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ドキドキして眠れない

第一印象は真黒な髪。普通の人よりもうつむきがちに文庫本を読みながら、扉の近くに寄
りかかって電車に合わせて左右に揺れるその姿が、なんとなく目にとまったのだった。
標準より、少しばかり、弟曰く大分背が足りない自分は、毎朝この満員電車に悩まされて
いた。何が辛いって、それは経験したものでなければわからないだろう。まじで締め殺さ
れそうになるばかりなのである。このままじゃ三年間の間に俺は圧死してしまう。口から
内臓を噴いて死んでしまうと本気で考える毎日であった。
その朝はまさに、俺に死の恐怖が迫っていた。なんということだろう。なんとか扉の近く
を陣取ったはいいものの、後ろの親父の腹があまりにもふくよかすぎて、俺を間違いなく
押しつぶす一方である。回りの人間も迷惑そうにちらちらと見るが、肥満を責めるわけに
はいかないだろう。それは差別である。
うう、でもせめてもうちょっとひっこめる努力はしてくれ、とぶるんぶるんと揺れる腹に
殺されそうになりながらエドワードはもうだめ、と本気で失神しそうになった。そのとき、
さっと腕を誰かに引かれたのだ。
「…大丈夫?」
ぼす、と別の人間の腹に押し付けられ、俺の神経がぞぞぞっと戦慄いた。誰ともしれない
男なのは、さっきの肥満中年と変わらないが、さっきのは背中に脂肪があたっていただけ
まだ我慢できた。しかし、今度は正面である。誰だこの人!と混乱しながらなんとか上を
向くと、何度か電車で見かけたことのある、でも顔も知らなかったあの男の腕の中にいた。
「うわっとと…さっきより柔らかくないと思うけど、我慢してくれよ」
ほとんど抱き合うような形で、それから20分俺はその男の腹と胸の中間ぐらい、つまりは
鳩尾?あたりに頬を押し付けることとなった。男からはなんだかいい匂いがしたし、汗く
さくないし、俺がつぶれないように壁に腕をつっぱってくれていて、なんだか申し訳ない
ようなありがたいような。ようやく俺が下りる駅につくと、じゃあね、と背中を押し出し
てくれた。お礼をいう暇もなく、ぷしゅっと閉まってしまう扉。駆け込み乗車をしようと
して乗り遅れるサラリーマン。ああ、今日くらい優しくしてくれてもいいのに。がたんが
たん、と速度を上げて去っていく電車を眺めながら、サラリーマンは打ちひしがれ、俺は
頬を赤らめつつぺこりと頭を下げていたのだった。


「以上!脚色なしの出会い話でした」
どうよ、と明日着る予定のコートにブラシをかけながら、エドワードが弟を振り返ってみ
せた。
だが彼が見たのは、アルフォンスがふーん、とあまり興味なさそうに、兄のベッドの上で
不良漫画を読んでいる姿だったのである。
「おい、ちゃんと聞いてた?肥満中年と乗り遅れサラリーマンのとことかまじで最高じゃ
ねぇ?」
世の中はそうやってありきたりな日常を過ごさせながらも、こうやってときめくような出
会いを用意してくれているのだよアルフォンス君、とエドワードはしゅっとブラシを弟に
向かって投げつける。それをぱしっとつかんで本気で投げ返してから、アルフォンスはあ
のねぇ、と恐ろしい剣幕で起き上った。
「けーっきょく父さん母さんを誤魔化す策なんにも考えてないじゃないっ!しばくぞこら
ぁっ!」
「お、弟よ落ちつけ、そんな悪い漫画の影響を受けちゃいけません!」
アルフォンスから漫画をとりあげながら、エドワードはだってよー、と本棚にそれを戻し
ながら言った。
「大体さ、最初から無理じゃね?俺家族の約束から抜け出せたことなんてねぇもん」
「僕も同じだよ。ま、ぶっちゃけ親離れしたいお年頃ってことだね。兄さんは」
「べっべつにかかか母さんが嫌いとかじゃねぇぞ!」
知ってるよ。マザコンだもんね。とアルフォンスは、エドワードが片づけ忘れた別の漫画
を読み始めながら言った。
「先生から何か連絡あった?」
「別に。待ち合わせの確認が来ただけ」
明日だけど、7時に駅でいいんだよね?という短い分の下になぜかヒヨコヒヨコヒヨコ、の
絵文字連鎖である。ロイのメールはいつもそうなのだ。
「…あのさ、先生もしかして恋人っていうより、歳の離れた友達って感覚なんじゃないの
?」
「んなわけあるかっ!友達にちゅーするか!」
「あ、そっか」
余りにも初々しいのでそんな可能性まで疑ってしまいたくなるアルフォンスである。エド
ワードは俺たちちゃんと恋人なんだからなっ!と何度も喚いてから、がっくりと脱力して
座りこむ。
「…でもさ、キスもたった一回、しかも唇合わせただけだし。お前に言うとおり恋人って
いうより友達っていうか、なんかあんまよくわかんね」
俺はもう一歩大人の階段を上りたいわけよ、と床にうじうじとのの字を書き連ねるエドワ
ードに対して、平たく言えばやっちゃいたいってことだよね、とアルフォンスがぶっちゃ
ける。
「だって若いんだよ!健康な青少年が考えることなんて大体そーだろ!」
「兄さん不潔…」
「大人になるってことは汚れるってことなんですー!」
だから大人はずるいって言われるんだよ、と持論にうんうんと頷く。それはちょっと違う
気がするけど、と思うが弟は口にださない。段々面倒になってきたからだ。
「かくいう俺様は人並みにそういうことには興味あんだよ。お前だって部屋にオカズ隠し
てるくせに」
「ちょっ!何勝手に入ってんの!」
「お前アジア系が好みだったんだなー」
「勝手なこと言わないでよっ!」
このホモがぁあっ!なんだとこらッ!とつかみ合う兄弟。小さい頃から近くの空手道場に
通い、二人とも黒帯である。本気でやったら家がまずいことになる。結局二人して床の上
でなんども寝技をかけたり、かけられたりを繰り返し、ついにアルフォンスが部屋を飛び
出していった。
「もう兄さんなんて知るかっこのチビ兄貴ッ!」
「てめーいちばん言っちゃならんことをっ!」
こら待て!という言葉には答えることなく、アルフォンスがばんッ!と扉を閉めた。
くそ、ちょっと目線が高いからって調子に乗りやがって、とぷんぷん怒りながら、エドワ
ードは不貞寝モードに突入である。ちぇ、なんだよ。小さい頃は兄ちゃん兄ちゃんって泣
いてたくせに。一人で小便もいけなかったくせに。
まあ大事な作戦を考えている途中でのろけ話なんかした俺がそりゃぁ悪かったさ、と鼻を
鳴らしながら、明日の夜どうしよう、とエドワードは嘆息する。エドワードとて家族は大
事なのだ。たった今喧嘩したばかりでは説得力もくそもないのだが、父親にだって少しは
顔を見せなければという気持ちもあるし、久しぶりに四人で囲む食卓が恋しくないわけで
はない。けれども。
ぶぶぶぶぶ、と携帯が震えた。ごろごろしながらストラップを引っ張ると、なんとロイか
らである。
「も、もしもし!ロイ先生?どーしたの夜遅くに!」
そう。大事なものだとは分かっているけれども、自然と脇に追いやられるのも家族である。
ロイからの電話で、ぶつぶつと言い訳がましく呟いていたものなど消し飛んでしまったの
だった。


『すまないね…別にこれといって用があるわけじゃないんだが』
「うん」
『ただ…楽しみで眠れなくてね』
とてもそんなふうには思えない声色で、優しく低くしみわたる声で、ロイにそう言われて
エドワードは天にも昇る気持ちであった。ふわあぁ、と翼が生えて雲の隙間に飛んで行け
そう。そして、まだ死ぬわけにはいかないと舞いあがりそうな魂を必死で押さえつけるの
である。
「お、俺も!今もなかなか寝付けなくってさ…っ」
『そうか…。起こしてしまったかと思ったよ』
「ぜんぜーん!さっきまで弟とプロレスしてたもん!」
『プロレスね』
電話口から笑い声が聞こえてきて、エドワードはうっとりと受話器を抱きしめる。両手で
柔らかく握って、イヤホンつけようかな、と思うぐらいロイの声を感じたかった。電子機
器を通さないロイの声とは雲泥の差だが、両耳で感じられるまだましである。でもとりに
いく時間さえももったいなくて、ただ息を殺して彼の言葉一つ一つを噛みしめるように脳
に焼き付けるしか、方法などないのだ。
『明日、何食べたい?』
「なんでもいいよ」
ロイ先生と一緒なんだから、どこだって天国である。明日はとうとうクリスマス。外国は
ともかく、この日本では恋人たちの一大イベントなのだ。家族には思いつく限りの謝罪の
言葉を上から下までべらべらと並べ、ロイの胸に飛び込むしかない。自分はそうしなけれ
ばならないのだ。と、言い訳する。
『シチュー好きだよね』
「先生は?」
『私も好きだよ』
好きだよ、という言葉にさえ恍惚に頬を緩ませるエドワードだ。もうどろどろに身体が溶
けてしまいそうだった。
「…そろそろ寝なきゃ」
『そうだな。子供ははやく寝ないと』
「子供じゃねーけど、明日は早起きしないといけねーから」
『ふーん…?』
ロイは不思議そうにそう答えたが、深くは追求しなかった。エドワードは最後に、ねぇ、
と受話器に話しかけた。
「ロイせんせ、俺のこと好き?」
『何言ってるんだ、今更』
「ちゃんと言って、好きだよ、おやすみって!」
言ってくれなきゃねませーん、というエドワードに、ロイの照れているのを隠そうとする、
ひき笑いが聞こえてきた。彼の大きな特徴で、普通に笑うときはさわやかなのに、照れる
とどうも格好がつかない。こんなふうに明日も、知らない彼を見つけたいのだ。
『エドも言うなら、言おうかな』
「前払いかよっ」
『損はしたくないからね』
さあ、と促してくる二人きりのときはちょっと意地悪な恋人に、こうなったら出来る限り
腰にくる声で言ってやる、とエドワードはおほん、と喉を鳴らした。
「…好きだ、ぜ?」
『照れるな』
軽く流すなよ。と少しむっとしていると、エドワードの機嫌をたちどころに治すロイの言
葉が、タイミングを見はからったかのように降りてきた。
『私も好きだ。明日が待ち遠しいよ』
今にも引き寄せるような力を持った声だった。その低音に耳をぶち抜かれ、エドワードは
ベッドの上であっちにこっちに転げ回った。大人ってすげぇ。ほんとに腰にきた…っと顔
から火を出しそうになりながら、ロイのおやすみ、ちゃんと寝るんだよ、という言葉にぱ
くぱくと返事をした。
数分にも満たない通話が終わる。携帯電話のディスプレイには、7分52秒と現実的な数字が
並べられたが、とてもとても、それ以上の価値を持つ、エドワードの中でいちばん価値の
ある時間であった。
「…ちくしょ…っ強すぎ…!」
嬉しくて喜びに全てを支配される。はやく朝になれ、はやく眠ってしまえ、と思うのに、
今日に限って睡魔はなかなかエドワードを襲いにこない。何度も足を組み直し、寝がえり
を打ち、最後には頭と足を入れ替えても、まったくの徒労である。
一体全体何をした。と、自分で強請ったこととはいえ、ロイを恨みたくなる気持ちになっ
た。大人の本気を甘くみていた。いや、実際先生は本気なんかじゃなかった。明日本当に、
大人の一歩を踏み出してしまったらどうしよう、と今更ながら不安と期待と恐怖が入り混
じる。はてさて、どうなることやら。
枕を抱え、紅潮した頬をぐりぐりとそこに押し付けて冷やしながら、エドワードは潤んだ
瞳をきつく閉じる。
ああもう。
ドキドキして、眠れない。




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