瞼が重くて仕方がない。
あと二十分でチャイムが鳴るはずだが、それまで自分の意識は保っていられるのだろうか。
今回の睡眠時間は、三時間ほどだった。
試験前に徹夜した経験はあるものの、それでも二日続けてまともな睡眠が取れていない状況は結構辛い。隣に座る轟くんは連日快眠なようで問題なくノートを取っている。羨ましいことこの上ない。
ちなみに、昨日も私は轟くんの夢を見た。
前日の夢とは違った内容だったけれど、轟くんの視点から過去の思い出らしきものを見る――というものは同じだった。不可抗力とはいえ、他人の記憶を覗き見るのは申し訳なくなる。けれども朝の会話によると轟くんも同じだったようだからお互い様にしようと思わず言ってしまった。
今日のA組の午前中の授業は全て座学だった。
共通科目となっている座学の授業に関しては進行の差はあれど授業内容に科による違いはないようだ。これなら経営科に戻っても補習の量に苦しむことはなさそうだと安心したものの、連日の短い睡眠時間により内容が半分も入ってこないことが問題になってしまっている。
この授業が終わればお昼だから、と眠気に効くといわれているツボを押し続けるもどうにも効き目がない。左側に座る八百万さんの方をちらりと見れば、ぴんと背筋を伸ばしてノートを取っている。授業を受ける手本となるようなその姿勢を見て自分が情けなくなってしまった。
この教室で眠気と戦っているのなんて、私くらいだろう。今日こそはぐっすり寝たいなぁと思いながらなんとか授業を受ければ、ようやくチャイムが鳴った。
「名字さん、いかがされました?」
「あぁ、あの、すごく眠くて」
「あら、確かにうっすら隈がありますわ。……あっ、それなら!!」
チャイムが鳴ってそろそろお昼を食べに行くかというところで隣の八百万さんに声を掛けられる。もしかしたら私の授業中の動きが不審だったのだろうか。ありえる、と椅子から立ち上がりながら会話をすれば、寝る前にオススメだというハーブティーを今夜頂くことになっていた。
働かない頭の中でどうして紅茶を飲ませてくれるんだろう、と考えながらお礼を言えば、嬉しそうな顔をした八百万さんが「では、夕食の後に是非」と言って耳郎さんたちと昼食を取りに教室を出ていった。
「名字、もう食堂行けるか」
「うん、大丈夫」
教科書やノートを片付けた轟くんから声が掛かり、私も後を追うように教室を出た。振り返って教室内を見渡して自分の席に目を向ける。
昨日まで綺麗に整列されていただろう机。そこに今日、本来であれば必要のない机が新たに運ばれ、最後列に足された。まぁ、はっきりいえば私の席である。
朝、轟くんと一緒にA組の教室に入れば、教卓の隣にぽつんと机と椅子が置かれていた。置かれたそれは経営科の教室にあるはずの自分の机で、傍には教科書を含めその他もろもろ、本来私が取りに行くべきものも一緒に置いてあった。
確認すれば、昨日の放課後友人たちが運んでくれたらしい。謝罪とお礼を電話で伝えれば、面白そうに「いや、実は他学科の出し物について調査をと思って」と返された。つまり、まぁそういうことらしい。
私が送った深夜のメッセージのお礼を言われ、これからが楽しみだというように友人たちの賑やかな会話を聞きながら放課後にまた電話でやり取りをすることに決めた。
大きな荷物を抱えて周りにいたA組の面々と席をどこに置くか相談した結果、轟くんの隣に席を置かせてもらうことになった。
赤い糸は触ることが出来ないため通行の障害にはならないが、距離を取って痛みを感じながら授業を受けるのは避けたかったからだ。彼の赤い糸が左手に、私のが右手に結ばれているため、私の机は轟くんの左隣に置くことになった。つまり、私の左側の席には八百万さんがいる。
A組の推薦組に挟まれるという事態は正直恐れ多い。けど、最後列に座らせてもらうことによって、周りの生徒の邪魔になる可能性は低くなるので随分と有り難い席である。
昼食を食堂で取ったあとは個性強化の実技授業だった。
周りがコスチュームを着ている中、一人だけ体操服というのが恥ずかしく思えたが、とにもかくにもこの授業こそ経営科の私に必要なもので、轟くんの邪魔にならないよう上手く動きながらノートを取ることにした。
「必殺技となると、将来ヒーローとして活躍する時にかなり重要だもんねぇ。技の名前は大衆向けとなると子どもに覚えてもらいやすくて、かといってダサくならないようにってなるとなかなか難しいよなぁ……見た目も派手な方が嬉しいけど、それで被害が増えたら意味もない……コントロールするのって結構難しいんだ……個性にも上限があるから、それを考えた上でやらなきゃいけないってことでしょ。冷静に判断し、分析する能力も培わなくちゃいけない……うーん、なるほど。へぇ……そうかぁ」
昼前の授業とは異なり、ノートに殴り書きする手は止まることを知らない。昼食後というのに眠気も今は感じていない。楽しくてしかたなく、自分の胸は高鳴っていた。
こういう時のノートは後で自分が何を書いたか思い出せればいいと思っているため、書いていく文字はどんどん汚くなる。真っ白だったノートはあっという間に文字で埋まっていく。時々絵を交えながら書いていると、突然ノートに影が出来る。
「緑谷みたいなことしてんな」
「わっ、轟くんかぁ」
授業前、炎の扱いの向上を試みると教えてくれた轟くんは、授業が始まるとすぐに氷の柱を私の周りに出現させ、その後も定期的に氷を作って気温の調整を行ってくれている。
距離を置きすぎると心臓が痛むので、私はその氷の傍でA組の面々を観察していたわけだが、どうやら彼は新たに氷の壁を作ろうとしているようだ。
私のノートを見ながら「何が書いてあるんだ」と問う轟くんに説明をすれば、彼は少し驚いたような顔をして「すげぇ楽しそうだな」と小さく笑う。
「そ、そうかな」
「ああ。ここ数日で一番だ」
「……うん、楽しいよ。まさかこんな間近でヒーロー科の授業を見ることが出来るなんて考えてもいなかったから」
ヒーローには、なれないと思っていた。なる資格はないと思っていたし、なりたいと口にすることすら、してはいけないものだと思っていた。
無個性の私の前で個性を使うことのなかった家族と、見せびらかすように至近距離で個性を発動させる同級生の男の子――自分が無個性だと知らされてから、無個性が自分のコンプレックスになっていくのに時間はかからなかった。
無個性だから、だから尚更ヒーローという職に拘りがあった。無個性だと馬鹿にされたからこその反動だろう。
だから、高校に入ってから驚いた。人を守るための個性が胸を締め付け、熱くさせるものだと知ったからだ。
プロヒーローの活躍を、私は生で見る機会がなかった。ヒーロー活動を見るのは決まってニュース番組や動画サイトを通してで、つまり画面越しだった。リアル感を味わったことがなかったため、高校で初めて友人に個性を見せてもらった時に驚いた。すごく綺麗で、美しいものだと思った。
轟くんの傍にいると炎の熱を感じて、氷の冷たさを感じる。遠くで聞こえる爆音も、爆発によって届く風も、様々なものが自分を興奮させていた。それは、決して画面越しでは感じなかったものだった。
氷をいとも簡単に出現させた轟くんは、私に熱くはないか、寒くはないかと確認する。大丈夫だと答えると、そうかと頷いて再び自分の必殺技の訓練へと戻るように背を向けた。
「轟くんのこの氷、すごく綺麗だし守ってもらえてるみたいで安心するよ」
有り難う、とお礼を言えば彼は振り返って「そんなこと、初めて言われたな」と眉を下げた表情で呟いた。
「……炎は、轟くんのヒーローになりたい気持ちの表れみたいだ。熱くて、でも綺麗。火を見ると人間って安心するっていうけど本当だったんだ。これって災難救助での活動でも役立つよね……」
思い付いたことをノートにまとめていけば、改めて轟くんの個性のすごさを実感させられる。
夢で見た仮免講習で子どもを相手にした態度を思い返してみても、何が起きても周りを見て助けようとする気持ちは持っているようだし、ヴィランと対峙するだけがヒーローの仕事だという考えには陥っていないようだ。そういった面を考えれば、災害面での一般人の精神面のサポートという点での活躍も考えていける。
そういえば、最近デビューしたプロヒーローに蝋を操る個性のヒーローがいたような気が……などとプロヒーローとのタッグすら思い付いてしまうほど、彼は将来性があるように思える。
「すごいなぁ、轟くん」
今日の授業も終わり、補習をする数人と別れて寮へ戻ればA組の面々は文化祭の出し物についての話し合いを始めた。
痛みを感じない程度に轟くんから距離を置いてノートを取りながらビデオ通話を開始させる。後ろで相談をしているA組の邪魔にならないように気を付けながら経営科のクラスの様子を尋ねると、既に役割分担が決まっていたようだ。
『経営科としても今回はチームに分かれてみんなで作業分担することにしたの。で、まず偵察部隊なんだけど……』
「ちょっと待って、なんで最初に偵察部隊の話になるの」
『周りと内容被っちゃアピールするとこ減るでしょ』
「そうだけど、そっちよりもまず内容なんじゃないの……」
友人の至って真面目ですといった顔になんとも言えない気持ちになる。いや、そうなんだけど、と思いながら会話を続けていくと、後ろから爆豪くんの「ムカツク」や「殴る」「殴り合い」「音で殺る」という不穏な単語が聞こえてくる。
『今の爆豪くんの声だよね? A組ってデスマッチに変更したの?』
「まさか……」
わくわくしだしたクラスメイトたちに一端通話の終了を告げ、静かに様子を伺うと結局爆豪くんのあの言葉によって上手く方向性がまとまったらしい。まさかそんな展開になるとは思わず驚いていると、近くにいた尾白くんが「そりゃあ驚くよねぇ」と困ったような顔をして笑っていた。
夕食を取り、入浴を済ませてもA組の話し合いは終わらなかった。八百万さんにハーブティーを淹れてもらい、それを飲みながら授業の復習をしていると少しずつ眠気が襲ってくる。
ある程度までノートをまとめると片付けをし、ソファで少し仮眠をとることにした。轟くんもまだまだ話し合いを続けているため邪魔は出来ない。ソファの傍に置いてあったブランケットを借りて目を閉じれば、あっという間に意識が遠くなっていく。
頭上で爆豪くんの「誰だこいつ」という驚いた声が聞こえて、ああそういえば唯一彼とは挨拶すら出来ていなかったと気付いたが、もう目を開けることも口を動かす力も残っていなかった。
〇
役割が決定したことを喜ぶ飯田くんの声が共同ルームに響く。深夜一時を過ぎていたが、全員が最後までこの場所に集い、話し合いをしている様子は文化祭ならではといえるだろう。
そういえば先ほどかっちゃんを驚かせていた名字さんはどうしたのだろうとソファへと視線を動かすも、姿が見えない。さっきはうつらうつらしている頭が見えていたんだけど。そう思って辺りを見渡せば、演出隊と一緒にいたはずの轟くんの姿も見えない。
あれ、おかしいなと思っていると、ソファの奥に赤と白の見慣れた頭が見えた。ソファの背もたれによって見えなかっただけで、あそこに二人ともいたのかと気がついて轟くんに声を掛けると、轟くんは「あぁ、緑谷」と小さく呟く。
「名字、起きねぇみたいだから俺らは先に上がる」
「えっ、ああ、そっか。個性強化の授業の時はすごく楽しそうだったけど午前中は眠そうだった、よね」
「連日睡眠時間短かったみたいだから仕方ねぇと思うけど、こんなとこで一人で寝ちまうのはどうなんだ」
少しムッとした顔をする轟くんに驚いていると、轟くんは名字さんの教科書とノートを半透明なキャリングケースに仕舞った。
「じゃあ、緑谷も早く寝ろよ」
名字さんの膝に掛かっていたブランケットを取った轟くんは、彼女を起こさないようにしながら名字さんの腕を掴んでそれを自分の肩に回した。
驚いて自分の体がぴしりと固まってしまったことに気付く。しかし轟くんはなんでもないように名字さんの背中と太ももにそっと腕を通し、彼女の体をあっという間に持ち上げた。名字さんの上半身をぐっと自分の方に寄りかからせながら立ち上がる轟くんの姿を見た女子の小さな悲鳴が部屋に響く。
「お姫様抱っこだ!!」
興奮した葉隠さんの言葉なんてなんでもないようで、表情を変えない轟くんは僕に向かって「緑谷、それ取ってくれ」とキャリングケースに目を向けて言った。
「エレベーターのボタンを押すのも大変だろうから、轟くんの部屋まで一緒に行くよ」
「……悪い」
そうだなと納得したように頷いた轟くんはすぐにエレベーターへと向かっていく。
名字さんを起こさないよう配慮しているのか、いつもよりも歩くスピードがゆっくりなように感じる。
「そういえば布団、敷いてなかったな」
やましいことなんて何もないだろうに轟くんのその言葉に思わずドキリとしてしまった。心臓は妙にうるさくて、申し訳なさすら感じた。悪いことなんて何もしていないのに、僕だけが妙に緊張しているみたいだ。
すぅすぅと寝息を立てる名字さんを見つめる轟くんの顔は、随分と柔らかな表情をしている。
「名字さん、ぐっすり寝られたらいいね」
「ああ、そうだな」
20190419
20191012加筆修正