完結
 重い瞼を上げる。そうすると、私は何故か女の人の胸に抱き着いていた。
 えっ、と声を上げるも不思議なことに、声が出ない。代わりに少年の「お母さん」という嬉しそうな声が聞こえる。

「焦凍、ほらオールマイトが出てるよ」

 頭を撫でられる感触がすると、見える景色が変わる。優しそうな女の人がこちらを見て「焦凍」と呼んだ。
 その名には、覚えがある。轟くんの名だ。そのことに気付くと、そういえば自分は轟くんと赤い糸で結ばれてしまったのだとか、一緒に過ごすことになったのだとか、ついさっきまで寝られなくて困っていたのだとか、そういったことを思い出すことが出来た。
 じゃあこれは、なんだろう。夢、なのだろうか。
 縁結びの個性がここまで影響を及ぼすとはと驚き呆れつつ、いつ覚めるのだろうと思いながらその夢を見ていくことにした。

「焦凍は、ヒーローになりたいんだもんね」
「うん!!」

 頭を撫でられ嬉しそうに答える轟くんの顔を優しい表情で見守るこの人は、もしかしなくても轟くんの母親なのだろう。
 優しく頭を撫でられる感触が伝わってくる。轟くんはテレビに映るオールマイトを見るのと母親を見上げるのに忙しない。

「なれるよ、焦凍なら」

 母親の言葉に嬉しそうに頷き、体の向きを変える。母親の膝の上で、頭を胸に預けてテレビを見ている轟くんは今とは違い年相応のように思えた。
 そんな折、オールマイトが映るテレビ番組を見ている轟くんの視界の中で写真立てを見つける。それは、入園式と大きく書かれた看板を挟み、腕組をするエンデヴァーと小さな轟くん、そして轟くんのお母さんが写っている写真だった。轟くんは母親の足元にくっついていて、表情に笑顔はない。不安そうに眉を下げている表情は少し意外だった。
 轟くん、お母さんにべったりだったんだ。今のクールな感じとは全然違うな、と思っているとふと気付く。

 火傷の痕は、この時にはまだなかったのか。

   〇

 どうもこの夢は、轟くんの見る景色でしかものを見ることが出来ないらしい。だからどんなに彼の体の一部が視界に入り、声が聞こえようとも、今の轟くんがどんな姿をしているのか、私にはわからない。

 今見ている夢は、夢というにはあまりにもリアルだ。けれども夢じゃなかったらなんなんだろう。轟くんの過去の思い出を、赤い糸を通じて見ているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、突然場面が変わる。

 屋内だが、どうやら先ほどの部屋とは違うようだ。
 板の間に膝がついていて、小さな手も同じように床についている。
 視界がゆれ、腕が震える。左腕の関節部分の力が抜け、重心が偏り体が崩れそうになるもどうにか立て直した。

「焦凍!!」

 体は重く、疲労感が伝わってくる。怒号が降ってくると轟くんの体は震え、嘔吐感に口を塞ごうとする――が、我慢できずに口の中のものを轟くんは吐き出してしまった。口の中がすっぱくて、気持ちが悪い。私自身が吐いたわけでもないのに、そんな感覚が伝わってくる。
 すぐそばで女性の叫ぶ声がして、ゆっくりと顔を上げると目の前にはエンデヴァーが仁王立ちをしているのが見えた。こちらを見下ろすその瞳に優しい感情は一切感じられず、めらめらと燃えるエンデヴァーの炎に轟くんが恐怖と憎しみを抱き始めていることがすぐにわかった。

「焦凍」

 泣きそうな、震える声で轟くんの名を呟いたのは、彼の母親だった。その声に気付きながらも轟くんは決して母親の方を見ることが出来なかった。
 体が震える。母親の手が背中を撫でるも、その手も震えていた。
 視界は滲み、どんどんぼやけていく。

 場面はまた変わる。
 夜、轟くんは寝床を抜けて「お母さん」と小さく呟きながら辺りをきょろきょろと見渡しているようだ。眠気を我慢しながら眩しい廊下を進む足はまだ小さく、子ども特有のぷにぷにした可愛らしい足をしている。先ほど見た内容からそれほど時間は経っていないようだ。

 瞼を擦る轟くんは、台所で母親の話し声を耳にする。
 誰と話しているのだろう。そう思いながら顔を出すと、ハッとしたような顔でこちらを見る母親の姿がある。いつもの轟くんなら、駆け寄って母親に抱き着いただろう。けれどもその時の母親は、今までに見たこともない恐ろしい顔をしていた。ヤカンからボコボコと湯が沸く音が聞こえ、蓋がカタカタと音を立てて激しく動いている。湯が沸騰していることがわかった。
 轟くんの心臓はどくどくと今まで以上にうるさく鳴っている。不安を感じている彼の耳には、彼の母親が今さっき話していた内容が十分に理解出来ていた。
 轟くんが、初めて母親に恐怖を感じたのがわかった。それは、エンデヴァーに感じたものとは少し違った感情であった。

『あの子の左側が――』

 母親を呼ぶ轟くんの声に胸が締め付けられる。
 もしかして、と思うのと同時に母親の手がやかんに触れるのを見て、声が出せないと知っていながら私は轟くんの名を叫んだ。


 場面は変わる。
 轟くんは鏡を見ていた。夢の中で初めて見る轟くんの顔である。
 感情の見えない顔で、轟くんは鏡に映った己を見ていた。それは母親が使っていたドレッサーの鏡で、片目を包帯で隠した轟くんは、いつか母親がしたように右手で自分の髪を撫でてみた。右側の、母親から受け継いだその髪をそっと撫で、顔を歪めて静かに部屋を出た。

 片目が見えない状態で廊下を歩くと、時々よろけてしまう。それが危なっかしくて心配になっていると、偶然エンデヴァーと会ってしまった。
 その頃、轟くんのエンデヴァーへの憎しみは既に出来上がっていたようだった。目は合わせず、会話もない。

「何をしている、焦凍!!」

 時間だと言って腕を掴まれ引きずられ、睨みつけるようにエンデヴァーを見上げるもエンデヴァーはこちらを見ることはない。轟くんを、理想とするヒーローに仕立てることだけを考えているのだ。
 エンデヴァーが話すたびに揺れる口髭の炎を見て、轟くんが何を思っていたのかはわからなかったけれど、体の奥から湧き上がるエンデヴァーへの感情が良いものではないことだけは十分に伝わってきていた。

 彼の幼少期の思い出は、エンデヴァーへの憎しみで溢れていた。元々、エンデヴァーの話題が地雷だということは経営科では周知の事実だったが、原因を知る生徒はいなかった。轟くんは聞かれても言わなかっただろうし、プライベートは守るのが経営科の掟である。何かあったんだろうね、で終わっていた。
 彼がヒーローとして生きる未来に思いを馳せる人はいても、彼の過去に特別興味を示す人はいなかった。私たちはゴシップ誌の記者になりたいわけでも、ヒーロー科オタクでもない。将来有望なヒーローに興味があるだけで、自分たちの将来のために学校生活を送っている。
 私も、彼に興味はなかった。彼のことは苦手だと思っていたから今後自分の人生で関りが生まれるとも思っていなかった。だから、知らなかった。何も。

 小学校を卒業し、中学生の冬の日に雄英に受験をした。その頃になると、私の知る轟焦凍という男の子が出来上がっていた。
 親しい同級生はいなかったようで、いつも彼は一人でいた。それに対して何か思うことはなく、彼は本当に一人でいいと思っていたようだった。一番には一人しかなれない。だから一人でいいと、彼は心からそう思っていたのだ。

『邪魔だ』

 その言葉は当時の轟くんの口癖で、皮肉にもエンデヴァーがヒーロー活動を行う際によく口にする言葉でもあった。


 春を迎え、雄英に入学してから少し経った体育祭の日、そんな彼に変化が起きる。
 オールマイトに目を掛けられている緑谷くんとの対戦がきっかけで、彼のエンデヴァーへの憎しみは少しずつ変化していったようだ。
 彼の出自をこんな形で知ってしまったことへの申し訳なさを感じつつも、決して見逃してはいけないのだという気持ちになっていったことに気付いた。

 私は、轟くんはすべてを持って生まれた男の子だと思っていた。彼のプロフィールを知った時、ああと乾いた笑いしか出なかったのを覚えている。この人は、私とは違う世界に生まれた人なのだと思った。
 でも、順風満帆な人生だったわけじゃないと知った。彼は努力しなかったわけじゃないし、個性や能力に怠けることはなかった。時にめちゃくちゃなことをしてきたようだが、不真面目ではない。彼の思うことを信じてやってきた。ヒーローになるためにやってきた。

 彼を苦手だと、憎らしいと、羨ましいと思っていた過去の自分に腹が立ってくる。
 仮免での出来事や講習でのエンデヴァーの言葉を聞いた時、私は自分が恥ずかしくて仕方がなかった。

   〇

 朝、ちゅんちゅんと雀の鳴き声を聞いて目が覚める。
 おもむろに手を上げて見てみると見慣れた自分の手と赤い糸が見えた。
 現実の時間でいうと短いだろう。けれども体感時間は長かった。
 あの夢は、過去の轟くんに起きた出来事を見させるものだったのだ。あれが、彼の生きてきた人生なのだと実感すると、どばどばと涙がこぼれてくる。溢れた涙はどんどんと流れ落ちて枕を濡らした。
 鼻をすすりながら涙を拭い、ティッシュを探すために体を起こす。すると、ワイシャツに着替えている轟くんと目が合ってしまった。

「……お、おはよう」
「……はよ」

 油断していた。
 ここは彼の部屋だ。朝起きたら彼が部屋の中にいるなんてことは当然のこと。時計を確認して布団から出ると、赤い糸が少しだけ光る。

「……大丈夫か?」
「えっ? ああ、大丈夫――」

 です。と語尾にいくにつれ言葉は小さくなっていく。

「そうか」

 安心したのかほっと息を吐いた轟くんの火傷の痕を見る。昨日までは特に気にもしていなかった、火傷の痕。
 個性が発現したばかりの幼少期の話で、よく耳にするものがある。体についた傷は、発現したばかりの個性によって負ったものだと。そしてその怪我が、大人になっても残っていることはよくあることらしい。
 轟くんの顔にある火傷の痕も、きっとそうなのだと私は思っていた。多分、ほとんどの人がそう思っているだろう。
 けれども、違った。そうでないことを私は知ってしまったのだ。

「有り難う、轟くん」
「……?」 

 久しぶりにお母さんに会いに病院に行った轟くんが、扉に触れるのを一瞬ためらった姿を思い出す。
 とある日に仮免講習にやってきたエンデヴァーの瞳を思い出す。
 エンデヴァーに対する気持ちが前と変わっていることを思い出す。
 彼の過去を知り、自分のちっぽけさを実感した。何も知らなかったくせに轟くんのことを苦手だと思っていたのが、恥ずかしかった。

 自分は無個性だから、何も持っていないから悔しいのだと思っていた。
 無個性だと馬鹿にされ、哀れみを向けられることがとても嫌だった。だから、個性があるというだけで周りの人は恵まれている――そう思っていた。
 けど、轟くんは沢山“持っている”けれど、大変だったと知った。いや、“持っている”からこそ大変だったのだ。誰もが知るヒーローを親に持ち、本人も半冷半燃という素晴らしい個性を持っている。ヒーロー科の中でも優秀で、プロヒーローからも将来を期待されている。彼は紛れもなく“持っている”男の子だった。

「きっと個性のあるなしとか、そういうのは関係なかったんだ……」

 もしかしたら無個性故の執着だったのかもしれない。けれども少しだけ、彼の夢を見て自分の中で何かが変わった気がした。

「今の轟くんなら、将来きっと素敵なヒーローになれるよ。沢山の人に好かれて、憧れを抱かれるような、そんなヒーローになれるよ」

 朝から涙ボロボロ流しながら突然変なこと言われる轟くんのことを考えると不憫なような気がするけれど、この言葉だけは言わないといけないような気がした。

20181220
20191012加筆修正

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