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魔法使いの弟子 I would like to become a magician.


俺があんたに魔法をかけてあげる。


首都、大手通販会社に勤める一人の男の朝が、同じように慌ただしく始まっていた。
「…今日は会議が十時から。プレゼンの資料はこれ。おっと、腕時計…」
いつも通り髪を整え、ハードワックスで固め、黒淵の四角い眼鏡をかける。
かっちりと七対三にわけて固めた髪に、スーツを着込んで、ふむ、完璧。と彼は眼鏡を押し
上げた。小学生の頃から続けている、今日の予定を鏡の前で復唱する日課を終えて、新聞を
流し読んで家を出る。朝食は取らない。低血圧の朝。満員電車。煮詰まる車内。ワックスの
匂い。
ああ不快だ。現実とは不快なものがすし詰めにされている。
ずっと生きているからと言って何が変わるわけもなく、同じような日々を繰り返す毎日。そ
うまさしく、この環状線のようにだ。仏教では生きることは苦しみに満ちているというが、
果たしてこれもその一つに入るのだろうか。何も変わらない日常を、不幸と誰が言えるだろ
う。
では、一体何のために生きているのだろう。と、鬱になりはじめた30歳の春。今年も売り上
げの成績と昇進への足がかりについて考える日々の繰り返し。
終わりはない。はじまりも、また。己の尻尾を追いかけまわすだけなのだ。
「でさーそいつってば馬鹿騒ぎして両足からどぶにつっこんだわけよ。ばっかじゃねぇ?」
ふははは、と下卑た声で笑う大学生。脇目も振らず化粧を直す隣の高校生。こちらに寄りか
かって寝ている中年男性。極めつけはイヤホンから駄々漏れのロックソング。
苛々と鞄の端をいじりながら、じっと耐える。そう人生とは、耐えること。忍耐力が物を言
う。この30年、けして多くの幸せは望まなかった。ただ社会的に上の地位にいられればそれ
で良かった。自分は社会の底辺をさまよう汚物ではない。むしろ貢献している謙虚で立派な
人間なのだ。税金も携帯の料金も滞納したことはない。図書館で借りた本を期日よりずっと
早く返せる。倹約家で掃除も料理もそれなりだし、そう、私は完璧な人間なんだ。
そうだろう?だからもう、何もいらないじゃないか。


「部長、今回宣伝引き受けてくれてるこの会社なんっすけど」
「後にしてくれ。これから会議なんだ」
「あ、すいません」
この歳で部長にまで上り詰めた己の手腕には本当に脱帽だ。誰も口を出せやしない。誰にも
口を出させはしない。私の計画は完璧なのだから。
「ああそうそう、朝っぱらからこんな話もなんですけど、今日飲み会なんっすよ。部長も来
ます?」
「悪いが夜は予定があるので」
予定なんぞない。だが、私は酒はやらないのだ。煙草もやらない。目の前の部下はヘビース
モーカーだが、副流煙に迷惑被っているのは今にはじまったことじゃない。最近じゃ喫煙ル
ームができたおかげでこいつとのわだかまりも消えつつあるが、数年前まではひどかった。
なぜか同じ部に配属されることが多く、3年でやっと名前を覚えた。ジャン・ハボック。仕
事はそれなりにできるが、荒が目立ち、よくその手直しでこちらが残業になることがある。
それなのに飲み会とは、いい御身分だ。
なんて、けしてそんなことは言わない。悪口は身体の中だけと教育されてきたのだ。私に必
要はなのは私の言った通りに動く部下。それでいいのに、それすらもできない者たちと、慣
れ合うつもりはさらさらなかった。
「…あちゃー、また振られちゃった」
オフィスを出ると、そんな声が聞こえて耳を澄ます。地獄耳な自分には、聞かなくてもいい
ことが次々と入ってくるようで、自然と目を伏せていた。
「マスタング部長って人づきあい悪いよねー」
「人使いも悪いだろ」
ははは、と談笑に花が咲くのは、自分がいないときだけだ。今、忘れ物を取りに戻ったりし
たら、間違いなく気まずい雰囲気になるのだろうな、と一人嘆息する。あいにく忘れ物など
しない。私は、そう、完璧なのだから。


「――――ということで、ここ3年の売上成績を踏まえて、今回の新商品の宣伝はこのよう
に」
お手元の資料をご覧ください。難しい顔で頭を捻る重役。一体何が気に入らないんですかね。
「…確かに堅実だがね」
「確かな収益につながるかと」
ああいやだ。これだけで利益は2割上がるのに。
「もっと思い切りが欲しいねぇ」
「…」
思い切りってなんだ。食えるのか。そんな博打を私に打てと言うのか。行き当たりばったり
は嫌いなんだ。どうだっていうんだ。私の何が間違っていると言うんだ。
そんな険悪なムードになりつつあった会議室に、挙手が一つ。
「その計画、俺も乗らせてもらっていいっすかねー」
「ヒューズ君、何か提案があるのかね?」
その髭面の男は、こちらを見てにやりと笑った。


「お客さん、もうそのへんにしたらどうだい?」
「うるさい!…放っておいてくれ…」
失敗した。
ああ、久しぶりの失敗だ。奴の案のほうが全然良かった。そう思えるくらいにはもう頭は冷え
ていたけれども。
ずず、と酒を啜りながら思う。そうだよ私も酒だって飲みますよ。はじめてですけどね。なん
かふらふらして、体が熱くなってきた。
生まれてはじめて飲むビールと、日本酒。こんな味がするんだ。なんか、まずい。
私の味覚は中学生か、と思わず自分でへらへらと突っ込む。まずいまずい、と思いながら、喉
の焼けるような感覚が、頭がぼうっとする瞬間がたまらない。なにより非行に走るという陳腐
な感情が、暴走する。
適当に札を置いて、ふらふらと店を出た。そういえばはじめて居酒屋にも入った。いい歳こい
たサラリーマンが、居酒屋にすら入ったことがなかったなんて。ん?まあいいのかな。だって
私は、今まで完璧に生きてきたんだから。ちょっとぐらい羽目外したって、ばちはあたらない
だろう。
がしゃーん!
ゴミの中に頭から突っ込んで、ああ、もう最悪だ、とコンクリートの地面に伸びた。
死にそう。身体が熱くて、コンクリートは冷たくて、まだ春だ。夜は寒い。
こんなところで伸びてたら生まれて初めて警官のお世話になってしまう。なんとか起き上ろう
として、唸っていると。
「…おいおっさん、大丈夫かよ」
顔をあげたら、月明かりと電灯に照らされて、金髪がきらきらと光っていた。その耳にはシル
バーピアス。パーカーの腹ポケットに両手を突っ込んで、こちらを見下ろした男の顔は逆光で
見えない。だが、そのいでたちから間違いなく若者だ。そうだ、現代の若者だ。
無性にむかついて、ふらふらと立ち上がりながら叫んだ。
「い、まどきの若者は…なっとらんなぁ!なんだその髪とピアス!恥ずかしくないのかぁ?」
「酔っ払いがその若者に絡むのはどうなんだよ?」
「酔ってなどない…貴様のような社会の底辺がいるから日本はよくならんのだ…自覚を持て!」
「ゴミん中はいずりまわってる奴に言われたかねーよ。バナナの皮とれよ」
「親の脛かじりがぁ!」
「…」
自分が立ち上がってみると、その男は随分と背が低かった。まだ少年といったところだ。大方ヤ
ンキーの中学生だろう。私が鍛えなおしてやる。
「君は分からないだろうが、お金を稼ぐってのは大変なんだぞ?昇進するってのはもう戦場だ!
下は追いかけてくるし上は邪魔してくるしな!中間管理職の辛さってもんを分からせてやりたい
ね!大体、私は……」
誰よりも価値のある人間なのに。
そう言おうと思ったのに、私はなぜか口をつぐんだ。なんとも自分が、器の小さい、いやしい人
間のような気がしたからだ。
威厳とか、尊厳とか、誇りとか。抱えきれないプライドをひけらかして、突っぱねて。
どこに向かって歩いているのだ?
「…私は……一体、なんで…生きてる…?」
とてつもなく死にたい気分だ。
立っていられなくて膝をつく。またゴミの中にべしゃりと。ああ、スーツが。安いから構わない
けれど。
「…なぁ、俺があんたに、魔法をかけてあげようか?」
見上げた顔が、車のライトで一瞬照らされた。

それは、魔法使い。





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