1

故郷へ To a homeland


 そこはどの国からも遥か遠く西にある、小さな田舎町であった。
この街は余所者をあまり歓迎しないのだが、一軒だけ旅人を労う宿屋がある。煉瓦造りの
古臭い建物には誰も覚えていないほど昔から蔦が蔓延り絡まり合って、人々の暮らしを眺
め続けていた。葉を落としてはまた土の中から生まれ変わり、新しい生き方を受け入れな
がら。
宿屋の亭主は余所者だ。だがもう、彼は余所者と呼ばれてはいなかった。この土地に住み
着いてもう何年もたち、古くから街で暮らしている老人ですら、彼の存在を認めている。
彼の人柄もまた、異国の風貌を覆すほどに豊富な知識もまた、田舎町に住む人々に受け入
れられたのである。
見知らぬ人間を歓迎しない街とはいえ、宿屋には時折足を失くした人々が一晩の寝床を求
めてくる。亭主は異国の言葉にも通じていたので、総じて旅人や商人たちには感謝された。
宿賃の代わりに珍しい装飾や珍味を手にいれては、部屋を彩り、酒とともに隣人に振舞っ
た。かくして宿屋は街の空気とは異質ながらも、数年そこにあり続けた。風が冷たく吹き
すさぶ日も。雪が音もなく降り続く夜も。
その日は珍しく、雨がしとしとと窓を伝う夜であった。宿の扉を、叩く手があったのだ。
亭主は読んでいた本から顔をあげ、立ち上がった。受付のカウンターを回って、戸の鍵を
回す。夜中の客は珍しくはない。
「…なんだ、君だったか」
「よっ」
そこいいたのは、大きなトランクと、肩掛け鞄。コートを重く濡らした青年だ。彼はまだ
余所者と煙たがれていたが、この街には何度も足を運んでいる。なぜならここは、今の彼
の唯一、帰るべき場所だからである。
「戻るのは先月と聞いていたんだがね」
「そうだっけ?途中は日付の感覚なくってさ。はいお土産」
そのままどん、と濡れた大荷物を亭主に押し付けると、青年はコートを脱いで水を払った。
よく掃除された木目の床に雫がびちびちと飛び散った。
「今回の旅はどうだった?」
トランクの水気をかわりに拭い、ストーブのそばへ運ぶと、ついでに自分も暖かいもので
も飲もうとやかんを火にかけた。青年は雨に濡れたセーターも脱ぎ終えると、火のそばに
座り込んで縮こまった。
「楽しかったよ。はじめて虫の料理食ったぜ。イナゴっていうらしい」
「それはまた」
「東は住みやすいのな。こっちとは大違い」
あの国の話も少し聞けた、と青年は金色の長い髪を拭きながら言った。亭主は穏やかにそ
うかと頷いた。
するとやかんがやかましい音をたてたので、亭主は革の手袋をはめて取っ手を掴んだ。慣
れた様子で青年もマグカップを二つに珈琲の缶を棚からとる。
「それであれは?濡らしてないだろうな」
「煙草?もちろん」
問題ない、と青年は湯気の立ち上る陶器から黒炭のような液体をすするのである。
「あとでな。今出したら湿気るかもよ」
「確かに」
まあまだあるし、と亭主は箱を取り出し、煙草の粉を多少紙にのせるとくるくると丸め、
マッチで火をつけた。
「もう何年たつのかな。あんたが煙草を吸い始めてから」
「随分と昔の話になるな」
若い頃は格好つけて吸っていたがね、と男はふーと煙を吐き出した。
「嫌かな」
「別に。葉巻の匂いは好きだし、あんたのは他にない匂いだから」
「それは君がそう感じているだけだと思うがね」
同じ煙草を吸っている奴など、この世界には五万といるに違いない。と亭主は笑った。旅
人はそうかな、と最初は納得がいかないように首をかしげていたが、やがて何かを理解し
たかのように暖かい飲み物を含んだ。
「うん、懐かしい匂いがする」
カップ置いて、旅人は亭主の横に腰掛けた。ことりと頭を預けると、煙草の匂いを胸いっ
ぱいに吸い込んだ。しばらく二人でストーブの炎を眺めては、何度か珈琲の苦味を啜った。
亭主は旅人の金色の瞳の中で炎が揺らぐのを見つめていた。いつ見ても、出会って何年経
とうとも変わらず、美しいと思うのだった。
「次は、いつ帰ってくるつもりだい?」
「決めてない」
行き先は聞かないと決めている。聞いたところで彼はそれを変える気にはならないし、今
どこにいるだろうと想像するほうが亭主は好きなのであった。
「あんたは行かないの?俺についてくればいいのに」
「宿屋は旅はしない」
来るものも拒まなければ、去る者も追わない。それが宿屋である。だがこの宿屋の亭主に
は、もう一つだけ仕事がある。
「…君を待ってるよ」
どんな日だろうと。たとえ嵐の夜であろうと、玄関の灯りを絶やさずに。
「そう。…そのほうがいいのかもな」
旅人もまた納得したようだった。そうしてカップを置くと、亭主の膝にのりあげ、その胸
に顔を埋める。先ほどよりも煙草の匂いが一息に深まった。何度でもここに、この香りの
なかに戻ってこようと旅人は思うのであった。

朝早く、彼はまた旅に出るのだった。宿の亭主もまた彼を見送った。今までも何人も、通り
過ぎる人々を見送ってきたのと同じように。彼がいつここに戻ってくるのかは分からない。
帰ってくるのかすら、彼には知りようもないのであった。
昨日の雨もからりと晴れて、まさしく旅立ちに相応しい日であった。
「おい、ほら吹き亭主っ」
もう中に入ろうと戸をあけたとき、生意気な高い少年の声がして、彼はまた振り返った。
「今日も聞きにきてやったぜ、逃げ出した王様の話!」
続きは明日っていうから待ち遠しかった!と怒る少年に、ここに来ることを親に何も言わ
れなかったのかと亭主は笑った。昨日気まぐれにしてやった話の続きが気になって仕方な
かったのだろう。少年は少し興奮気味であった。
「あんたの国での王様は、”だいそーとー”っていうんだよなっ」
「まあそうだな」
「んでさ、どうして逃げ出すことになったんだっけ?」
「亡命ってやつだ」
「ぼーめー?」
おいで、と亭主は大きく戸を開いた。この宿の扉はいつだって、誰にだって開かれている。
「実はその王様は私なのさ」
「嘘だぁ、信じないぞ」
亭主は少年を招き入れた。その宿屋は今日もそこにあった。余所者を歓迎しない街の外れ
で、色とりどりの異国の飾り物に包まれ、亭主のありきたりな煙草の匂いを纏って。訪れ
るものに安らぎを与え、立ち去るものを祝福するのである。一つだけ違うのは、亭主がた
だ一人の旅人を、長い間待ち続けていることだけだった。
「…君もいつか、旅に出るかもなぁ」
 なんでそう思うんだ?なんでなんで、と袖を何度も引っ張る少年に、宿屋の勘だよと笑い
 ながら男は過去へと舞い戻った。傍に灰皿と、珈琲を一杯。低く木に響く声が部屋を満た
 し始めて目を閉じれば、思いは遠くへと運ばれていく。

 今は遥か遠く彼方の、故郷へ。


end




[ 13/26 ]

[*prev] [next#]
[top]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -