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出征の日 The day of going to war


きっといつか、そんな日が来る。


「悪魔の棲む国、ね」
他国の新聞を読みながら、ロイは眉を寄せた。ひそかに隣国にいる部下から取り寄せたもの
だ。それで少しばかりかの国の世論がどう動いているのかをほんの少しばかり知ることがで
きる。
協定を結んで早数年の月日が流れていた。本当に少しずつ国家間の関係が良好になってきた
ところなのだが、今更ながらあの事件を蒸し返すやからが増えてきたようなのだ。
何しろ、あの日は日食だった。太陽が隠れるというのはどこの国でも不吉の象徴である。そ
の日にこの国では頂点に君臨していた男が倒れ、国土全体に禍々しい光が広がっていった。
隣国の監視塔から見たそれは、まさしく悪魔と呼ばざるをえない惨状だったそうだ。錬成陣
の赤い光と、大きな扉から人影が手を伸ばす姿を、多くのものが目撃したらしい。
そんなものを見せつけられた後の和約交渉だ。完全に他国政府は逃げ腰で、こちらの優位の
方に進めるのはたやすかった。
だが近年、そんな体制に不満を持つものが、彼らの国で増えてきたらしい。何を怯えている
必要があるのだ、むしろそんな恐ろしい国は滅ぼさなければならないという風潮だ。
「頭の弱い奴らだ」
現在の軍部は少しずつ戦備縮小に向かっていたが、やはり国境はまだまだ緊迫した空気の中
にある。商人たちの出入りも最低限で、厳しい条件を潜り抜けてきたものでしかこの国で商
売はできない。まだまだ閉鎖的な国の環境は変わっていない。
先のことを考えなければならないな、とふと立ちあがって、窓の外、眼下に広がる町を眺め
る。ここには守りたい人々がたくさんいるのだ。そのために、自分がすべきことを見つめる。
細かく指先が震えていて、それを握りつぶす。恐れも悲しみも、憤りも全て、この身に封じ
込めていく。


また戦争になるという。エドワードは号外号外と叫びながら走っていく少年を呼びとめて、
新聞を一部買った。
他国との協定が結ばれたときから、今まで軍需に携わってきた労働者たちに不安が広がり、
その技術を別の場所、たとえば建物の補強など、別の産業に携わるようになっても、やはり
戦時より稼ぎがよいわけではなかった。そういったところから不満が少しずつ、伝染してき
たようなのだ。それに、全員が上層部が国民を巻き込む大規模な錬金術の実験をしようとし
た、という言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。中には中心人物に接触し真実をしろうと
躍起になる記者や、一般人がいた。詳細な情報が分からなければ、またいつか同じことが起
こるのではないかという疑念が広がっていく。それ以上に、戦争がもたらした利益をまだ、
人々は忘れられずにいるのである。
そんな不穏な世の中で、ようやくエドワードはロイの元に腰を落ち着けていた。彼の紹介の
もと、軍部傘下の研究所にいる。国家錬金術師制度が廃止されてから、多くの者がこの研究
所に移った。支給される研究費の額は減ったものの、出兵命令はもちろんこないし、研究の
成果は国民に還元されるように仕組みが整えられたため、この国家認定研究者を目指すもの
も多くなってきていた。
研究所入口に彫り込まれた言葉はもちろん、錬金術師よ、大衆のためにあれである。その言
葉を、ゆめゆめ忘れぬように、というのが制度を整え直したロイの考えだった。
新聞を折りたたみ、家への道を歩く。夕焼けの道は影が長い。そこに並ぶものはなく、住宅
街に近づく度に音も消えていった。
ロイは最近司令部につめている。まだまだ弱い政府のために、軍部はほぼその存続を維持し
なければならず、思うようにいかないのが常であった。最近は国境の向こうも気にしている
ようで、エドワードは考え過ぎだ、とため息をつく。ロイは数年前にイシュヴァール政策を
後任に引き継ぎ、ようやく国全体の改革に身を乗り出したばかりだった。
鍵を回して家に入ろうとしたところで、門の手前にききっと車が止まった。振り返ると、よ
く見知った人物ががちゃ、と戸をあけて下りてくるところだった。
「ホークアイ中佐、久しぶり」
「突然ごめんなさいね、エドワード君」
将軍閣下がお呼びなの、という彼女の言葉に、エドワードは分かったと頷いた。あけたばか
りの鍵をまた閉めて、早足で車に乗り込む。思えばもう予想がついていた。これから起こる
であろうことも、自分がしなければならないことも。


思っていた通り、ロイの部屋に行けば、彼は来月に出征することを打ち明けた。まだ機密情
報扱いだが、西の国境で一方的に攻撃を受ける事態が発生したらしい。これを公開すれば、
一気に世論はまた戦争へと流れてしまうだろう。そうなる前に、ロイ自身の手で内密に処理
をしてくる。圧倒的な力の差を見せつけ、条約を結び直すのだ。
ここ何年か、同じようなことがいくつか起こっている。北もそうだし、南もそうであった。
そのときも、イシュヴァールで戦果をあげた数人の国家錬金術師が選ばれた。あの内乱は自
国内の領土で起こったにも関わらず、莫大な被害と損害と、軍事力の向上が著しかった。初
めて国家錬金術師が投入されたというのもあるだろう。
そしてついに、ロイに順番が回ってきたのだ。エドワードは何も言わず、一つ頷いた。自分
がすることは分かっている。こうなる日のために、ロイに何度も言い聞かされていたことだ。
理屈できちんと理解している。大丈夫だという意味も込めて、ただ小さくほほ笑んだ。
その日は二人して自宅に戻った。部下の手前、他人の手前で虚勢を張っていた二人の緊張が
解けたのはそのときだった。
明かりもつけず、暗闇の中でロイがエドワードの腕を引いて、その胸に抱いた。厚い軍服の
荒い生地に、昔から何度もそうしたように、エドワードも頭を預ける。
「…決まったんだ」
きっとこうなると分かっていた。
「ああ…」
何をするでもなく、また離れて、いつもと同じような時間を過ごした。風呂を沸かし、夕食
を作り、ベッドに入った。会話は少なかったけれども、お互いの考えていることなど言わな
くても分かっている。横たわる二人は指を絡めあって、無言で寄り添っていた。いつもだっ
たらうとうととまどろむ時間を過ぎても、眠りは訪れなかったが。
もぞりと身じろぐと、ロイがまだ寝ていなかったのか、と声をかけてくる。眠れるわけがな
いことを分かっているだろうに、明日もあるだろう、と言ってくるロイは残酷だ。分かって
る、と力なく答えて、ただ顔が見えないようにその胸に寄り添った。もうこの体温を感じら
れる時間も数えられる程度なのに、睡眠に裂く時間の方がもったいない。
ロイもきっとそう思っているのだろう。ともに過ごせることができるのはきっと今だけなの
だ。何時間も二人そうしていたが、結局眠ることはできずに顔を見合わせた。何も言わずほ
ほ笑むと静かに唇を重ねる。腕を回して、身体を引き合わせ、段々と激しくなっていくロイ
の動きにエドワードはそのまま身をまかせた。これでいい。このまま朝になって、また夜が
きて、一緒にいられる時間を少しでも長く共有したい。いずれ訪れる最後の時まで。


何年も前のことだ。諸国を放浪する旅を終えたエドワードが、ようやくロイと暮らし始めて
しばらくたったころ、エドワードは左足の機械鎧の手術をすることになった。金属でできて
いる接合部を、熱と冷気に強い素材に替えるためである。神経をもう一度繋ぎ直すことはも
ちろん想像を絶する痛みであった。
しかしそれには理由がある。こうして数年前の事件について嗅ぎまわるものが増えた今、そ
してロイがエドワードの元を離れる今、エドワードはシンにいるアルフォンスとリンの元へ
と出発する手はずになっていた。いちばんそこが安全だとロイが踏んだからである。そのた
めの障害は、エドワードに残された鋼の左足である。そのままの状態であの長い長い砂漠を
越えることはできない。海を使う航路を考えたが、やはり密入国するには目立ちすぎるため
に断念した。東洋人の中にぽつんと一人明らかに異国の者が混じっていれば人目につくこと
は容易に想像ができたからだ。
「お前は明日にでも発ちなさい」
弟のところに、とロイはようやく穏やかな呼吸を取り戻したエドワードの頬に触れながら言っ
た。早いうちがいい。ロイがまだこの町にいるうちに、信頼できる数少ない者たちとともに、
エドワードは旅立つ。ただ頷いて、エドワードはその裸の胸にまた寄り添った。
「…あのさ…いや、やっぱいい」
「なんだ、気になるじゃないか」
次はいつ会えるかなど、聞いたところでどうにもできない。エドワードは二人がまたもう一
度同じ空間を共有できる可能性がどれほどのものか、もう考えるのも嫌だった。思いつめて
いれば、どんどん悪い方に転がってしまう気がするのだ。もしかしたらもう二度と会えない
かもしれない。
「怖くねぇの?」
聞いてもいいのかと探り探り尋ねると、ロイは何も言わずエドワードに笑いかけた。
「イシュヴァールとは違うさ」
あの時は守るものなどなかった。ただ自分の指の間から零れ落ちて行く命ばかりが、儚く消
えていったのだ。
「ようやく守らなければならないものを見つけたんだ」
「なに…?」
分かるだろう、とロイは笑みを崩さない。それにまたエドワードは溢れかえる感情を押さえ
つけるしかなかった。
「行ってくるよ」


日中は猛暑に、夜は寒風に身をさらしながら、何日も何日も砂漠を歩いた。いつも眠りに落
ちる前に思い浮かぶのは、シンに発つ日の朝に、言葉を交わすこともなかった自分たちの姿
だ。ただ最後に抱きしめあって、いってらっしゃいというロイに手を振り返した。まるで明
日もまた会うのだと言わんばかりの別れの仕方。
「兄さん!」
数年来の弟とすぐに再会できたのもこの国の権力者のおかげである。元々異国生活も経験が
あったし、ここでは生活のほとんどが保障されているようなもの。さすがに気がひけるので
何か役に立てればとも思う。そうやって冷静に、新しい生活になじもうとする自分も確かに
いるのに。
「…久しぶり。元気だった?」
「ああ…お前は?」
唯一の肉親と会えて嬉しい気持ちもあるのに。
アルフォンスは、ここに来ることになったいきさつを知っている。それこそロイと何度か文
を交わして、エドワードがシンで暮らせるよう準備を整えてきたのである。ロイがどこに行っ
たのか、エドワードがここにくると決めた理由も全て分かっている。
「…行っちゃったんだね」
「………うん」
きっといつか、こんな日が来る。
覚悟していたことだろう。
軍人なら尚更、未来での生活よりもこうやって訪れるだろう離別を思い浮かべた。
それでも無力な自分が憎い。
「…あいつの手、震えてた」
怖くて仕方なかったはずなのだ。また犯す過ちを前にして、足がすくんでいた。しかし見も
知らぬ人間たちを殺すことをためらうより、大切な人間を殺されることのほうがとても耐え
られない。命はけして計れないけれども、そうやって自分の守るべきものをやはり選びとっ
ているのだ。でなければ生きてなどいけるものか。
「それなのに、とめてやれなかった」
あのとき、行くなと言えばどうしただろう。冗談言うなと笑っただろうか、それはできない
よと呟いただろうか。ただ別れたあのときのように、何も言わず抱きしめただろうか。
確かなのは、ロイはエドワードがとめたところで、出征するのをやめなかっただろう。よう
やく守るべきものができたと彼は言ったのだ。そのために、命をかける。
だったら自分も、ただ守られているだけなどできない。
「…きっと分かってたよ」
兄さんが誰よりも、あの人をとめたかったことは。
「わかんねぇよ。あいつ、ちょっと抜けてるから」
ああどうか、いつかまためぐり合うその時まで。
「さて、お前の研究の成果でも拝みに行くとするか」
「見たらびっくりするよ。まだ完成してないんだけどね、兄さんも手伝ってよ」
「ええ?俺に出来るのか?」
生きて。


引きとめたかったのはどちらだろう。
異国に去るその背を後ろから包みこんで、行かないでくれと、傍にいてくれと、走りだしそ
うになる身体を押さえつけていた。きっと彼も行くなと私に言いたかったと、肌で感じてい
た。それでも自分の道に後悔はない。
「行こうか」
どうか、また一目でも構わないから、君の姿をこの目に映すことができるように。
生きる。


彼らの、出征の日。


end

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