悠仁から「どこ行ってたの」と訊ねられる。少し考えてから、散歩に、と答える。悠仁はふうん? といって、それきり何も聞いてこなかった。
「佐藤先生と、気が合うんだ」 「どういう意味だ」 「ん? そのまんまだけど」
あれ、仲良いわけじゃねーの? 悠仁に顔を覗きこまれて、ふい、と顔をそらした。別に、と口にする。どうして佐藤なんだ、と訊けば、悠仁も「別に」と返した。
「どうでもいいけどさ」 「ああ」 「あの人、躱すのうまいじゃん」 「躱すのだけは得意そうだな」 「でも、別に逃げ腰なわけじゃないっていうか。いつでも真正面向いてるというか」 「……」 「うん。いい人だと思うよ」
随分と高い評価をする。悠仁は機嫌がよさそうだ。 今日は特に予定もない。悠仁が教室に入ったら、俺はそのまま空き部屋にでも戻ろうかと考えていた、のだが。教室から朝に見た騒がしい男がひょっこり顔を出す。悠仁、と気さくに声をかけてから、俺に目を合わせて、 「あ! 来たねプレイボーイ」と、口角を上げた。
「先生、俺のこと?」 「違う違う。悠仁じゃなくて、横に立ってる兄のほうだよ」 「脹相がプレイボーイ?」 「意味がわからん」
五条悟は教室から出て、俺の肩に腕を回す。やめろと振り払おうとすると、小さな声で、 「沙都なら硝子のとこだよ」と呟いた。
「しょうこ」 「保健のセンセーさ」 「保健?」 「医者みたいなもん。沙都、手。怪我してただろ」
悠仁は耳もいい。「え? 佐藤先生普通に歩いてたけどどっかやっちゃったの」と眉根を寄せる。
「火傷だってよ。たいしたもんじゃない」 「ええ。痛むだろ。脹相、散歩ってどこ行ってたんだよ」 「あれ、言ってないの? 言わない方がいい? ……どこいくんだよ」
ぱ、と五条が手をあげたところで、背を向ける。おーい、と悠仁が呼び止める。「部屋に戻る」と言いながら、反対方向へ足を進める。恐らく悠仁は首を捻っているだろう。行ってらっしゃい、と、軽々しい男の声をぶつけられて、思わず舌打ちが出た。
吹きさらしの廊下を歩く。古めかしい建物や緑が多い高専内だ。首都にあると言うが、呪霊たちと共にしていたときのアパートや、佐藤の自宅周辺のような、賑わいや人混みを感じることはない。外界と隔たりがあるような場所だ。 あと、学生や関係者の数に反して、少し建物が大きすぎる。暫く歩いて、一体どこに医者がいるのだと苛々すると。正面から、白衣を纏った髪の長い女がやって来る。足を止めれば、女も足を止めて、怪訝そうな顔つきでこちらを伺う。
「なんだ。……受肉体?」 「医者か?」 「そうか。君が虎杖の兄か」
物分かりのよさそうな女だ。くるり、と踵を返す。近寄れば、それでよし、とでもいうように、女も再び歩き始めた。
「佐藤はどこにいる?」 「なんだ、怪我でも見てくれってことかと思った。沙都を探していたのか。手だろ? 気にしなくていい。軽い火傷だ。痕にはならないだろうさ」
飄々としている。暫く佐藤や釘崎のような喧しい女としか関わりがなかったので、どうにもやりづらい。口を閉ざす。女もそれ以上何も言わない。女について廊下を曲がったり階段を下りたりする。辿りついた先は、いかにも怪我の処置をするような一室だった。 「沙都を心配してきたんだろう?」女は椅子にかけて、足を組んだ。冷え切った部屋だ。灯りがついているというのに、どこか薄暗く、青く見える。薬品なのかわからないが、不思議なにおいがした。
「そういうわけではない」 「じゃあどうしてついてきた。ああ、調べさせてくれるのか?」 「何を」 「受肉体の仕組み。まあ、流石に生きたまま解剖しはしないよ」 「あぁ?」
冗談だ、と薄ら笑う。
「佐藤はいないのか。戻る」 「やっぱり心配だったんだな」 「馬鹿らしい」 「躱すだけでいいのに。そう思わないか?」 「……」 「沙都は突っ込みがちなんだ」
用がないなら、出てった出てった。 部屋を出ると、すぐに扉が閉められる。無駄足だった、と、思う。
‐‐‐
「あ、お兄さん。朝はどうも。少し休めた?」
自動販売機のベンチに、佐藤は腰掛けていた。タブレットを膝に置き、睨み合いしていた。朝は随分と騒がしかったが、もう平気らしい。切り替えの早い女だ。 学生の姿は見えない。 「さっきまで授業で、この時間空きなんだ。休憩中」と、屈託ない笑顔を見せる。何かの資料を読みこんでいたようだ。細かい字と図表が映っている。目線に気づいたのか、佐藤はそっとボタンを押して画面を消した。気を遣うな、と隣に腰をかければ、何か飲む? と財布を取り出す。気を遣うなと言ったばかりだろう。俺が睨めば、はいはい、と肩を竦めた。
「……平気か」 「はい?」 「手だ。朝はなんともなさそうだったが、治療してもらったんだろう」
佐藤はぽかん、とした顔で、俺を見上げた。それから、ああ、と思い出したように右手を差し出す。薄らと残った痕。
「治療って大げさな。診てもらっただけだよ。これなら大丈夫って、硝子さんが。……ええと、」「保健の先生」 「知ってたんだ。反転術式使えるすごい人だよ」
痕に指を伸ばす。つう、と触れば、佐藤は身を固めた。
「お兄さん?」 「先生。傷が痛むのか」 「あ、あのさあ。前から思ってたんだけど、お兄さんの先生じゃないって」 「ああ。なら沙都」 「へ」 「悠仁がいないんだ。確かに今オマエは弟の先生じゃない。一人の女だ」 「な、んかすごく恥ずかしいこと言ってない!?」 「沙都。痛むのか? どうなんだ」
怪我は悪化していないようで、胸を撫で下ろしている。同時に、素っ気ない様子に苛立っている。疲れているのだろうか。言いようのない感情が、自分の中で燻っている。 この怪我だって、本来、負わないはずのものだった。俺のことを知りたいだなんて言って、首を突っ込んできたから。いや、俺が面白がって受け入れたから。 呪いを拒む術式だ、と彼女は言った。それでも俺を拒みたくないと話し、その体を傷つけている。
「ええと。……少し痛いけど」 「……」 「痛いけども。いい勉強になったかなー、って?」
わはは、と大きく笑うのだった。それから眉を八の字にする。心配かけてごめんね、と立ち上がった。タブレットを椅子に置いて、自販機に小銭を入れた。がこん、と音を立てて落ちた飲み物をひろって、はい、と手渡す。
「ありがと、お兄さん……じゃなくて、二人だし、うん、脹相か。コーヒーは飲み慣れれば美味しいと思うけど。脹相、今日はこれね」
ココアだよ。甘いよ。 甘いのはどっちだと、心底思った。 back |
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