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「おはようございます部長、今日は例のヒューズさんと打ち合わせっすよ」
「知ってる。なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「ヒューズさんと一緒ならブレ子もついてくるんで」
「ブレ子…誰だ?」
あれから何ごともなかったかのように、人生は、社会は回っていた。
本当にまるで魔法のように、突然現れて消えてしまって、ロイは拍子抜けしてしまった。所
詮は、関わることのない世界だったのだ。
こんなにも儚く細く、すぐに音もなく切れてしまって、悲しいとか、空しいとか、そんな感
情はどこか薄れて。
あれから、どうしているのだろう。
「お、来た来た」
例の会議のときも第一印象は髭を剃れ、だった。あの眼鏡の男が会議室に入ってきた。後ろ
に確かにブレダを引き連れて。ああ、ブレ子というのはこいつのことか、とロイは納得した。
「おはようございます、ぼっちゃん部長」
ブレダがそう挨拶してきたので、誰がぼっちゃん部長だ、と軽く返しながら、ロイはヒュー
ズに目を移した。
「改めて、ロイ・マスタングです。今回はよろしく」
「おう。マース・ヒューズだ。よろしくな」
二人は軽く握手を交わし、ロイがさて、仕事の話を、と資料を取り出そうとしたとき、ふと
彼の左手の薬指が気になった。
「…結婚しているのか」
「え?ああ、まあな。写真見る?俺の女房と子供ほんとマジ天使!」
そう言いながら写真の束を押しつけられた。隣でハボックが、ヒューズの後ろでブレダが、
ああ馬鹿あああ、という目でロイを見ている。ヒューズが家族自慢を始めると一時間は業務
がストップすることを、ロイはまだ知らなかったのだ。
「でっさーこの前プールに連れてったときにはさー、あ、これ水着の写真。かんわいーだろ?
あ、嫁さんのは見せねーぞ。超グラマラスだからな!」
「へぇそう。ではとりあえずこの話から始めたいのだが」
あれ、すげえ、と彼らの部下がロイに驚きと賞賛の眼差しを向けた。ヒューズの話題をここ
までばっさりと切れる男は、いまだかつていない。おおそうだったな、とヒューズもまた、
ブレダから資料を受け取る。そのあとも話が脱線しそうになるたびに光る能力に感心を通り
越して感動している二人がロイを見つめる中で、当の本人は仕事の話をなんでもないことの
ように進めていた。
世界は変わって、魔法が解けた。ここは以前と何も変わらない会社の建物だが、今では居心
地のいい場所になった。


「お前さんとはいい仕事ができそうだ!なあ今夜一杯どうだ?」
「いいのか?家族は」
くすっと揚げ足をとったロイに、あーそれもそうだなー、電話してくる!と携帯を取りに戻
るヒューズを見送り、戻るぞ、とハボックに声をかけると、彼がうずうずと切り出してきた。
「部長すごいっすね。この前あの人に手柄とられたって聞いてたのに」
「社のためになることなら、私は喜んで受け入れるとも。彼もなかなか頭が切れるし、楽し
くなってきたな」
「やー感服っす!」
たぶんそんなんじゃない。前のままの私だったら、今日の会議はもっと険悪なものと化して
いただろう。牙をむき出し、ヒューズに噛みついていたに違いないのだ。
そんな御大層な人間ではない。まったく、おめでたいやつ、とロイは苦笑した。
「おーいロイ!かみさんに連絡とったー!」
「分かったからでかい声で呼ぶな」
はーやれやれ、とロイがコートと鞄をもって、じゃあお先に、と部下たちに手をふりつつ出
ていく。職場は一変した。ヒューズに引きずられながら、ロイはこれが私の世界か、とため
息をついた。
「お前さん独身?それとも彼女いるとか?」
「彼女はいないし、結婚する予定も今のところないな」
「もったいねーなー!俺がいい女紹介してやろっか?」
「悪いが遠慮しておく」
女っけのねえ奴だな、と言わせるままに、私はあまり強くないからな、と断ってから居酒屋
に入る。こんなどこにでもいるサラリーマンのような真似を、よくできるようになったもの
だ。いつのまにか、自分は大人になった。もうずっと前に大人になった気がしていたけれど、
今ならそれを実感できる。もっと、はっきりと。
まだ不慣れの酒の味と、この雰囲気も、どうやら身にしみてきたようだった。
「えーっと、とりあえずビールに枝豆二人分、あと俺はー焼き鳥、鳥皮とモモ二本ずつ」
「あ、私も同じで」
お互いにビールを注ぎ合って乾杯した。これからの社の栄光にー!とヒューズがはしゃいで
いる。はいはい、と軽くいなしながら、ロイも男らしくビールを掲げた。
生活や世界は変わった。魔法使いも、いなくなった。
これが私の日常で、生きていくべき世界。
どんなおとぎ話も、魔法使いがそのあとどうなったかなんて知らないのだ。
「…子供はいくつなんだ?」
「2歳。お、やっぱり聞きたかったのか?」
「さっきは仕事中だったからとめてやったんだ」
「そいつはどーも」
といいながら背広から写真を取り出すあたり、こいつは常習だ。
「どれもこれもかわいすぎるなーおい。家族はいいぞー。お前さんも結婚しろよー」
「…まだ考えられんな…」
「そんなんじゃ売れ残るぞ」
「男は独りでも空しくない」
逆はともかく、と笑っていると、そういう女の人を増やさないようにするためにも結婚する
べきだ、と男はよく分からない論理を繰り広げ始めた。
女の人、ね。
「…ま、好きになったら関係ねえだろうよ。もう電撃よ。結婚よ」
その言葉に、ふいに顔をあげる。
「…そうかな」
「そうさぁ…すんませーん、ビール追加ー」
好きになったら。
「…ふん」
気持ちだけでどうにかなるようなことか。ぎゅっとグラスを握りしめ、ロイは勢いよくビー
ルを煽った。はあー、と酒臭い息を吐き出して、アルコールが回るのを待つ。
気持ちだけで、どうにかできたら。
あのとき何を考えていたかなんて、もうはっきりとは覚えていない。記憶にとどめておける
ものなど、そう多くない。でも、忘れてもいい思い出なんて、ひとつもなかった。今まで苦
しんできたことも、それでも精いっぱい、出来る限りやってきたことも、魔法使いに、出会っ
たことも。
私が今、すべきことはなんだ。仕事か?それがなんだ。本当に向き合うべきなのは。
答えがうっすらと形になっていく。本当に、私は大馬鹿ものだ。
手を伸ばせば、後戻りはできない。




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