それでもはっきりと行動に出てしまうほどに私は、轟くんが好きなのか。
 握り拳に込めていた力が抜け、ぷらりと重力に従う。ゆっくりと深呼吸をすれば少しだけ泣きそうになった。

 轟くんのことをちゃんと知る前、私は彼がどんなに素敵な男の子だとしても関わりたくないと思っていた。
 どんなにヒーローの素質があっても、自分のコンプレックスを刺激される人とは一緒にいられないと思っていた。けれどもそんな私が、彼という人を好きになるなんて。体育祭の日に轟くんとすれ違ったあの時の私が、考えもしなかったことだ。
 随分と不相応な恋をしている自覚はある。最初から同じステージには立てないのだから欲を出せるわけがない。
 だから、私に出来ることは変わらずに一つしかなかったのだと再認識させられる。

 頬の熱を冷ます氷が欲しい。けど、そんなことを呟いて轟くんに氷を出されても困るので己の腕を頬に当てる。と、カチリと辺りが暗くなる。停電かと不思議に思って顔を上げる。

「これなら、見えねぇから……」
「えっ?」

 振り返ればこちらを伺うような表情で私を見つめる轟くんがいて、どういう意味だろうと口を開けばすぐに彼は「まだ、恥ずかしいか……?」と、少し困ったような声を出されてしまった。
 いや、あの、と上手く反応できずにいると彼は一歩こちらへ距離を詰める。

「轟くん……?」

 ガラス戸は閉じられているが、障子戸が中途半端に開いているため月明かりが部屋に入ってくる。逆光によって轟くんの表情はぼんやりとしか見ることが出来ないが、反対に彼から見たら、私が今どんな顔をしているのかまるわかりなんじゃないだろうか。

「名字に嫌なことはしたくねぇ。けど、さっきは少しだけ、意地悪だったのかもしれねぇ」

 赤くなってる名字の顔が見てぇと思っちまった。
 ぼそりと呟いた轟くんの言葉に再び心臓が忙しく鳴り出した。

「……悪い」

 静かな部屋に轟くんの言葉がとけていった。
 こんな時、何と言うのが正解なんだろう。私と轟くんを結ぶ赤い糸が淡く光っているのを見てそんなことを思いながらも、このまま何も言わないでいても何も解決しないことに気付く。

「私も、大きな声出てたみたいだから、ごめんね」

 自分の手を握り、謝る。
 手汗がひどい。こんな手で彼の腕を掴んでしまったのかと恥ずかしくてちょっと泣きそうになった。

 薄暗い部屋の中、無言で向き合っている時間はなんともいえない気まずさと恥ずかしさが募るばかり。でも、と自分の右手の小指を掴む。赤い糸が結ばれている辺りをなぞって轟くんへと一歩近付く。
 明日まで引きずるわけにはいかないし、彼も眠いだろう。私が恥ずかしいからといって彼に迷惑を掛けるわけにはいかない。
 ゆっくり深呼吸をする。すぅっと息を吸い、それよりも長く息を吐く。心臓は少し落ち着いてきた。

「もう、大丈夫」

 本当は、少し恥ずかしい気持ちが残っている。けれどもこのままずっとなんていられるわけがない。自分でどうにかするしかないと腹を決める。
 自分から電気を点けて轟くんを真正面から見れば、彼は少し驚いたような顔でこちらを見ていた。

 両親から受け継いだ色違いのきらきらした轟くんの目が、ゆっくりと細められる。少し困ったように下がった眉は、きゅっと胸が締め付けられるような轟くんの笑顔を作り上げていた。
 その笑顔を見てしまうと、再び心臓がうるさくなる。恥ずかしくて目を逸らしたくなるけれど、そうしては意味がない。

「もう、大丈夫だから」

 心配しないでほしい気持ちと、気にしないでほしいという気持ちが伝わっていることを願いながら言えば、彼は「わかった」と頷いた。

「じゃあ、寝る準備しよっか」
「そうだな」

 手をポンと叩いてそう告げれば、彼は少し面白そうに笑って頷いた。照れ隠しだということはバレているらしく、轟くんは「名字は時々びっくりするようなことするな」と言った。

「そんなつもりはないんだけどな」

 不相応な恋は自分の活力にして、けれども決して彼に気付かれることのないよう隠してしまおう。それが最善だと思うことにして、轟くんと一緒に寝る準備をすることにした。


    〇


 向かい合い、差し出された轟くんの手にそっと触れる。差し出された手は自分のと比べるまでもなく大きい。爪も指も、男の人のものだった。節々がしっかりとしていて、甲の肌は薄く筋が見え、うっすらと見える血管にドキッとする。手のひらの皮は厚く、少し硬い。人々を守りたいと思うヒーローの手は、自分とはまったく違うように見える。
 赤い糸が結ばれている小指にキスをして、今度は自分の手を轟くんに差し出す。彼の手を間近で見ていたせいか自分の手がひどく子どもっぽく、小さく見えた。
 轟くんは、優しく私の手に触れた。頭を下げ、ちゅっと可愛らしい音をさせて私の小指にキスをする。轟くんのその行為は、前回と比べて随分と様になっていた。

「前回の時よりも、動作が様になってる……」
「俺は、名字の方が様になってると思うぞ」

 思わず口に出ていたらしい言葉に慌てながら「なってないよ」と手を振って否定すれば、轟くんは「女子がそんなこと言われても嬉しくねぇか」と納得したような顔をして私の指から手を離す。私たちを結んでいた赤い糸は見えなくなってしまった。

「B組はいろんなの詰め込んだ劇やるみたい。物間くんがロミオなんだって。轟くんもそういう、王子様とか似合うだろうなって」

 そんなことを思いましたと正直に言えば、轟くんは「そうか?」と首を傾げる。「似合うと思う。見たかった」と本音を伝えれば、轟くんは少しだけ驚いたような顔をした後、小さく笑って「それは残念だったな」と目を細める。

「じゃあ、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」

 着替えて部屋を出ていった彼とは反対に、私は未だパジャマでのんびりしていた。縁結びの個性によって始終共に過ごす私たちだが、今日は赤い糸で結ばれてから初めての休日となった。
 今週は仮免講習がないものの、その代わり次回の仮免講習までに読み込んでおくべきものがあるらしい轟くんは書類を取りに相澤先生を訪ねにいくらしい。私も昨日の夜にクラスメイトから寮に来てほしい旨を伝えられたため、もう少ししたら経営科の寮へ向かうつもりだ。そのため。今日は朝から赤い糸を無効化させなければならなかったのだ。
 連日恥ずかしい思いをしている私にとって、無効化のキスくらいどういってことない――わけではないのだが、それでもお互いのため、彼のためと思えば躊躇する気持ちは少しもなかった。

 休日ということで少しのんびりしてから経営科の寮へ行こうと思っていたが、そういえば担任に提出するように言われていた提出物の存在を思い出して早速制服に着替える。
 部屋を出るために彼の机の上に置かれたこの部屋の鍵を掴む。なんだか少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。


「おやおや、調子はどうだい?」

 職員室での用事も終え、これから寮に行くかというところで突然声を掛けられる。
 窓の外を見てよそ見をしていたらリカバリーガールとご対面である。ちょっとびっくりしてしまった。
 挨拶をして「なんとか」と答えると「寝不足って聞いたよ」と言われた。授業中に眠気と戦っていたことを先生に見られていた可能性はかなり高い。リカバリーガールに念のためと連絡がいったのだろうか。「気を付けます」と答えれば、不満そうな顔をされてしまう。

「前に校長が言ったことは覚えているかい? 『縁結び』の個性はね、赤い糸で結ばれている者同士の距離が近ければ近い程、心身面に良い働きをするんだ。寝る前に手でも繋いでみたらどうだい? きっと眠れるよ」

 教員側であるリカバリーガールがそういうことを言っちゃってもいいんだろうか、と思いつつも保健室で校長先生にそんなことを言われたようなと思い出す。

「不健康な生活してたらこの学校じゃ特にやってけないよ」
「確かに、そうですね」
「何かあったら周りに相談することも大切だからね」

 気を付けるんだよと笑い、リカバリーガールは行ってしまった。
 手を繋ぐって言っても、その握り方は様々だ。ここ数日で様々なことが起きてどうも思考が思春期特有の方面にいきがちだが、リカバリーガールが言う手を繋ぐ行為とは握手を想像していたのではと考える。
 握手なら老若男女、時間を問わず行っても健全で問題のない行為である。正解はわからないがありえる、と思いながら右手を見る。右手の小指には、赤い糸がまだ個性が掛かっていると主張するように存在している。

 夜、握手してくださいなんて言ったら轟くんに変な顔されるだろうか。
 寝る前に轟くんと握手をするというのを想像してちょっと笑いそうになったが、これで快眠出来るのなら有り難い限りである。

 リカバリーガールの話をすればきっと彼は協力してくれるに違いない。そんなことを考えながら経営科の寮へ向かうために昇降口を目指した。

20190622
20191012加筆修正

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