10

エドワードは夜道を歩いていた。もうとっくに日がくれて、月が頂点に登ろうとしている。
買い物袋を提げて、それをゆらゆらと揺らしながら、家への道を歩いた。
変な落し物を拾ったのも、今日のような夜だった。ゴミにうずもれてもがいていた彼に、大
丈夫か、と声をかけたのだ。
起き上った彼は、なんとも現在では天然記念物のような生き物だった。七三分けに黒ぶち眼
鏡、よれたスーツのネクタイはきつくしまったまま。第一ボタンまでがっちり固めて、しか
し、ゴミだらけだ。大方、入社したばかりの新人が、上司にきつく怒られて自棄になったの
ではないだろうか。と笑ってしまった。いい大人が何してるんだよ、と。
がたっ
そんな彼の、自宅アパートの目の前で、何かが動いた。
「エド…っうわっ!」
奇声をあげたそれは、自分に向かって走り出そうとして、すぐそばのゴミ箱にぶつかった。
生ごみをぶちまけ、その中に倒れる。ぐじゃっと嫌な音がした。
「い、たた……っ」
「………」
エドワードは言葉もなく、彼を見下ろした。なんだこれは。デジャブか。
見覚えのあるスーツ。黒髪。ゴミだらけ。であったあの夜を彷彿とさせた。
「…何してんの?」
残念ながら、あのときの天然記念物と同一人物らしい。はあ、と小さくため息が漏れた。
「……えっと…」
なかなか顔をあげようしない彼に、エドワードは肩を落とす。
「ここには来るなって、弟に言われただろ?」
今更、何をしに来たのだろう。
俺のこと、どう思った?気持ち悪い?近寄るな?触るな?どうでもいいけど。
気のきいた台詞だといいな、あの時みたいな。とエドワードは苦笑した。どこぞのヤンキー
と勘違いして謎の説教をしてくれやがった、酔っ払いさんみたいにさ。
「……―――魔法を、かけてもらいにきた!」
男はそう叫んだ。乾いた声が、空気を震わせた。予想のどれも外れて、エドワードはぽかん、
と口をあけた。
「は、ぁ…?…―――――ッ!」
ゆっくりとロイが顔をあげる。エドワードは思わず、買い物袋を取り落とした。
うっすらと電灯に照らされた彼の目には、黒ぶち眼鏡がかかっていた。しかも、なんとか髪
の毛を七三わけにしようとしたらしい。少し違うが、いつか見た、どこかのお固いサラリー
マンの姿になっていた。
「ほら、私はこんなだっさい姿だ。君の魔法がないと元には戻れない」
「…何、はあ?ちょっと待って…よく分かんない」
混乱して、エドワードは思わず上から下に、ロイを眺めた。生ごみにまみれた汚らしい姿を。
「魔法をかけてくれ。エドワード」
そうして一歩ずつ、彼が近寄ってきて、エドワードは、戸惑って眉を寄せた。それから、精
いっぱいに笑って見せる。
「何いってんだよ。もう、あんたは魔法のかけ方知ってるだろう?」
あんたはもう、自分の足で歩けるんだ。
俺の傍に、いちゃいけないんだ。俺と一緒にいて、ここからあぶれちゃいけないんだ。あん
たの世界から。あんたは、こっちに来てはいけない。
「………君が、どう思っていようが」
ロイはさらにエドワードと距離を詰める。違う世界に踏み込もうとしている。エドワードは
逃げられなかった。彼のことを考えるなら、今すぐにでもやり過ごして脇を通り抜けアパー
トに駆け込んで、二度と来るなと突き放したほうがいいに決まっている。でもこの先に、今
まで自分がどんなに望んでも手に入らなかった言葉が、魔法の言葉が待っていると知ってし
まった。それを聞きたいと、心の奥が叫ぶから。
「私には、君が必要だ」
世界に、認められた証。
魔法使いのいなくなった世界で、ロイはどうしようもなく孤独だった。今までとは違って、
話せる部下も同僚もできた。色んな世界に触れた。いっきに視野が広がって、ちょっと博打
もうつようになって、魔法使いの、魔法の言葉にいつも救われた。『あんたに足りないのは
自信だよ』『目を閉じて』『次に目を開けたときには、あんたは魔法にかかってる』
エドワードがくれた、いくつもの魔法。きちんとこの胸に、今も息づいている。
それでも、ロイにはエドワードが、魔法使いが必要だった。これからも隣で、最後まで、魔
法をかけてほしかった。
それがどういう気持ちなのか、やっと分かったのだ。だからここに戻ってきた。
きっとあのときキスをしたいと思ったのは、自分が先だったと思いたい。
「君がどんな病気だとか、社会的な枠組みだとか、そんなのもうどうでもいい…それを教え
てくれたのは、君だよ」
エドワードの瞳が大きく歪んだ。そしてその膜のはった大きな目から、一粒涙が落ちる。
きっとなにより、社会に縛られていたのはこの子だったのだろう。行き場もなく、居場所も
なく、本当の心の内をさらせず、息をつめていたのは、自分ではなくこの子だった。それが
分かったから。だから、君が本当はどう思っていたかなんて、どうでもいい。
「好きだ」
魔法使いが。
ゴミだらけで申し訳ないけど、止まれない。小さな肩をこの腕に抱きしめた。
本当に迷惑な奴ですまない。こんなちっぽけな、人間ですまない。
この手でつかみとれるものは、やっぱりそう多くない。だけど君だけは、これからさきずっ
と、一緒に手を繋いでいてほしいんだ。君がためらいもなくそうしてくれたように。
「ろ…いさ…っ」
涙がスーツにしみていくのが分かる。恐る恐る、探るように背中に手を回されるのも分かる。
それを望んでいたのに、こんなに汚い私でいいのだろうか、と戸惑ってしまう。物理的にも。
しかし、エドワードはしばらくして、強くロイを抱きしめてきた。涙で言葉はかき消された。
それでも、背中に感じる彼の手の力強さも、この体中に感じる彼の体温も、何も自分を拒ま
ない。それが、嬉しかった。




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