四日目 午前十一時?

 どん、と何か落ちる音が聞こえた。
 スマホをいじっていた手を止めて、顔を上げる。窓の外からだ。
 七海さんに話しかけようとして、……辞めた。つい先ほど就寝したばかりだ。特に時差も無いというのに昼夜逆転生活なんて、疲れているに決まってる。それに加えて、後輩女と同じ屋根の下なんて、余計な気苦労もさせているだろうし。ゆっくりと休ませてあげたい。
 気のせいかもしれないし、そもそも朝の番は私だし。取り合えず何の音だったのか確認しよう、と立ち上がって、窓を開け放った。ベランダに出て、上を見上げて、下を見下ろす。特に変わった様子は無い。……考えすぎだったかしら。


 わああん。

「……子ども?」


 泣き声だ。上から聞こえてきた。身を乗り出して、屋上を確かめる。何も見えない、けれど。泣き声がえんえんと続く。


「おちちゃうよ」
「わっ、」


 女の声が、すぐ耳元でした。すぐ耳元で! ぞぞぞ、と、全身に鳥肌が立つ。昼間、今まで、何にもなかったはずなのに。これは申し訳ないけれど、七海さんをひっぱたいてでも起こさないと。慌てて室内に引っ込み、別室の扉を数回ノックする。


「なななな七海さんっ」
「……」
「……寝てるところごめんなさい、失礼します!」


 がちゃり、と扉を開け放した。七海さんの枕元に座り込む。そのまま、
「七海さん起きてください、今怪しい声が……」と話しかけてから、

「……七海さん?」


 布団がもぬけの殻だったことに気付いた。


「……どこに、え?」
「おちろよ」
「!」


 耳に息がかかる。弾かれるように部屋を出て、辺りを見回した。七海さん、七海さん、と大きい声で呼ぶが、返事が、無い。


「どこ……?」
「關ス縺ィ縺吶h」
「ひっ、」


 思わず、その場にしゃがみ込んだ。奇妙な声と、それから無音。
 何が起こっているのか、薄っすらと理解できてきた。七海さんが危ない。たぶん、上に連れていかれてるんだ!
 子どもの泣き声が遠くからまた聞こえてきた。女はよくわからないことをずっと耳元で囁いている。震える足を、思い切り叩く。


「……ばか!」

 怯えるな! 自分を叱咤して、なんとか立ち上がり。鞄の奥に閉まっていた呪具を手にとり、玄関を飛び出した。
 七海さんならきっと大丈夫。だけど、もし、何かあったら。
 梯子に手をかけ、のぼり始める。子どもが泣いている。そこに、女の泣き声が混じる。哀れだ。一体、ここで、何が。屋上へ向かう。



‐‐‐


 四日目 午後十一時


 もう寝ます、と、憔悴しきった顔で佐藤は言った。
 一日中、心ここに在らずという様子だった。食事も喉を通らないと断り、窓の外を眺めてばかりいた。物静かな佐藤は珍しい。
 昨日の屋上か。顔を曇らせる。
 何かに良くないことを吹き込まれたかのようだった。屋上の縁に並べられた、薄汚い靴を見てから。耳を塞ぎながら何かをぶつぶつ呟いて、乗っ取られたように歩き出す佐藤の手を、気づいたら強く握りしめていた。彼女はぽかんとした顔をして、それから、自分を取り戻したように元気よく声を出して、部屋に戻り。
 それから、うんともすんとも言わなくなってしまい、一日が終わろうとしている。

 タブレットで、任務の概要についてもう一度振り返る。
 被害者は女性が多い。死因は主に自死。不審死。
 ふと、事故物件についてまとめられているサイトを思い出して、検索をかけてみた。……複数登録されている。どれも、女の被害者。若い女。
 そこに原因があるのか。
 答えるとすれば、恐らく、無い。ここで起きる出来事一つ一つに理由を見出すことはできるかもしれないが、どれもこれも理不尽極まりない。単純に、奴らは、人が恐れ慄く姿を――。


 がたん、

「ばか!」
「……佐藤さん?」


 寝室から大きな音を出して、佐藤さんは飛び出てきた。声をかけるが、目が合うことはなく。彼女は鞄を漁ると、小さな呪具を手にして、そのまま玄関を開ける。


「どこへ、」
「關ス縺ィ縺吶h」
「……ちっ」


 やられた。飲まれている。
 外に出た。かん、かん、と梯子をのぼる音が響く。まずい。呪具を背負い、シャツの第一釦をぷつ、と外してから、足音を追った。





‐‐‐

 四日目 蜊亥燕髮カ 時


 屋上の真ん中に、子どもが座り込んでいる。小さな背を揺らして泣いている。


「おかあさんおかあさん」


 どこ。どこ。
 こんなに小さな子どもの犠牲もあったなんて。胸が詰まる。心臓が苦しくて切なくて仕方ない。手汗で滑り落ちそうになった呪具をぐ、と掴んで、歩みを進める。


「大丈夫だよ」
「どこ」
「迎えにきたよ。さあ。かえろう。一人で辛かったね」
「おちちゃうよう」
「……」


 女の声、これが、母親なんだろうか。
 子どもの奥を見れば、薄汚い靴が、幾つも。一つずつ調査した方がいいだろう。でも、その前に、この子たちを祓ってあげないと。七海さんの姿は見えない。まずは、この人たちを。そうすればきっと、どこかに、七海さんは取り込まれているはず。


「おかあさん」
「ないいんですうよお」
「……助けにきたの、顔、あげて?」


子どもの肩に手をかける。


「ないんですよ」
「ママ―」
「ごめんね、今、楽に……、」


呪力を呪具にうつして、振り上げる。


「ないんだよ」
「ママ、」
「ああああ」  知らない男の声がした。


「は?」「關ス縺。縺ヲ縲∬誠縺。縺ヲ縲∬誠縺。繧阪h」


 そこから。昨日と同じ、唸り声がその場に満ちていく。


「え? え?」

 子どもがぐにゃり、と形を変えて、青黒く変色していく。あ、どうしよう。私、まだ、叩いてないのに、

 

「やめなさい」


 聞き慣れた声と、衝撃音。
 そしてから、子どもの悲鳴が響いた。目を見張る。ああ、そんな。これじゃあ!


「だめです七海さん、こんな、可哀相な!」
「佐藤さん、平気ですか」
「あ、無事でよかった、ああでも、だめ! これじゃあ、この人たちが!」
「ほら、部屋に戻りますよ。やめましょう」
「な、何を?」
「構うのを」
「え……」


 ぷつん、と唸り声が消えて、ふっと辺りが暗闇に包まれた。


「うわ、」
「動くな。落ちます」
「え? !、な、七海さん、」
「我慢してください」


 ぎゅう、と背から抱え込まれた。困惑し、体を固めていると、そのままずるりと引っ張られる。


「靴。履きなさい」
「……あれ」


 裸足だった。履いていた靴をあてがわれて、頭にはてなを浮かべながら、取り敢えず足を入れる。


「……どういうこと?」


 すっかり放心状態だ。七海さんに背中を預けたまま、声に出すと、
 けたけたけた、
 嫌な感じの笑い声が、ぽつぽつと聞こえてきた。


「佐藤さん。もう一度振り返ってみてください」
「はい……」
「呪霊の仕業だと、言われてるんです。一級相当の」
「……」
「何か悲惨な事件があったから、とか。怨恨でとか、可哀相とかじゃない。悪意ですよ。純然たる悪意が、巣食っているだけなんです」
「ないんですよう」
「……こ、こどもが。この、女の声は?」
「おびき寄せるためには丁度いいんでしょうね」
「……」


 げらげらげら。


「……私が馬鹿でした」
「わかれば結構。部屋に戻りましょう」


 ぽん、と、腹に置かれた手が優しく跳ねた。よかった、と耳元で囁かれる。七海さんの声だ。



「げっ」
「……」


 部屋に戻ると、ざあざあと水音がしたので、二人して風呂場を覗いた。シャワーヘッドから、ぼたぼたと赤黒い液体が流れ落ちていて、床も壁も真っ赤だ。やっぱりこの部屋、おっかない!



「貴女、体も洗わずそのまま寝ようとするから不思議だったんですよ」
「というか、いつの間に夜になってたんだ……って感じです」
「そうですか。先、シャワー浴びます?」
「勘弁してください……」
「……銭湯でも行きましょう」


 銭湯へ行って、大きな風呂につかって、ちょっぴり泣いて。二人して、再びこの部屋に帰ってきたのは深夜一時過ぎだった。呪霊は相変わらず見えない。残穢すらない。音も声ももう、聞こえない。


「七海さん。お菓子、たべますか」
「……一ついただきます」


 ソファに、二人して腰掛ける。


「七海さんがいてくれてよかったです」
「それはどうも」


 そのまま、眠ることもできず。二人して、朝六時を迎えるのだった。




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