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「…ロイさん…」
エドワードが振り返った。そして、口を開くものの、何も言葉が出てこない。ロイはその様
子を見て、なぜか彼を抱きしめたい衝動に駆られた。何を考えてるんだ、とも思う。アパー
トの廊下で、控え目な照明は、あの会場を想い起させた。この肌で感じた息遣いが蘇ってく
る。思わず、ごくりと喉を鳴らした。
「………その…俺、実は…」
「…兄さん?」
そこで、ロイでもエドワードでもない、若干高い声が空気を裂いた。
「………ア、ル…」
エドワードの瞳に戸惑いと恐れが広がるのを感じた。ロイがそちらに視線をむけると、そこ
にはエドワードと同じ、琥珀色の瞳と、少し暗い金髪の、よく似た青年が立っていた。いわ
れなくとも、兄弟だと分かる容姿。エドワードより、いくらか背が高いようだった。ロイよ
り少し低いくらいだ。しかし、彼の瞳は今、どこか探るように色づいている。
「…またなの?…それに、何?まさかうちでするつもりだったの?」
「ちがっこの人はそんなんじゃ…」
「いい加減にしてよ!」
兄さん、という声に、剣呑な色が混じっていたのは気のせいではなかった。弟はかつかつと
兄に近寄ると、手首をつかんで家の鍵をあけ、彼をそこに押し込んだ。待て!話を、という
エドワードがどんどんと締められた扉を叩く。兄さん静かにして、アパートの人に迷惑だよ、
という低い声に、エドワードの抵抗が弱まる。だが、がちゃがちゃと取っ手を回そうとする
ので、弟はそれを力づくで後ろ手にそれを防いだ。
一体、何が起こっているのだ。
「…もうここには来ないでください」
「は…?」
弟の目が敵意を含んでロイを射抜いた。ロイは思わずひるみそうになったが、相手は何歳も
年下だ。しっかりしなくては、と自分を奮い起した。何よりもエドワードのことが心配だっ
た。
「…何故、だね…?」
「兄さん、…兄は…」
『言うな!アルフォンスッ!』
エドワードの悲痛な声が扉から聞こえて、思わずロイは弟から目を放した。そのとき、弟の
口から飛び出した言葉を、一瞬理解できなかった。
「精神的な病で、男の人しか性的対象に認められないんです」
『アルっ!』
「あなたが兄に何を言われたか知りませんが、社会的に傷つきたくないなら、もうここには
こないでください。兄には会わないで」
弟は扉を開け、エドワードが勢い余って玄関から飛び出した。よろけた彼をアルフォンスが
支え、部屋に引きずり込む。
「ロイさ…っ」
彼が泣きそうな顔で見つめてくる。しかし、ロイが何もできずにいるうちに扉は閉まって、
鍵ががちゃん、とかけられた。


それからどうしたのか、よく覚えていない。
とりあえず電車はなかったから、24時間営業のコンビニに入った。どうしようもなく、雑誌
のコーナーの前に立つと、ガラスの向こうの駅ビルに、カラオケと漫画喫茶の看板が見えた。
ああ、あそこ行けば休めるかも、とロイはふらふらとその建物にむかって、生まれてはじめ
ての場所に入った。ひしめく漫画はみたことのないものばかり。シャワー完備、ドリンクバ
ー完備の至れりつくせりだった。閉塞感と人のいる気配に包まれながら、ロイは狭い個室で
膝を抱えて、夜が明けるのを待った。といっても、もうほとんど朝方で、弟がすこし早目に
帰ってくるのも頷けた。彼女のところに入り浸って帰ってこない、と言っていたが、あそこ
はエドワードだけの家ではなかったのだから、イレギュラーな事態などいつ起こっても驚く
ことではないだろう。
だが、エドワードは弟の姿を見た途端、明らかに怯えていた。
そして弟から告げられた、濁された真実。ロイは膝に顔を埋めた。
つまり、エドワードは自分をそういう対象として見ていた、ということなのだろうか。あの
日、といっても数日前、ゴミの中で倒れていた自分を拾ったのは、後々そういうことをしよ
うと目論んでいたからなのか。
魔法をかけてあげる。その言葉の裏には、彼の欲望が見え隠れしていたのか。救われたと思っ
ていた。自分の心をさらけ出していた分、大きな衝撃は確実に、ロイの心を、たやすく引き
裂いた。
信じられない。
ああそうだ。彼との接触は多かった。妙にエドワードは、自分を家に泊めたがった。手をつ
ないだ。戯れに抱きついてきた。なんの躊躇もなく。男同士だからと思っていたが、彼にとっ
ては、そうではないかもしれない。ロイの身体に服越しに触れて、何を考えていたのかなん
て考えたくもなかった。そんな、馬鹿な。
同性愛者、という言葉はもちろん知っていた。だが、身近にそんな人間がいたことなどない
ロイは、どう受け止めていいのか分からなかった。
あの時、キスしようと迫ったのは、やはり、エドワードだった?
自分もまるで、彼に引きずり込まれるように目を閉じたのか。どちらかなんて分からなかっ
た。あのときは。でも、今は。そんな。ありえない。
社会的に傷つきたくないなら、という弟の言葉は真実だった。ロイは、両親がなんていうだ
ろう、と馬鹿なことを考えた。あのまま弟の介入なく、部屋にあがっていたら、自分はエド
ワードと肉体的な関係を持ってしまったかもしれない。12歳も年下の少年と。
自分は冷静ではなかった。酒も入っていて、目まぐるしく変わる世界に浮かれていた。その
まま、促されるままに一歩、一線を踏み越えてしまったかもしれなかった。彼の望みのまま
に。
また、ここに来てくれる?
もう、ここにはこないでください。
似ているようで違う、二人の兄弟の言葉を反芻した。自分はどうするべきなのだろう、とロ
イは、ぐるぐると考え続けていた。答えはでないと、きっと分かっていた。


「…兄さん、ほんと何考えてるの」
「違うって言ってるだろ…っ」
ロイを閉めだしたあと、アルフォンスは兄をずるずるとリビングまで引っ張っていった。
「何が違うっていうの。こんな時間に、男の人連れて、またああいうことしてたの?」
「あの人は違うんだって言ってるだろ!お前いい加減にしろよ!」
「いい加減にするのは兄さんだよ!」
それは大きな声ではなかったものの、エドワードを黙らせるのには十分なほど、語気が強く
感情の激しさを伺わせた。
「僕は二度とあんな、…あんなものは見たくない」
「…」
「兄さんは病気なだけでしょ。ちゃんと直さなきゃいけないって分かってるでしょ」
「アル…っ」
「僕がいないときもカウンセリングに通うって約束したよね。ちゃんと行ってるんだよね」
「行ってる…でも、アル…俺は…」
「だったら病気が悪化するようなことしちゃ、だめでしょ」
兄さん、とアルフォンスは、エドワードの前にかがみ込んだ。
「兄さんは治るよ。こうなったのは兄さんのせいじゃないんだから」
兄さんは悪くない。兄さんのせいじゃない。兄さんは。兄さんは。
兄さんは、おかしくなんかないんだから。
「…そう思ってるくせに、どうしてお前はこの家に帰ってこないんだよ」
エドワードは小さく、冷たくそう言った。
「俺のこと、見たくないからだろ。気持ち悪いって思ってるくせに、なに綺麗事言ってんだ
よ、このっ!」
弟につかみかかるなんて何年ぶりだろう、という場違いな問いが頭をかすめた。
「なっいやだっ!…触るなッ!!」
アルフォンスの声が部屋に反響して、エドワードははっと手を止めた。
怯える弟を認めて、そしてその瞳が、嫌悪と家族への愛情で揺れているのが分かって、エド
ワードは手を放して、踵を返した。
「兄さん!」
ばんっと扉を叩きつけて、夜明け前の一番寒い外へと飛び出した。行き先なんて思い浮かば
ない。今はただ、弟から離れたくて仕方がなかった。
そう、帰る場所も居場所も、この現実世界の中には、エドワードのための場所など、ありは
しなかった。こうしてあぶれてしまった後では、世界は二度と自分を受け入れてはくれなかっ
た。
もう涙も出ない。
朝日が少しずつ差し込んでくる。そこに向かって走りながら、たどり着けないと知りながら、
エドワードは走った。いつまでも。どこまでも。
そしてもう、どこに来たかも分からなくなったころ、ようやく立ち止って、空を見上げた。
暗い闇を照らし始めた太陽。不思議な色に染まる空。その下で、ただ、一人の男に会いたく
なった。




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