「……何これ」
人が、呪霊が、物凄い勢いで走り抜けていく。そもそも呪霊なのだろうか。巷で話題になっていた改造人間なのかもしれない。 助けようにもどこから手をつけるべきか。戸惑い、呪具を強く握りしめていると、キーン、とハウリングの音が空気を劈く。 耳を塞ぎ、音のした方を見上げると、口に模様のある男の子が拡声器を持っている。高専の制服。あれ、狗巻家の呪言師だ。この騒ぎを止めようとしているらしい。呪言を聞いて巻き込まれないように、慌てて近くのビルへ駆け込んだ。まだ困っている人が中にいるかもしれない。
『渋谷へ急いで。もしくは、東京から逃げて。』 同業者からメッセージが送られてきたのは、ついさっきの事だ。高専関係者である彼女は、恐らくもう現地入りしてるのだろう。電車から降りて電話をかけてみたものの、通じない。一先ず渋谷駅へ向かおうと、電車を乗り換えようとしたけれど、運転を見合わせているとの事だ。 何かまずいことが起きている。 渋谷ハロウィンに参戦するつもりは無いけれど、ちょっと覗くだけ。そんなつもりで、全身真っ黒な服を着て、近くまできていたのだった。浮かれた考えをしていて良かったかもしれない。高専関係者じゃないけど、とりあえず何かサポートができればと、渋谷に向かって駆け出した。
到着すると同時に帳に阻まれ、少しして帳が解けたと思ったらこれだ。一体全体どうなっているのか。硝子さんも来ているだろうか。五条さんは。さっきの狗巻家の子は、まだ学生だったはず。学生もこんな危険に晒されてるなんて。 この前の新宿みたい。 嫌な予感に、体を身震いさせる。足が竦む。 恐怖に体が反応するのだから、まだ正常だ。大丈夫。進まなくちゃ。呪力だって有り余っているし。
ビル内は静かで、一見、誰も居ないようだ。来る場所を間違えたかもしれない。一度戻って、学生を手助けしようかとも思ったが、今まで呪言師と共闘したことは無い。余計なことをして、足を引っ張ってしまう気がするから辞めておこう。彼は若いけれど、恐らく私よりも上級だ。 このフロアを見回ったら、さっきと反対側から出て駅構内に入ろう。一般人がいたら、救出優先で。 そう息巻いていた瞬間。遠くから大きな衝撃音が聞こえた。
「何? っあ、」
窓ガラスが割れて、目の前を赤が刺した。天井を裂いて、すぐに消える。外で、標識が真っ二つになって落ちていく。 驚きのあまり腰を抜かし、地面に尻餅をつく。上から瓦礫がぼろぼろと落ちてきたので、ゆっくり壁際に後退りする。
「……これって」
腹部の、治りかけた傷が痛む。 脳裏に男の顔がよぎる。 私の間違いでなければ、この術は、……この匂いは。
「渋谷にいるの……?」
遠くから……地下から聞こえてくる激しい争いの音。一般人に対してではないだろう。術師同士でやり合っている。 相手は、きっと。 居てもたってもいられず、走り出そうと思ったが、何とか立ち上がるので精一杯だった。普段は低級呪霊相手に小銭稼ぎしてるような弱い術師だ。まずは気持ちを強く持たないと。よろよろと、少しずつ、階下にむけて歩を進めた。
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駅構内に入り地下へ降りると物凄い地鳴りがした。上からだ。 これだけの被害があっては、もう。 先を考えて目の前が暗くなりそうだったが、まだ希望はある。 匂いだ。 嗅ぎなれたこの匂い。血の匂いが近づいている。 あの男……脹相が、今回の事態に関与しているに違いない。見つけなければ。見つけて、すぐにやられてなるものか。何か聞き出すんだ。影で糸を引いているのは一体何者なのか、それを聞き出すことができれば。聞き出したらすぐに逃げ出して、五条さんや学長に伝えるんだ。 『もう近づかない方がいい』 硝子さんの言葉を思い出す。 近づかない方がいい、そうに決まってる。ろくな事にならない。けれど、今の私にできるのはこれしかない。
「あ、」
ぶわりと鳥肌が立つ。反射的に出た唾を飲み込む。 血だ。 駅のホームには、点々と血痕が残っている。壁や地面を汚すそれを目で追いかけるが、途中で消えていた。 見知った奇抜な髪型。 不思議な服装。 作業員用の小さな扉の前で、より小さく小さくなって収まっていたのは、探し求めていた男だった。
「……あのう」 「……」
恐怖か、濃い匂いからか、頭の奥がちかちかする。 覚悟を決めて話しかけた。
「脹相……?だよね」 「……」 「酷い怪我、」 「……」 「どうして泣いてるの?」
心ここに在らずといった様子だった。こちらに目もくれず、三角座りで、小さくぶつぶつ言っている。全身傷だらけなようだけど、痛そうな素振りは全く見せず、つう、と一筋涙を流している。 外見の厳つさとは裏腹に、弱々しく物悲しい姿だった。戸惑いながら問いかける。
「貴方いったい、何したの」 「……話しかけるな」
漸く喋ったと思えば、否定の言葉だ。
「上も酷い状態。誰と闘ったの」 「……仇だったんだ。……それなのに、……」 「仇って、あ、……弟さん、」 「放っておいてくれ!」
彼の手からパキリ、と音がする。
「……ほっとけないよ。こんな……」
こんな。 こんな美味しそうなの……!
理性が本能に食い殺されないように、唇を噛み、自分の血で口内を満たした。余計に彼の血が欲しくなってしまう。 だめだ、どうしよう、止まらない。 近づかない方がよかった! 硝子さんの言う通りだ。近づいたら終わりだったんだ。涙を流し頭を抱えて小さくなっている、明らかにおかしい様子の男を目の前に、私までおかしくなってきた。どうかしている。 だって欲しくてたまらない。 彼の血が、欲しくて、たまらない。 たまらないけれど。
「……行こう脹相」
脹相の目の前にしゃがみこみ、そっと顔に手を寄せた。彼はその手を拒まず、されるがまま目尻を擦られる。
「……沙都」 「覚えてるの」 「オマエは……。違う、俺は……弟を……」
彼の涙で濡れた親指を、悟られぬよう唇に持っていく。舌の先でつうとなぞる。 我慢だ。 この男がしたこと、敵対する仲であること、大体のことは予想がつく。何も聞き出せないなら、ここから連れ出して、私より強い術師に突き出すべきだ。 硝子さんが言ってくれた通り、次は無い。彼が本気で私に向き合ったら、その時は、殺されるだけだ。 もしそうなったら。私がこの男を倒さないと。 倒せないなら逃げなければならない。もしくは懐柔しなくてはならない。大人しくしている今がチャンスなのは確かだ。
「前に血をくれたお礼。立ってほら。手くらい貸してあげる」 「……」 「……次会ったら血がきくか、私で試すっていってたでしょ。ほら、行くよ」
手を伸ばす。 鼓動がうるさい。死への恐怖か好物を目前にしての興奮か、もうどうでもいい。とにかくこの手を掴んで欲しい。共に来て欲しい。そしてあわよくば、……。
「……行かなければ」 「!……うん」
こわごわ、私の手を掴んだ。立ち上がらせようと引っ張るけれど、非力なもので、うんともすんとも言わない。最終的には彼自身の意志で立ち上がる。
「虎杖悠仁……」 「……」 「知らなければ。……俺は……」
私のことなど眼中に無いらしい。それでいい。ラッキーだ。彼の、脹相の気が変わらないうちに、このまま地上へ連れていこう。繋いだ手を解こうと力を抜いたが、相手にその気は無いらしい。ぎゅっと強く握られたままだ。少し迷ってから、好きにさせればいいか、と、軽く握り返した。
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