二日目 午前七時

 ぼんやりと目を覚ます。遮光カーテンのおかげで薄暗い部屋の中、思いきり身を伸ばした。喉が渇いて少し痛い。布団を畳みながら、結局寝ている間は何事も無かったな、と安堵するのだった。もしくは何かあったけれど、気が付かなかったのか。それとも、彼のおかげか。
 身支度を整えてから部屋を出ると、七海さんはタブレットと睨めっこをしていた。おはようございます、と声をかける。少し間をおいて、おはようございます佐藤さん、と、こちらに目を向けた。


「昨晩はよく眠れましたか」
「お陰様で。何かありました?」
「何も。少なくとも私の身には。貴女は。違和感など無かったですか」
「ぜーんぜん。最初なかなか寝付けなかったくらいです」
「枕が変わるとだめなタイプですか」
「や、血まみれになってすぐだったので。気持ちの問題かな」


 そうですか。
 七海さんは、なんだか固い感じだった。お疲れですね、と声をかければ、人間なので睡眠をとらなければ、そりゃあ。と、目を揉み揉みする。

 
「暫く寝ます。昼頃起きます」
「はい。夜の番、お疲れ様でした。私どうしようかな。冷蔵庫空だし。何か買いに行って、ご飯作っておきましょうか」
「調理器具から準備となると、大変でしょう」


 ああそうか。この部屋、ケトルしかないんだった。


「モーニングでも食べに行ったらどうですか」
「うーん。そうですね。あ、じゃあお昼すぎ、起きたらごはん食べ行きましょうよ。一人じゃ寂しいし。今あんまりお腹空いてないんで。だらーっとしてます」
「……私に気を遣わず、好きに過ごしていてください。昼は何も起きないらしいですし。では」
「おやすみなさい」


 胸元のボタンを開けながら、七海さんは隣の部屋へ消えていく。見送りながら、私ももう少し資料を読み込んでおく必要があるな、とタブレットに手を伸ばした。

 この部屋で、四階で、頻発する怪奇現象について。
 ラップ音。大きな音が聞こえる、声が聞こえることもある。
 風呂場にて。音が聞こえる。錆とは違う、赤い水。
 誰かいる。何か、いる。
 等々。昨夜体験したのは、記述されている、風呂場の赤い水。血液だと素直に書いておけばいいのに。……違うのだろうか。きちんと細かく調査とかしたんだろうか。色々が疑わしい。
 入居者は、自死を遂げてしまったり、不可解な事故に巻き込まれたり、様々だ。不思議なことに、浴槽で死んだ人間は居ないらしい。なら、あの血は、なんなんだろう。薄気味悪い。
 七海さんが寝てる今、私に立てられる仮説といったら、マンションが建つ前この辺り一面墓地だったりすんじゃないの? ってことぐらいだ。どうしようもない。資料のファイルを閉じて、ニュースアプリを閲覧して。何もすることがなくなって。自分のスマホを弄りながら、床に寝転びぐうたらするのだった。


‐‐‐


「佐藤さん」
「……」
「……佐藤さん起きなさい」
「ふぐ、」


 背中にばん、と軽い衝撃が走って目を覚ます。しゃがみ込んだ七海さんが、まじまじと私の顔を覗いている。うつ伏せになったまま、ななみさん、と声を出す。部屋が乾燥していたのか、少し喉が痛い。


「あれ。寝てました、私」
「どれだけ寝るんですか」
「今何時です?」
「十三時を過ぎたところです」
「……たくさん寝ちゃった」


 彼に背中を叩かれたらしい。手荒な真似をして、と恨みがましく睨みながら身を起こした。七海さんの目はサングラスに隠れてよく見えない。
「こんな固い床で、何も掛けずによく眠れますね」全くだ。


「お腹すいちゃった」
「朝ごはん、結局とらなかったんですか」
「うん」
「なら、外に出ましょう」


 すぐ近くに美味しい蕎麦屋があるらしい。七海さんは既に準備を済ませているようだ。慌てて、洗面所に向かい髪型やら顔やらをチェックする。涎の跡がついていて、顔を赤らめた。

 蕎麦屋、というから、素朴な感じのお店を想定していたのだけど。
 店内は明るく、お洒落な内装だった。落ち着いた雰囲気だ。お昼時だが、ピークは過ぎていたらしい。少しの待ち時間のあと、すぐに席へ通された。
「いいお店ですね。舞茸天美味しそう。東京の外れなのに、よく知ってますね、こういうお店」メニューを開きながら、七海さんに話しかける。七海さんはお手拭きで手を拭いながら、
「貴女が寝こけている間に調べました」と答えた。不服。


「すみませんでしたね、寝こけてて。にしても、七海さんこういういい感じのお店よく知ってそうだし。外食とか多いんですか?」
「どうでしょう。まあ、食事は好きな方だと思います」
「猪野くんとかともよく食事してますよね。私とも仲良くしてやってくださいよ」
「考えておきます」
「ほんとに? 嬉しいです」


 七海さんって、良いセンパイですよね。心から出た言葉に、返答はない。そんなところも程よいなあと思う。
 無言で食事をとった。美味しいお蕎麦に舌鼓をうち、腹が満たされたところで。それはそうと、と七海さんに話しかける。


「昨日の夜のは。あれは何だったんでしょう」
「さあ」


 昨夜の、血みどろ事件。あんなの二度とごめんですよ。衛生的に考えて。銭湯にでもいこうかなあとぼやけば、あんまり酷ければ、それがいいかもしれません、と答えてくれた。


「ああいった事件があったんでしょうか。例えば、浴槽で殺人、とか」
「どうでしょう。少なくとも私たちの手もとに資料としては届いていないですね。あったのは自死と、原因不明の事故」
「……じゃあ何で血が降り注ぐことが? おかしいですよ」
「私にもわかりません。ですが」
「ですが?」
「貴女もわかったでしょう。あの気配は。間違いなく呪霊がいる」
「確かに」


 あのマンションは、やはり、おかしい。
 先ほど部屋を出た時もそうだ。昼は何もおかしいことが無いと資料にはあったが、そんなことはない。不気味なほどに、音がしない。無音すぎるのだ。夜は大きな音だったり声がするというのに、昼は、何か音を出しても吸収されてしまうような感覚。七海さんも気づいていたのだろうか。
 鍵についた鈴の音だけが、異様なまでに響き。廊下に監視カメラは無いはずなのに、誰かからじいっと見つめられているような。昼でも、薄気味悪くて仕方ない。そんな物件。


「まあ、呪霊とかおどろおどろしい場所とか。そういうのはもう、悲しいことに慣れっこなんですけど」
「ええ」
「そんなとこに住みたいかって言われたら、一日二日だってごめんですよ」
「同感です」


 では。帰りましょうか。
 七海さん、話聞いてました? そう言って眉間にしわを寄せる。冗談がきついですよ。



‐‐‐


 二日目 午後十時

 夕食はデリバリーで頼んだ。デリバリーの人、事故に遭ったりしませんかね、など不穏な話をしていたものの、特に心配なこともなく。
 食事をとり、風呂に入り。昨日のような怪現象が起こることもなく、眠気が襲ってくる時間になった。
 七海さんが髪を下ろしているのは新鮮だ。いつもかっちり固めているから。昨日はそんな余裕もなかったけれど、この合宿、なかなか面白いかもしれない。七海さんの普段の生活を覗き見る感じは、面白い。今のオフショットは相当レアだぞ、とこっそり盗み撮りをしてみる。
「盗撮は犯罪ですよ」しっかりバレていた!


「七海さんって、彼女さんとかいないんですか」
「いません」
「ええ。めちゃくちゃモテそうなのに」
「今の私には不要です」
「必要不要じゃなくないですか、そういう存在って。好きな人とかいないんです?」
「……」


 答える気もないらしい、無言で髪を拭っている。


「七海さんのシャンプーいい香りですね」
「そうですか」
「どこの使ってます? お上品な匂いがする」
「……あまり近づかないでください」
「教えてくれたっていいじゃないですか。けち」
「そうじゃなくて……」「ないんですねえ」

「「……」」

「……今、何か七海さん言いましたか?」
「……佐藤さんが言ったんじゃないんですか」


 ぴり、と、穏やかだった空気が一変する。今、確かに聞こえた。女の声だ。

 ばんっ


「な、なになに!?」
「佐藤さん煩い」


 ばん、ばん、と、部屋の至るところで、妙な音が聞こえる。これがラップ音、というやつか。七海さんはす、と呪具を構える。ばん、ともう一度鳴った次の瞬間。七海さんは音の聞こえた方めがけて、軽く呪力を飛ばした。がらがら、と、天井の一部分が削れる。他の住人も居る手前、部屋全体を壊すわけにもいかない。困ったなあ、と、私も呪具を取り出す。七海さんと違って、私の術式は攻撃を避けるしかできないけれど。一先ず、身構えるしかない。
 だん、だん、だん。がたん。音が強まっていく。


「こんなの毎日あったら騒音で参っちゃいますね」
「ええ。……」
「どうしましょう七海さん」
「姿が見えないんじゃあどうしようもない。この部屋ごと飛ばしていいならしますが」
「多分伊地知さんの胃に穴が開きま、「ないんですよお」……気持ち悪!」
「……何がないんですか」


 宙に向かって話しかける。返事は何もない。その間にも、ばああん、と、大きな音が響き続ける。

 ばん
「何これ」
 ばん
「資料にあった通りです。ラップ音」
 ばん
「これじゃうるさくて眠れませんよ。下の階の人平気なんですかね」
 ばんっ
「聞いてみます?」
 ばん
「もう夜も深いし、聞くなら明日ですねえ」
 ぐちゃ
「……」
 ばん
「ないんですよう」
 ばん
「わかったよもう……」


 何か、潰している。水気のあるものが潰れる音が、衝撃音に混じって聞こえてくる。
 時々聞こえる女の声は、高く、間延びするような調子だ。嘲るような口ぶりに、尖った声で返すが、返事は何もない。
 いつの間にか七海さんは、一点を見つめていた。窓だ。何か見えるんですか、と声を出す。思ったよりも震えた声になってしまって、情けない。七海さんはこちらを振り返り、佐藤さん、と私を呼んだ。


「おとしてますね」
「……ええ、音してます」
「これは、恐らく外です」
「外……? 明らか、部屋の中だと思うんですけど」
「一定間隔でする、ばん、という音。これは。本当なら外の音だと思います」
「ばん、ばあーーん、って、大きい音ですか?」
「おとしてますね」
「音、してますけど」
「違います。"落と"してるんです」
「はあ?」


 七海さんは表情を変えず、上に向けて指を差した。

「上から」
 ばん 
 指を下に向ける。
「下へ」
 ばん、
 水気が混じる音。
「これ、落としてるんです」
 

 外で。

 ぞっとして、七海さんに縋る。


「がちで怖いです」
「鬱陶しいです。……もうすぐ止みますよきっと」
「なんでわかるんです?」
「音と音の間隔が、広くなっています」


 そういいながら、七海さんは私の肩を抱いた。抱かれてから、体まで震えていたことに気づく。恥ずかしい。それなりに任務はこなしてきたはずなのに。深呼吸をすると、仄かに七海さんのいい匂いがして、落ち着いた。


「ないんですよお」
「……じゃあこの声も外なんですかね」
「さあ」


 音が完全にやんだのは、日が変わる直前だった。
 結局、今日も姿を現すことのないまま。二日目が終わる。




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