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静夜 A quiet night


田舎に行かないか、と誘われた時。あ、これはまずい。とエドワードの中で警報が鳴り響い
た。それはなんとも平凡な昼下がりの図書室で、毎日その街で過ごす人々にとっては何の変
わり栄えのない日常の一部だった。だが彼の頭は、いや身体の本能が、そこら中で危険を訴
えたのだ。心臓が、湧き出た汗が、力の入らなくなった左足などが、全てにおいてその誘い
を受けるべきではないと理性に語りかけていた。
「なに、いきなり」
「まとまった休みが貰えたのでね」
男は多忙である。そして、エドワードもまた先を急ぐ身分だったが、二人が付き合い始め
て数ヶ月がたっていた。もうすぐ帰るなどと連絡をするものではなかった、と少年は後悔し
た。ロイは休みをもらったのではない。俺に休みを合わせたのだ。
「イーストシティから一時間くらいのところにある保養地だ。山の麓で近くには浅いが大き
な川が流れている。気にいると思うよ」
「そんな暇ないんだけど」
一週間くらい滞在するんだろう?と男はたずねてきた。その通り。手がかりもないのだから、
無駄な出費を抑えるべくひとところに留まるのがずっといい。断るのも自然な流れのはず
だった。だが当然のごとく、この男はそこまでの旅費も滞在費も出すだろうし、そうしても
こいつの財布は全く痛まないほど潤っているのであった。
「アルはどうすんだよ」
「中尉が部屋をリフォームしたいらしい。しばらく借りたいと言っていたよ」
便利屋扱いかよ、とエドワードは肩を落とした。確かに中尉なら、
アルフォンスの面倒をちゃんとみてくれるだろう。断るための最後の理由を取り上げられて
しまって、決まり悪そうに目をそらせば、少し強い力で両肩を抱き込まれた。
「顔が疲れてる。君には休息が必要だ」
結局自分に拒否権などなかったのだと、エドワードはさっと他の利用者に見つからないよう
にキスしていったロイの背中を見送りながら思った。
二人は恋人同士だったが、エドワードはロイにまだ身体を許してはいなかった。一度少し強
引にベッドに連れていかれたことがあったが、そのときはあまりにもエドワードが必死に抗
うので、さすがのロイも諦めたのだった。服の上から適度にお互いの身体に触れることも、
口づけも対したことではなかったが、その先に進むことに彼はまだ踏ん切りがつかないので
あった。
痛みへの恐怖や、快楽に流されることに抵抗はなかった。だが何より、自分がロイと最後の
一線を越えることで、どう変わってしまうのかが怖かった。想いが通じた日は、まるでこの
世の全てが一から作り変わったかのように素晴らしかったものだ。だがエドワードが気がか
りなのは、ロイが今までに連れ添った女性とどう比べられてしまうかということだった。ま
ず男で、さらに四肢の半分は鉄である。旅での酷使で傷だらけの自分の身体を、ロイはどう
思うだろう。一度夜を共にして、幻滅されてしまえばもう立ち直れない気がした。
そんな折に、あの誘いである。休息どころではなくなるだろう。逃げ場のない田舎町。いか
にももう逃がさないといわんばかりの態度に、エドワードは頭を抱えた。

出発の日の朝。エドワードは仕方なく、荷物をまとめて駅の入口にやってきた。精一杯ふて
ぶてしく待っていようと早めにきたのに、ロイは既に駅の待合室で文庫本を読んでいた。
「やあ。おはよう」
「ん…」
ロイの顔を見ると、今夜もしかしなくても、と思う自分に気がついて、エドワードはふいと
目線をまたそらしてしまった。ロイは別段それを問いただすこともなく、じゃあ行こうか、
と自分の荷物を持った。
その街までの間で、いくつもの牧場や畑を通り過ぎ、人々の生活を眺めながら列車は走った。
だがそれらの誰もが、ロイですら自分の気持ちを理解してはくれないだろうとエドワードは
思った。
昔からイーストシティの郊外は中央の貴族や高位の将官に人気の保養地であった。その多く
が川のまわりにそれぞれの別荘を立て、そして大金を落とす彼らを目当てに人が集まってで
きた、ここはそういう小さな街だった。ロイもまた大きくはない別荘を所有しているらしく、
駅で拾った運び屋に場所を指示しながら、自分でも何度か地図を確認していた。
そしてようやく、日が少し傾き始める頃にエドワードはロイの別荘にたどり着いた。ここま
で連れてきてくれた運び屋の青年に少し多いチップを握らせると、帰りも呼んでくれと電話
番号の書いてある名刺を渡された。
「なかなか綺麗だろう?」
「俺の田舎と大体同じだけどな」
エドワードは田舎の空気には慣れている。ここもリゼンブールとほとんど変わらない東部の
一つの村だろう。違うところと言えば、故郷の方がもっともっと奥地にあるということか、
近くにこんなに大きな川は流れていないということだけだった。
二人は別荘に入ると、まず窓を開け換気をした。エドワードが二階の窓の鍵の立て付けに手
こずっている間に、ロイは浴室でお湯がでるかどうかを確かめていた。荷解きを待つトラン
クが無造作にまだ火もいれていない暖炉の前に転がっていた。
「この前掃除してもらったばかりだから、なかなか使い心地がよさそうだ」
降りてきたエドワードにロイはそう言った。
「どうする?夕飯の買い出しにでも行くかい?」
田舎町の店は閉まるのが早い。エドワードは頷いて、買ったものをいれる麻でできた手提げ
袋と財布を持つロイの横に並んだ。

ロイはワインと、チーズを選んでお金を渡した。どうも、と笑う人のよさそうな店主は、ま
さか目の前にいる人が焔の錬金術師であるとは夢にも思わないだろう。見なりの良い服であ
るから、どこかの地主のお坊ちゃんくらいには見られているかもしれないが。そして俺は持
ち前の田舎腐さからお付きの従者とでも思われている。そう言うと、ロイは面白がって俺に
荷物を渡した。このほうが従者らしい。
「パンはどれがいい?」
「…あんたの好きなのでいいよ」
今日はとても食事できる気分ではなかった。何も喉を通さないだろうとエドワードは思った。
引き伸ばしているようで、確実に迫ってくる夜の足音。もうあんなに地平線を赤く染めて、
暗くなり始めた空との境界が紫色に変わっていた。肌寒くなってきた、とポケットに掌を突っ
込むと、近くの街灯に明かりが入った。
「帰ろうか」
ロイの動作ひとつひとつが、まるで始めから決まっていたかのように自然に見える。ここは
もう誰も俺たちのことなど知らない場所で、何の迷いもなく差し出された掌に自分の手
を重ねても、誰も見咎めはしなかった。川にかかる大きな橋を越えれば、そこにはもう人の
灯りはぽつりぽつりとしか存在しなかった。川で使用人と自分たちを分けるのがいかにも高
慢ちきらしいとロイは言った。街に住んだ方が便利なのに、とエドワードも同意した。
彼らの別荘は大きな通りを一つ外れたところにあって、庭は広く手入れが行き届いていた。
最近掃除してもらったばかり、というのは本当のようだ、とエドワードは家を見上げた。ロ
イが鍵をあけて、はやく来ないかと自分を呼ぶところだった。
二人でパンとチーズとハムの夕食を細々と食べた。外のレストランで食べて半分ほどテイク
アウトしても良かったのでは、とエドワードはロイを見たが、彼がゆっくりとワインを傾け
ているのをみて、追求はしないと決めた。外からは何も音がしない、静かすぎる夜だと思っ
た。
鳥の声も虫の羽音もしない、しんとした静寂は、嫌でもエドワードにロイの存在を意識させ
るのだった。
二人は交代でシャワーを浴び、火照った肌をテラスで宥めた。つい熱心に洗いすぎた身体が
ぴりぴりと傷んでいる気がした。ふいにロイが、エドワードの腰に手を回して引き寄せた。
軽く抱きしめてから、彼はエドワードの額に柔く口付ける。少年が身を固めると、それを解
きほぐすように身体を撫でて、鼻の横を通りすぎ唇にもキスを送った。
「…大佐」
その呼びかけには答えずに、ロイは何度か啄むような口づけをしたあと、ようやく開いた口
の中へと舌を潜り込ませた。
こんなキスをするのはそう、あの夜以来だった。エドワードが目の前の行為から逃げ出した
ときのことだ。家に招かれ、夕食を取った。君も少し飲みなさいと勧められたブランデーで
エドワードは上機嫌だった。景色が変わったのはソファに押し倒されてからで、なんとかロ
イをどかそうと思ってもエドワードにはどうしようもなかった。上着を開かれ、覗いた首筋
と鎖骨を何度もロイの舌が這い回った。顎まで至れば、また強引に唇を割られて何度も唾液
を吸われた。頭がもやがかかったようにぼうっとしてくると、ぐらりとまた身体が揺れて、
ロイに抱き上げられているのが分かったが、降ろせと言ってもロイは何も聞かず、エドワー
ドの身体を触り続けていた。はじめて服越しに胸の突起を摘ままれて、高い声をあげてしまっ
たときには、ロイが嬉しそうにくつくつと笑っていた。
半ばなし崩しにベッドに連れていかれたエドワードは、そこではっきりと今自分の身に何が
起こっているのかを理解した。流されるままロイにベッドに落とされ、のしかかられ、困惑
と恐怖に支配された。とてもできない。自分はこの男を満足させることなどできないと。
エドワードがそれから、あまりにも必死に嫌がるもので、ロイは手を引いた。エドワードは
脱がされそうになった上着を引き上げて、涙ぐんで一言謝った。まだ無理なのだとロイは思
い、震えの止まらないエドワードの身体を抱きしめた。
だが今日の彼は、もう止まるつもりなど毛頭なかった。それが腰に回された腕から伝わって
きて、エドワードはまた怖くなった。思わず逃げ腰になったが、ロイは自分から離れること
をもう許さなかった。最初に家に招いたときは、それはどういう意味だったのか分からなかっ
たのかと思っていた。でも、そうではない。エドワードは自分と夜を過ごす意味をきちんと
理解していた。今回も。だからもう、彼の殻を外から蹴破るほど強く求めなければ、この先
には永遠に進めないのだとロイは考えていた。
はあ、と何度も吐息が零れ落ちる。段々と早くなる心臓の鼓動。高まる身体。求めるロイの
腕の強さ。自分の不自由な手足。何もかもが一緒くたにぶつかって、ついにぱちんと弾けた。
「…だめだ…っやっぱりむり…!」
渾身の力で、エドワードはロイを引き剥がした。そしてばたばたと部屋の中にかけこんだ。
自分を呼ぶロイの声に振り返ることもできない。逃げ道を探して廊下に続く扉を開けたとこ
ろでばん!とその戸を閉められた。逃げても追いつかれるとは分かっていたのに。
「大佐…っん、ぅ…」
振り返ればそのまま扉に押さえつけられ、今度は始めからこじ開けるようなキスをされた。
もう逃げられないんだ、とエドワードは思い知り、まるで天敵に捕まった彼らの獲物のよう
に観念しようと身体の力を抜いた。だがロイは、ここでまた手を引いた。
「聞いてもいいか。君は、私のことをどう思っている?好きかい?」
疑われていると思って、エドワードは何度も頷いた。それだけが今エドワードの中で確かな
ことだったからだ。
「でも、セックスするのは嫌?」
分からなくて、エドワードは黙っていた。するとロイは身を離して、エドワードのはだけそ
うになっているバスローブを戻して言った。
「あと一時間くらいで、最後の列車がくる。今からゆっくり準備しても乗れるだろう。帰り
たいならそうしなさい。追わないから」
最後に唇同士を触れ合わせて、ロイは部屋を出て行った。エドワードは膝の力が緩んで、つ
いにずるずると座り込んでしまった。

怖がっているだけだ、とロイは見抜いていた。事の始めは誰しも通る道だからだ。さすがに
二回も逃げられれば、自分もエドワードがその恐怖に打ち勝てるようになるまで待とうとい
う気になるかもしれない。その一時間は彼にとってこの世の終わりのように長く感じられる
のだった。わずかな音にもぴくりと反応してしまうほど気が張り詰めていた。まるで彼が出
て行った音を聞き逃すまいとしているようだ、とロイはまた酒を一口含んだ。
がたん、と上の階で音がした。彼が帰る支度でもしているのだろう、とロイは諦め気味に
笑った。私が急ぎすぎたのかもしれない。だがロイにとっては、エドワードは唯一無二の存
在だった。分かったのだ。出会ったその日に、彼こそが自分を世界でいちばんに理解してく
れる人間だと。十一歳の子どもに何を分かってもらおうというのか、自分でも馬鹿馬鹿しく
て仕方がなかった。だがそれからというもの、多くの目の前に現れる女が色褪せた。誰と寝
ても、少年に会った日以上の高鳴りを感じる時はなかった。再会してようやく、ロイはエド
ワードが自分にとってどういう人間か認めたのだ。だがエドワードは、まだそれを感じ取る
には若すぎる。自分自体がはっきりとした形を持たないのに、他人を見極めることなどでき
やしない。
それでも決めてもらいたかった。若い頃に決断したことは、一生薄れない形になることを彼
は知っていた。自分自身が遠い夢を目指していることも含めて、自分の生き方決めた若い自
分を今でも信じることができるからだ。
そう考え込みながらうつらうつらとしていると、いつのまにか時計の針が元の位置に戻って
きていた。一時間たったのだ。エドワードはとっくに、イーストシティに戻る列車に乗って
しまっただろうか。ゆっくりと階段をのぼりながら、ロイは考えた。先ほどの部屋の戸を開
ければ、エドワードの姿はどこにもなかった。
はあ、とため息をついて扉をしめようとしたとき、彼は気づいた。ソファの足の向こうに、
赤いコートがはみ出している。
「…エド?」
ロイは静かに、それまで部屋にあった静寂を壊さないようにエドワードに近寄った。彼は帰
るために着替えてはいたが、膝を抱えて床にうずくまっていた。
「帰らなかったのか」
ロイが隣に座ると、エドワードはようやく顔をあげた。眉を寄せ、今にもなきだしてしまい
そうに思えた。冷えた頬を包み込むと、ロイは額をこつんとくっつけあって、馬鹿な子だ
なぁと笑った。
エドワードはもう逃げ出せないのが分かっていたのだ。せっかくロイが最後の機会をくれた
のに、着替えながらもうどこに逃げても一緒なのだと分かっていた。ならばここでまた逃げ
出すことに何の意味があるというのか。
「もう、帰れないぞ」
もう離してはあげられない。
「…うん。いいんだ」
そうしてはじめて、エドワードは自分からロイの胸に手を伸ばし、その唇を重ねた。



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