「呆れたよ沙都には」
「ごめんなさい……」


 保健室と呼ぶには温もりに欠ける室内で、養護教諭と呼ぶには慈愛に欠ける先輩兼医者に説教を受けている。


「吸血鬼って呼ばれるの、嫌じゃなかったの」
「嫌です」
「はは、でもやってること、間違いなくそれだよ」
「ううう」


 腹の傷は塞がって、痕も残らないという。
 数十分前。硝子さんはひょっこり姿を現した私を見て溜息をつくと、横になれと促し、てきぱきと処置を施してくれた。その呪力の様子じゃ大体察しがつく、と、特に理由も聞かず、毒物の検査もしてくれた。ついに一線を越えてしまった私に、どん引きしているんだと思う。


「吸った直後、前に出た症状ーー頭痛とか眩暈とか嘔気は」
「ありました。あったんですけど、段々ハイになっちゃって。気を失って、目が覚めたら呪力ぱんぱんでした」
「……」
「これ以上引かないでください……。気を失ったのは、吸ってたから、というより、血をくれた相手がその……私の首きゅっとして」
「あはは。相手に同情するよ」
「ごもっともです」
「ところで」


 相手の素性は?

 空気清浄機、換気扇、ケトルが湯を沸かす。部屋中全ての、静寂をあらわす音が聞こえた。
 硝子さんの目が、私の思考を見透かすように、射抜く。
 たった二、三秒だけど、生み出してしまった不自然な沈黙を後悔した。


「……多分、呪霊側。呪詛師……ではないと思う。呪霊、……でもないはず」
「呪霊の血がおいしいなら、沙都、そこらの、吸い放題吸ってただろうしね。あとわかることは?」
「真人。真人が来るって、そう言ってた」
「真人……そうか。七海から聞いた名前だ」
「名前は、」
「高専から持ち出された呪胎九相図ってところかな」


 呪胎九相図。脹相。なるほど。私は大変禍々しいものを、それはもう、喜んで体内に取り入れてしまったらしい。


「捕まえたり、仕留めたりできなくて。ごめんなさい」
「むしろよく逃げ切れた。奇跡だよ」
「違うの。わざと、逃がしてくれて」
「沙都。次はないよ」


 ぴしゃり、と言い放たれる。


「前にも言ったけど、沙都が吸ったその血は人間にとって毒物みたいなもんだ。生きてるのが不思議で仕方ない、抗体ができてるのかなんなのか知らないがーー。最近、どうも色んなところがきな臭い。沙都も、足を踏み込んでしまったみたいだけど、今なら遅くない」


 もう近づかない方がいい。
 硝子さんの言う事は最もだ。特異な体質ではあるけど、術式があるわけでもないし、特別秀でているわけでもない、一介の術師だ。
 きっと、これ以上は、身の破滅を招くに違いない。
 
 硝子さんは誰よりも死の臭いに敏感だ。誰よりタフで無駄がなく、本質は、繊細な女性だ。色んな案件を抱えているだろうに、私の身勝手で、時間と手間をとらせて、あんなことまで言わせてしまった。
 そればかりか。知らないふりをしようかと、ほんの一瞬だけ、邪な考えが浮かんだ。恐らく、確実に、相容れることはないだろう、私たちの敵なのに。彼との再会に期待している自分がいたのだ。
 実際に硝子さんに嘘をついたり、隠し事をすることはなかったけれど、それでも。大切な人に迷惑をかけないように、高専を出たのに。これじゃあ学生時代と何も変わらない……。

 罪悪感と反比例して、呪力がすこぶる有り余ったまま、家路につく。
 西の空は微かに赤く逃げるようにして夜がくる。
 十月も後半、もうすぐハロウィンだ。いっそ吸血鬼のコスプレでもして、渋谷に参戦しようかな、なーんて。



 なーんて、考えていた。
 十月三十一日。
 渋谷事変。


「脹相……?」


 次はないと警告されたばかりなのに。
 嗅ぎ慣れた血の臭いと、涙に濡れた、見覚えのある顔。
 渋谷駅構内にて。私達は偶然なのか運命なのか、邂逅を果たすのだった。



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紅海は満ちてあふれた




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