完結
「……あ、爆豪くん」

 朝から目つきの悪い爆豪くんと会ったのは洗面所で顔を洗っている時のことだった。洗顔フォームが落ちているか確認しようと鏡を見れば、後ろを通ったのが爆豪くんで、思わず出た言葉にぎろりとした目をこちらに向けられる。

「お、おはよう」
「お前、昨日寝てた……」

 眉を寄せる爆豪くんに顔が引き攣る。
 隣にいた轟くんがチラリとこちらを見て「名字、右に泡ついてるぞ」と教えてくれるが今はそれどころじゃない。

 知らない人間が同じ寮で生活してるのってホラーでしかないよねと、自分のことではあるが爆豪くんの反応には頷いてしまう部分が確かにあって、彼が不審そうにこちらを見る姿は至極当然のように思えた。
 昨日の朝のホームルームで相澤先生の方から簡単に私の説明があった。けど、だからといってみんなの前で自己紹介をしたわけではない。話と話の間にさらりとあった説明はもしかしたら爆豪くんにはどうでもいいこととして受け流されたかもしれない。噂を聞くに、私のような他学科の生徒に興味があるようなタイプには思えなかったからだ。

「少しの間だけA組でお世話になることになった経営科の名字名前です。邪魔にならないようにするから、お気遣いなく普段通り生活していただければと」
「経営科……」

 ああこいつが、とでも思っているのだろうか。爆豪くんはすぐにどうでもよさそうな顔をして行ってしまった。

「……暴言とか言われると思ってた」
「なんでもかんでも言わなくなったと思うぞ」
「そっか」

 口は悪いけどな、と付け加えた轟くんにそうなんだと返事をしながら蛇口を捻って流れる水に右手を差し込んだ。
 轟くんが体育祭の日を境に変わっていったように、爆豪くんも少しずつ変わっているのか。体育祭の表彰式のイメージが強いだけに何かあれば暴れまくって暴言を言うイメージがあったが、昨日の個性強化の授業を振り返れば少しだけ周りに対する態度が変わっていたようにも思えなくもない。
 そうなんだ、と胸の内で繰り返す。
 経営科の私は、ヒーロー科のこともそれなりに理解していたつもりだった。名前と個性、性格等々。知っていたつもりだったけど、情報は随分と古かったようだ。

「そっか」

 口に出した自分の言葉は思った以上に楽しげだった。自分の持つ情報の古さに悔しさを感じる以上にヒーロー科の生徒の成長速度に興奮に似た感情を抱いていることに気付く。自分が在校しているのはそういう学校なのだ。そう気付くと、卒業までの間に彼らがどんなヒーローに成長していくのか期待で胸がいっぱいになった。
 

「……そういえば、昨日はすごく楽しい夢ばかり見たんだけど、轟くんはどうだった? 轟くん、入寮前にクラスの子と寄り道とかもしてたんだね」

 洗面所を出たところで轟くんに話を振れば、轟くんはチラリとこちらを見てから「ああ」と頷いた。
 昨日は胸があたたかくなるような優しい夢ばかりを見た。目が覚めてからも余韻が続いたほどだ。
 轟くんも放課後に寄り道をしたり友達と遊んだりしたのだと知れて嬉しさすら感じた。きっとそれは、入学して間もない轟くんのことを知っているからだろうし、ここ数日で彼の過去を知ったからだろう。
 文化祭も、彼にとって良い思い出になったらいいな。そんなことを考えていると、轟くんが「名字も、雄英に入ってから楽しそうでよかった」と眉を下げて笑った。その表情が随分と優しくて照れてしまう。「有り難う」と俯きながら言えば、彼はこれまた優しい声で「あぁ」と言った。



「昨日はすごかったね」
「ん?」
「あれ、まだ聞いてない?」

 席に着いて朝食を取り始めると、前の席に座っていた芦戸さんがにこにこしながら話しかけてきた。いや、よく見れば“にこにこ”というよりは“にやにや”である。
 残りはヨーグルトを食べるのみの芦戸さんは、期待を含んだ瞳でこちらの反応を待っているようだ。昨日何かあったっけと考えていると、芦戸さんの隣にいる葉隠さんがこれまた楽しそうな声で「お姫様抱っこだよ!!」と身を乗り出すような動きをみせた。

「お姫様抱っこ……?」

 均等に切られている卵焼きを箸で取った自分の手は宙に浮かんだまま、自分の身に覚えのない葉隠さんの言葉に首を傾げれば、芦戸さんは思案するように腕を組んで私と轟くんを交互に見る。口を尖らせて彼女は「まだ誰にも言われてないの?」と少々不満げである。

「名字ちゃん、朝起きてどうして部屋で寝てるのかなとか、不思議に思わなかった?」

 葉隠さんが興奮したような様子でそう尋ねてきて、芦戸さんが「昨日、ソファで寝てたじゃん?」と私をじっと見る。
 どうしてそんなにも二人は楽しそうなのだろうと思いながら昨日の夜のことを思い出すように視線を外す。
 八百万さんの紅茶のおかげか、それとも連日の睡眠時間の少なさからか、早い時間に眠気が襲ってきたのは覚えている。けれども赤い糸が繋がったままだから轟くんの部屋に勝手に戻るわけにはいかず、A組の話し合いが終わるまで仮眠を取ろうと思ったのだ。ソファにあったブランケットを取って、それで――寝てしまった。
 じゃあどうやって部屋に、と考えたところで葉隠さんが言ったお姫様抱っこという言葉が繋がってくる。

「も、もしかして……」
「ふっふっふー。そう、轟くんがソファで寝ちゃった名字ちゃんをお姫様抱っこしたんだよ!!」

 ぽとり。
 葉隠さんの言葉を聞いて箸で掴んでいた卵焼きを皿の上に落としてしまう。

「ま、まじですか」
「うん」

 芦戸さんは今日一の笑顔で楽しそうに頷いた。右に座る轟くんを見れば何でもない顔でお味噌汁を啜っている。しかし隣の机で朝食を取っていた緑谷くんが真っ赤に頬を染めながらプチトマトを食べているのを見て事実だと察した。

「轟くん、ごめんね。あと、有り難う」
「いや」

 自分自身で部屋まで戻った記憶は確かになかった。どう考えても昨日の記憶は瞼を閉じ、爆豪くんの言葉を耳にしたところで途切れている。

「も、申し訳ないです」

 恥ずかしくてたまらない。穴があったら今すぐにでも入りたい。
 朝起きて一番に思ったのがここ数日で一番幸せな夢を見られたことへの幸福感だった。起きて、まず目に入ったのは轟くんが布団から起き上がる姿で、おはようと声を掛ければ彼は何でもないように挨拶を返してくれた。だから、幸福感で満たされた私はいつも通りの轟くんを見て何も思わなかった。昨日どこで寝たかなんて意識しなかったし、昨日のこと、と芦戸さんに言われるまで考えもしなかった。

「もし次があっても、私なんか俵抱きくらいでいいよ」

 そもそも十分睡眠を取ることが先なんだけど。
 昨日あんなにも気持ちよく眠れたのだから今日も八百万さんにお茶を入れてもらおうかな。他にも快眠出来る方法があったらいいのだけど、と思いながら轟くんにそう言えば、少し眉を寄せ怒ったような顔をした轟くんがこちらを見ていた。

「眠たくなったなら、言ってくれ。そうしたら一緒に部屋戻るから」

 女子があそこで寝るのは、あんま良くないだろ。
 そう言う轟くんの顔はやっぱり今までに見た表情とは少し違っていて、少し戸惑ってしまった。ごめんね、ともう一度謝ってから気を付けると言えば、轟くんは小さく頷いて湯呑を取り、お茶を飲む。

 お皿の上に落としてしまった卵焼きを掴み、口に入れる。ほんのり甘い卵焼きを食べながら先ほどの轟くんの表情について考えてしまう。
 私を思って、あんな顔をしたのだろうか。そんなまさかと思いながらも、轟くんの方を見ることは出来ないまま朝食を平らげた。

 過去に、経営科の寮の共同スペースでうたた寝をしまったことが何度かあったが、誰かに注意を受けることはなかった。だから轟くんにあんな風に言われるとは思ってもいなかった。「女子があそこで寝るのは」という言葉から、私を気に掛けてくれたことが伺えるが、女子扱いをされることに驚いたのだ。だって、彼は私が隣にいても平気で寝てしまう男の子だからだ。
 轟くんは、私なんか同じ人類くらいの意識でいるのだと思っていた。女の子だと意識していると思ってもいなかった。だから、困る。ちょっと恥ずかしくて、おかしなことにちょっとだけ嬉しいと思ってしまったのだから。

   〇

 その日の夜、九時前のこと。
 轟くんも今日は少し疲れたようで、演出隊との話し合いを終えた彼は、クラスメイトと雑談をすることなく私に部屋へ戻っても大丈夫かと尋ねてきた。既に経営科の友人とのビデオ通話も終え、八百万さんが淹れてくれたハーブティーを飲んでいた頃だったため、後片付けが済んだら平気だと答えた。

 部屋に戻った轟くんは座椅子に座り、机に向かった。既に予習復習もお風呂も済ませた私たちは、あとは寝るまでの時間を自由に過ごすだけである。
 疲れたといっても二十一時。轟くんもさすがにまだ寝る気にはなっていないらしく、前と同じように何やら書き物をしていたので邪魔にならないようベランダに出て星を眺めることにした。

 経営科の寮にいた頃からベランダに出て夜の星空を見るの好きだった私は、ちゃっかりベランダに出るためのサンダルを轟くんの部屋に持ってきていた。既に置いておいた自分のサンダルに足を入れ、ガラス戸を閉める。

 昼間はまだ暑い日もあるが、夜は暑すぎず寒すぎない丁度良い気温なことが多く、今日も心地よい風が吹いている。
 夜の雄英は昼に比べてずっと静かだ。
 ベランダから見下ろせば、見回りをする先生の姿を見つけたり、普通科の寮から毎日決まった時間にランニングをする生徒を見つけたり。暗い時間に寮の近くでイチャイチャしている生徒を見かけた時は思わず部屋に戻ってしまったこともあるが、たいていは平和な時間が過ぎていく。
 夜にベランダに出ることは、何気ない雄英の日常を見ているようで好きだった。そして、息を吸い込んで深呼吸をし、空を見上げればいつだって気持ちが前向きになる。
 今日も普通科の寮からランニングに出た生徒を見つけて思わず口元が緩む。あの子も頑張ってるなーと思っていると、ガラス戸を開ける音がして振り返る。

「名字、湯冷めするぞ」
「うん、もう少しで戻るよ」
「別に見える景色なんてさほど変わらないだろう」

 ベランダに顔を出した轟くんに「そうなんだけど」と言えば、彼は首を傾げながらベランダへ出てきた。轟くんこそ湯冷めしちゃうよと言えば彼はそこまでやわじゃないと真面目な顔で言い切る。

「今日は雲がないから星が綺麗に見えるよ」

 隣に並んだ轟くんにそう言えば、彼はこちらを見て少しだけ目を細めて笑う。
 覚えのあるその表情を見て、その時ようやく気付く。轟くんは優しく笑う時に眉を下げるのだと。それがなんだかすごく可愛くて、少しだけ切なく思えた。綺麗で、優しい控えめな笑顔に胸がきゅんとなる。

「そ、そういえば何か書いてたけどもう終わったの?」

 少し熱を持った頬をごまかすように轟くんに声を掛ける。空を見上げれば飛行機が飛んでいるのを見つけた。

「ああ、手紙を書いてたんだ。寮に入ってから病院に行けなくなっちまったから」

 病院、という言葉だけで相手が誰なのかすぐにわかった。お母さんに手紙を書いていたのか。だからあんなに真剣な顔をしていたんだなと納得する。

「手紙を書いてると、頭ん中が整理される。だから、ここ最近のことも書いてみたんだ。心配されないよう上手く書いたつもりだが、実際どうなんだろうな」

 私の左側に立った轟くんへ顔を向ければ、彼は静かに空を見上げる。
 すっと通った鼻の形、少しだけ開いた口、顎から首のラインが、どうしようもなく綺麗でかっこいい。少しだけ寂しそうに見えたその横顔を見て、夢の中でしか会ったことのない彼のお母さんのことを思い出した。

 彼の赤い糸は左手に結ばれていて、私の赤い糸は右側に結ばれている。だから彼は私の右側にいることが多かった。食事の時も移動の時も、轟くんは私の右側にいる。けれども私がベランダの右側に立っていたため、後からやってきた彼は私の左側に立った。

 空を見上げる轟くんの顔の右側を見る。火傷跡の無い右側。白い髪。灰色の瞳。轟くんのお母さんから受け継いだ右側。
 そして、今は見えない彼の左側を思い浮かべる。
 轟くんは、自分の左側をどう思っているんだろう。父親から受け継いだ赤い髪を、青い瞳を。そして、火傷の痕を。

「轟くん」

 彼に手を伸ばす。赤い糸が結ばれている自分の右手を、彼の顔に近付ける。
 それは、自分でも驚いてしまうほど無意識の行動だった。
 私はここ最近見ていた彼の左側を、ずっと私の傍にあった左側を、恋しいと思ったのだと気付く。

「名字……?」

 戸惑った顔をした轟くんの顔を見て手を戻す。ごめん、ただ、と口ごもるも轟くんは私の言葉を待っているように「なんだ」と返した。
 その表情があまりにも優しくて――

「こっちを見てほしいと、おもって……」

 そう、思ってしまったのだ。浅はかにも、その感情のまま行動を取った。
 けど、今、私は何てことを言ってしまったのだろう。言い終わってから、その言葉に含まれる感情に気付く。
 一気に顔に熱が集まる。意味わからない。恥ずかしい。パクパクの開いては閉じてを繰り返す口は上手く言いつくろうことが出来ず、途中まで戻した右腕を自分の顔を隠すように上へ上げる。

「今の無し、あの、言うつもりはなくて、いや、その」

 墓穴を掘っていくことしか出来ない。私の頭は上手く回っていないようだ。これ以上のことはないというところまでいったかもしれない。
 まだ夜でよかったかもしれない。どうにか自我を保つために自分を慰めてみるも効果は今一つ。
 雲一つなくて月明かりがいつも以上に綺麗だけど、それでも昼間見られるよりはマシなはずだ。

 腕で顔を隠したまま轟くんに「あの、恥ずかしいから先に部屋に戻ってくれませんか」とお願いすれば、彼は私の右手にそっと触れた。右手の小指、丁度赤い糸が結ばれている場所をゆっくりとなぞられる。

 えっ、えっ、な、何。
 一度小さく呼吸するような轟くんの仕草に気付いてまた心臓が忙しく動く。顔から手の先まで、全身があつい。
 小指をなぞっていた轟くんの指が、止まる。

「……名字、こっちを見てほしいと言ったら、名字は困るか」

 それは、今までにないほど胸が締め付けられる優しい声だった。

20190501
20191012加筆修正

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