一日目 夜


 つきましたよ、と声をかけられて。黒塗りの車からおりる。スーツケースを取り出そうと後ろに回ると、既に伊地知さんが取り出してくれていた。ありがとうございます、と声をかければ、いえ、と微笑まれる。とってもいい人だ。五条さんにいつもいじめられてて可哀相。
 さて。緑色の外灯に照らされながら、いわくつきの建物を見上げる。閑静な住宅街に建てられた、一見、普通のマンション。一階二階は、ぽつぽつと灯りが見える。人もいるにはいるらしい。最上階の四階は、暗くてよく見えない。じい、と目を凝らすが、残穢も見当たらない。
「これが鍵です。401号室」手続きは伊地知さんが済ましておいてくれたらしい。手渡された鍵には、鈴がついている。ちゃりん、と鳴らしてから、一つ気になることが、と問いかける。


「伊地知さん。ここ、出るんですか」
「え……出るからお二人が派遣されたのでは」
「いやいや。Gですよ、G! 虫無理なんです」
「はあ」
「佐藤さん。行きますよ」
「七海さん虫いけます?」
「さっさと歩く」


 七海さんは私の肩を叩くと、アタッシュケースを私に手渡した。持てって言うんですか、と文句を言おうとすると、自分の分と私の分のスーツケースをがらがらと引いていくので。「ああいうとこ、かっこいいですよね」と伊地知さんに呟くと「早くしなさい」と、もう一度叱咤されるのだった。お気を付けて、と、伊地知さんはまた微笑んだ。じじ、と、外灯が音をたてて、緑がぷつんと途切れ、またすぐに私たちを照らす。
 こうして、五日間の事故物件暮らしがスタートしたのである。


「心理的瑕疵物件」
「しんりてきかしぶっけん」
「全居住者が死亡している場合。心理的な抵抗が生じるような物件。今回の部屋のことです」
「へえ。まあ、実際かなりの人がやられてますもんね?」


 エレベーターがついていてよかった。四階へのボタンを押すと、静かに扉が閉まる。ここまで見たところ、どこも綺麗。清掃が行き届いているように思える。


「なんか、住みやすそうですけどね」
「ええ」
「七海さんち、めっちゃ高いところですよね。こういう住宅地じゃほんとに合宿って感じでしょ」
「馬鹿にしてます?」
「や、逆です。すごいなあって。ほんとですよ」


 ちん、と音が鳴って、扉が開くと。息が詰まる。
 空気が明らかに違う。重いのだ。手前の蛍光灯は既に切れているようで、廊下は薄暗い。エレベーターの中だけがいっそ眩しい。
 401号室は、奥の部屋だ。ほんの少し、足がすくんでしまう。
 普段、禍々しい呪霊と闘いながら今更何を言うのだ、という話だけど。見えないとなると、話は別だ。確実に居るのに、何処かに隠れて、私たちを見ている。自分に見えないのに、相手に見られている。不気味で仕方ない。


「……嫌だなあ。暗いし。五条さん恨みますよ」
「節電でしょう」
「冗談言うんですね」
「行きますよ」


 七海さんは、私を一瞥してから、革靴を鳴らして廊下を行く。待ってください、と慌ててエレベーターから出た。エレベーターの扉がゆっくりと閉じて、黄色い灯りが立ち消えて。暗闇から逃げるように、先を急いだ。

 部屋は清潔で、虫なども出なそうだ。胸を撫で下ろす。
 リビングにスーツケースを運んで、一息つく。床に三角座りして、天井を見上げた。部屋の電気は眩しい。磨かれたフローリングに光が反射して部屋全体が明るいので、ほっとした。綺麗に掃除されてますね、と呟けば、そうですね、と風呂場の方から聞こえてくる。立ち上がり、七海さんのいる洗面所の方へ向かう。


「綺麗。普通に住めちゃうな」
「ええ。綺麗ですね」
「……嫌な顔していいますね」
「だって、嫌でしょう」
「?」
「暫く誰もいなかったのにこんなに綺麗なんて」


 よほど掃除のし甲斐があったんでしょうね。
 嫌なこというなあ。顔を顰めた。たまたま、人が入らないから、綺麗なままだっただけでしょ。ハウスクリーニング万歳、と、踵を返した。




‐‐‐


「お風呂、先にいいですよ」


 食事は済ませてきた。スーツケースを開けてパ…の実やキ…トカットのアソートやらを取り出していると、七海さんに声を掛けられる。食べます? と問いかければ、結構です、と断られた。じゃあ私もいいや。
 お菓子を取り出すのは辞めにして、お風呂の支度を始める。バスタオルとシャンプーリンスとクレンジングと洗顔と、着替えと。下着を見られるのは流石に恥ずかしいので。こそこそ薄手のトートバッグに詰めこむ。背後を確認すると、七海さんは私のことなんて全く気にしていないようだ。準備されていた電気ケトル(伊地知さんありがとう)に水を汲んで、湯を沸かしている。コーヒーでも飲むのかな、もう夜も遅いのに。ああ、これから仕事なんだった。


「じゃあ、先にお湯いただきますね」
「どうぞ」


 二人きりって、意外と静かで、調子が狂うな。何を話そうとか悩むような、今更そんな間柄でもないんだけど。そもそも前にも七海さんと二人きりで出張したことあったし。確かあの時は、帰りにいくら丼を食べたのだった。海沿いの街はいいねえなんて、朗らかな空気だったのを思い出す。やっぱり同じ屋根の下となると、気を遣うのかもしれない。

 風呂場も清潔で、水垢が目立つとか、長い女の髪の毛が浮いているとかもなかった。鼻歌しながら、蛇口を捻る。シャワーの水圧が強い。丁度いいな、うちのもこれくらい強ければな。頭を濡らしてから、きゅ、と湯を止めた。
 椅子もないので、立ったまま湯を被った。目を閉じて、シャンプーする。ふと、任務に来る前にネットで調べた怖い話を思い出す。風呂場でだるまさんがころんだをすると、出る……など。誰が浴室でだるまさんがころんだをしようなんて考えたんだろう。後ろに視線を感じたら確実にいる、とか。後ろにいなかったら上にいる、とか。泡立てながら、いろいろと想像してみる。確かに、水場周りは呪いが貯まりやすい。出るとしたらここかなあ、と、そわそわしながら髪を洗う。
 でも、こういうのってだいたい可哀相な呪霊が絡んでいるんだよな、と。経験則上、そう思う。人間が生み出す負の感情が、よくない形になって、蔓延って。やるせない。
 いつまで経っても、怪しい気配はない。仕方なく、だるまさんがころんだをしてみる。思い切り後ろを振り返るが、何も出てこない。こういうおちゃめなところ、嫌いじゃないぞ、と自分を評価して。泡を流そうと、もう一度蛇口を捻る。
 瞬間、熱い湯がかかってきた。火傷しそうな湯加減に吃驚して、シャワーヘッドを押しのけた。しかも目にシャンプーが入った! しみる! 痛い痛いとおろおろしながら、湯に手を伸ばす。見えないけど、手にかかる温度はまだ熱い、熱すぎる。嫌がらせかと思うほどに。七海さんが水道か何か使っているのか? と訝しんでいると、段々と丁度いい温度に戻ってくる。びくびくしながら目を洗い流し、そのまま、頭に湯をかける。泡が流れていくのに合わせて、髪を指で梳いた。


「はぁ。……あ?」


 ふと、目を開ける。
 床のタイルが真っ赤だ。ぼたぼたぼた、と、赤い液体が、床を濡らしているのだった。
 あれ、まだそういう日じゃないはずなのに。この後七海さんが使うのに、嫌だ。最悪、……いや、つい先日、月の物は済んだはずだ。
 これは?

 ぎゃははははははは。

 思考停止していると、突然、大きな笑い声が風呂場に響く。弾かれたように顔をあげれば、湯気で白くなった鏡に、映る。全身、赤に穢れた、裸の女。私?
 ぶしゅ、ぶしゅう、と醜悪な音を立て、シャワーホースから激しく赤が流れる。鮮血のように色づいた赤い湯。不意に、つん、と鼻を刺す異臭と、生温くどろりとした感触に、大きな悲鳴をあげ風呂場から飛び出た。


「佐藤さん」
「きゃあ、う、わああああ、や、やだっ、」
「佐藤さん、落ち着いて」
「げほっ、うええ、うわ、うわっ、きもちわる、ち、血が!」
「……これは、」


 異変を察していたのか、七海さんは既に洗面所に立っていた。なりふり構わず縋りつく。七海さんは嫌な顔一つせず、私の両肩に手を置くとゆっくりとしゃがませる。そして、呪具を構えて血濡れの浴室に立ち入った。笑い声は止まない。深呼吸をして集中するけど、呪霊は見えない。いや、ここにいないのかもしれない。 水は、血は、ごぽごぽと、壁面や浴槽を汚していく。七海さんの高そうなシャツにも血がはねる。
 少しの間、浴室と対峙していた七海さんだったが。そのうち、呪具を下ろして、蛇口に手を掛けるのだった。高い音がして、水流が止まると、笑い声もぴたりと止んだ。
 嫌な臭いと、血痕だけが、嘘じゃないぞと嘲笑うようにこびりついている。


「……怪我は」
「な。ないです」
「気分は?」
「悪いです」
「結構」


 バスタオルで体を包まれた。裸体を晒していることに漸く気づいたが、声を出す気にもならない。恥ずかしがるにも、それ以上に気が動転しているので、どうしようもない。


「き、記録。のこりますかね」
「よく気が回りますね」
「あ、ええと。お、おねがいしていいですか」
「まず貴女は服を着た方がいい。湯冷めします。洗い流すのはその後だ」


 置かれていたトートバッグを漁られ、着替えを差し出される。ありがとうございます、と、譫言みたいにいってから、それらを身に纏う。着替えている間、七海さんは仏頂面でスマートフォンを風呂場に向ける。


「……だめだ」
「映りませんか」
「ええ。つまり」
「呪霊ですか」
「呪霊の……なんでしょうね。これは」


 端末をポケットにしまうと。七海さんはまた、蛇口を捻った。身を震わせて眺めるけれど。ざああ、と流れるのは、ただの湯だ。シャワーヘッドをもって、七海さんが浴室を濡らしていく。じわじわと、赤が洗い流されていく。


「次は私の番ですが」
「えええ。入るつもりですか」
「その前に、貴女はもう一度入りなおしたほうがいい」
「嫌ですよ! もう一回血に濡れろだなんて」
「それ以外に実害がありましたか?」
「……ないですけど」
「ここに居ます。何か異変があったらすぐ立ち入ります。だいたい、その体じゃ貴女自身が気持ち悪いでしょう」
「そりゃ。……」


 結局。七海さんが綺麗にしてくれた浴室で、もう一度シャワーを浴びるのだった。何度も「いますか?」「います」を繰り返し、烏の行水みたいに済ました。その後、七海さんもシャワーを浴びたのだけれど。何の異変もなく、ほかほかあがってくる。ムカついてきた。


「何なの、本当に、絶対祓ってやる……」
「どうやら訳ありなのは間違いないようですね」


 苛々している私をスルーして、五条さんから預かった資料に目を落としながら七海さんは呟いた。
 深夜零時。もう既にぐったりである。


「まだ初日です。貴女はもう休んでいいですよ」
「手っ取り早く叩いちゃいましょうよそこら辺」
「姿を見せない。一級の私と準一級の貴女でも、視認することができない。相手は厄介だ。そう簡単に済まないでしょう」
 

 そう言って、七海さんはリビングの奥の部屋を指さした。二組の寝具だけぽつねんと置かれている。これまた伊地知さんが手配してくれたのだろう。


「え、一緒に寝るんですか?」
「夜勤だと考えています。私は朝昼休みを取らせていただくので。佐藤さんは、寝てください」
「そうですか。……」
「……今回狙われやすいのは恐らく貴女だ。私は見張り番です。何かあったらいつでも呼べばいい」
「……ちょっと怖くなってきました」
「ちょっとで済むなら幸いです」


 では、おやすみなさい。

 事故物件初日夜。何事もなく朝が来ますように、と、薄手の毛布を体にかけて、目を閉じる。
 きちんと体は洗いなおしたつもりだけれど、生臭さだけが鼻の奥について離れない。耳を澄ませたら、あの笑い声が聞こえてきそうで。
 七海さんを呼ぼうとして、口を開けてから、やっぱり閉じた。……子守唄でも歌ってくれないだろうか。




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