「どうぞ」
「邪魔する」


 部屋は葡萄の香りがした。甘く柔和な香りだ。物が少なく、整頓されている。小奇麗な部屋だった。思ったことをそのまま口にすると、「普段はソファにお洋服ぽいぽい、なんですけど」と謙遜した。そのまま、飲み物準備するね、と台所へ入っていく。棒立ちしていると、座ってて、と声をかけられる。床に腰掛けると、長い座椅子を指差される。「ソファ、座っていいよ」普段はここに服を散らかしているらしい。

 昨日。それってつまり勉強会ですね、と佐藤は言った。資料室から本を持ち出して、一先ずと向かったのは寮の談話室だった。女の鞄に隠すように入れられた本を取り出そうとして、ぱっと抑えられる。どうやら、大っぴらに開くには憚られる書籍らしい。
 どこで読めというんだ、と訊けば、逡巡してから「私の部屋にしましょう」と言うのだった。寮の空き部屋でいいだろうと渋ったが、もし学生に見られて変な噂がたったらどうするんですか、と眉根を寄せる。変な噂とはなんだ、と突っ込めば、「ほんと、無頓着ですね」と詰るのだった。それこそ、女の部屋に立ち入るのはどうなのかと言おうとして、面倒だから口を閉じた。オマエだって随分と無頓着だろう。

 高専を出て、駅に向かう。すれ違う人に振り返られるのはもう慣れた。脹相は目立つからなあ、と佐藤は話す。


「どうして髪、二つに結ってるの」
「どうしてだろうな」
「何それ」
「オマエも二つに結ってみればいい」
「私もう二十越えてるからな……」


 混み合った駅で、はぐれないようにと佐藤は俺に言い聞かせる。実際のところ、人波に溺れてしまいそうなのは彼女の方だった。人は俺を見るとすっと目をそらして空間をあける。さくさく歩いていく俺と違い、えっちらおっちら人をかき分ける女は、至って普通の人間に見えた。
 布切れを振り回せばいいんじゃないか、と声をかければ、それができれば苦労しないのよ、と言い返される。できるだろうに、と追撃するのはやめておく。
 二駅ほど離れた地に彼女の家はあった。本もきちんと持ってきたよ、と、古めかしい書物を取り出す。早く読もうとばかりに、目を輝かせている。もういっそその辺の公園で読んだっていいんじゃないか、と思うけれど、ここまで来たのだ。折角だから部屋にあがることにして、今に至る。


「脹相、コーヒー平気」
「コーヒー」
「苦い飲み物」
「一度飲んだことがある」


 飲んだことはあるが、いまいち好きになれなかった。差し出された黒く熱い液体に、表情を硬くする。女は、
「無理だったらお茶いれなおすよ」と申し訳なさそうだ。構わない、と口に運んだ。苦い。


「虎杖くんとは、最近どう」
「相変わらず仲が良い」
「そうなの。……野薔薇ちゃんのことは」
「わかってて聞くのは悪趣味だ」
「……ごめん。脹相は虎杖くんしか興味ないのかなって」
「そんなことはない」
「そう? 例えばどんなことに興味があるの?」
「……オマエ」
「?」
「オマエの、術式は興味深い」
「そう? ふふ。術式はさあ面白いよね、また今度見せようか」


 のんびりと笑われる。
 佐藤と知り合って少し経ったが、隙だらけなようでいて、堂々とした立ち振る舞いに目がいってしまうのは確かだった。彼女自身に興味があると言えば素直だろうが、変に勘違いをされても困るので、おまけを付け加える。彼女の術式自体に関心があるのも事実だ。
 コーヒーを飲み干してから、さて、と、二人して向き合うは書物だ。世間話は終わりだ。赤札を指でなぞり、彼女はんん、と咳払いをした。


「読もうかな」
「はやくしろ」
「読んでいい?」
「なぜ俺に許可をとる」
「だって脹相のことが書いてあるんでしょ。私に知られて困ることがあったら、嫌でしょ」
「困ったら口を封じるから平気だ」
「ひっ」
「冗談だ。ほら、知りたいんだろう。先生」


 すっかり身を固くした女に気を良くして、表紙に手を滑らした。そのまま急かすようにぺらり、と開いて見せる。女は一睨みして、「易々と口封じられるもんですか」と、期待通りの憎まれ口を叩き、本に目を落とすのだった。



‐‐‐

 二時間ほど経っただろうか。
 すっかり飽きてしまった。自分のことや兄弟のことが詳細に書かれているだけで、新しく知ることなどないのだ。彼女だけが、じいっと、文章を追っては頁を捲る。俺を知ろうと、じっくりじっくりと、捲る。時々、ねえ、と質問されたことにぼそぼそと答える。成程、とかうーん、とか声を出して、また彼女は文字を追うのだった。
 二人並んで座っていたが、同じ姿勢でいるのもくたびれてきた。佐藤も同じだったらしく、すっとソファから下りて、足を伸ばして背を預けた。隣に居なくなったのを良いことに、ソファにごろんと寝転ぶ。佐藤は何も言わなかった。はみ出す足を組んで、女の旋毛を見下ろす。この部屋に来たのは昼間だったが、今じゃすっかり夕暮れだ。薄暗くなってきた室内で、彼女だけは書物に釘付けだった。
 そろそろ電気をつけようか、という暗さになってから、佐藤はぱたん、と本を閉じた。ぐぐ、と大きく伸びをしてから、脱力して、頭をこてん、と倒す。俺の腹に女の頭がある。重い、と苦言を呈そうとすると、ねえ、と声を出し、
「脹相は」「この世を呪いたくないの」
 とか言うのだった。大方、同情でもしているのだろう。ふ、と鼻で笑った。


「オマエは変なことをいう」
「そうかも」
「オマエ達からしたら、そもそも、俺の存在自体が呪いだろう」
「でも」
「俺には兄弟がいる。弟たちがそばにいる限り、今生捨てたもんじゃない」
「……」
「一度受肉の恩を忘れた身だが、人として生きるべきだったと、今は思う」


 そっか。飲み込むように、納得したように、佐藤が頷いたその時だ。
 ばっと、佐藤の手から炎が出た。わあっ、と情けない悲鳴と共に、炎が床に落ちる。火花を散らしながら、ごうごうと燃えていくのは、赤札のついた本だった。二人して立ち上がり、激しく燃える様を見下ろす。ぴぴぴ、と大きな音がなる。かさいほーちきが、と佐藤は慌てた声を出した。


「ほーちき。いや、あつ! 痛い!」
「馬鹿か。近寄るな」
「みず、水! かけないと」
「直に燃え尽きる。見ろ、燃え移っていく様子がない」


 佐藤がおろおろと、本に、いや炎に手を伸ばそうとするので、肩を押さえつけて止める。床に敷かれていた布地に火が移ることもなく、書物だけ焚かれていく。


「でも。ほーちきなったし、とめないと」
「気にするな」
「気になるんだよ」


 ええとこういうときどうすればいいの、と、火傷した手を放って、スマートフォンに手を伸ばそうとする。呆れた女だ。手首をつかみ、無言で台所へ引っ張った。
 ちょっと、何するの、まってよ、と引き留める声を無視して水栓に手を掛ける。流水に彼女の手ごとつっこんだ。頭も一緒に冷やしてやろうか、と低い声を出せば、佐藤は黙り込む。
 それでも、周囲に迷惑だからと、ほんの一、二分で佐藤は俺の手を振り払った。びしょびしょの手で椅子を運び、ほーちき、と呼んだ天井の機械に手を伸ばす。けたたましく鳴る機械は、数回触ると音を止めた。ほっとした顔で、彼女は椅子から下りる。そしてから、また台所に戻って、今度は大人しく自分から流水に手を入れるのだった。 
「焚書だったのか」佐藤は呟く。


「読まれたら、自動的に燃えるような縛りだったんだ。読まれちゃだめな本だった」
「面白いな」
「面白くないよ。筆者の名前もなかったの。誰が書いたのかもわからない、めちゃくちゃだよ」
「これで、この内容は書いたやつとオマエと俺だけしか知ることはなくなった、ということだ。十分面白い」
「書いたやつが誰なのか、そこが大事でしょう」
「人間だとしたらもう居ないだろうな。古い内容だった。他の本にも載るような文章だ。真新しい情報なんて特にないような、大したことない中身だった」
「……ただ。人間にとってよくない表現が、多かった」


 きっと、多分、貴方たち寄りの筆者だったはず、と佐藤は話す。どうでもいい。知ったところで、なんの得にもならんだろう、と、適当に返す。これは嘘だ。もしかしたら有用な情報だったかもしれない。惜しいことをしているのかもしれない。が、今の佐藤にそれを言ったとて、何も変わりはしないのだ。余計なことは口にしないのがいい。
 火傷は大丈夫か、なあ先生、と顔を覗きこんで、ぎょっとする。薄らと涙にぬれている。


「おい。そんなに痛むか」
「……わたしは、脹相が、……九相図が、忌み嫌われるべき、呪いに、思えなくなった」
「……」
「最初は呪いだって、聞き分けもしないつもりだったのに。今だって、何かあったら切り捨てようと思ってるのに。でも、たぶん、そうしたら私きっと後悔する」
「……はは。情でもわいたか」
「そうだと思う」


 呪いは人間が生み出しているのに。望んで、望まれて生まれてきたかもわからないのに、と、好き勝手なことを言う。


「脹相は、私の術式に興味あるんでしょう」
「……ああ」
「呪いを跳ねのけるしかしない、ただ、降りかかる火の粉を払うしかできない術だよ」
「いい術式だ」
「呪いを拒むだけの術式よ」


 でも、今は。脹相のこと、呪いだって、拒みたくないの。
 佐藤は目をごし、と乱暴に拭って、それから深呼吸をする。水栓を止めた。掌は赤い。ぐう、ぱあ、と閉じて開いて、よし、と声を出した。


「とりあえず、もう夕食時だし、何かたべよっか」
「まずあの煤を片づけるべきだろう」
「脹相片づけといてよ。そうだ、ご飯苦手なものある? まあ、なんでも経験と思ってよ。出されたものに文句は言わないこと」
「なんだそれは」 
 

 それから佐藤の行動は早かった。彼女はささ、と軽食を作り、どうぞ、と食卓に並べた。口をつけると、満足げな顔をしてから、そうだお酒のんじゃおう、と缶をあけた。飲み干して、顔を真っ赤にして愉しそうに笑う。脹相も飲む? と言われて、首を振る。やはり部屋に上がるんじゃなかった。なかなか面倒なことになりそうだ。


「脹相」
「なんだ」
「脹相は人でいいよ」


 面白いし優しいもん。
 そういって、かくん、と首が落ちる。


「佐藤」
「……」
「佐藤。先生。センセイ。寝る前にお湯くらい浴びたらどうだ」
「……」
「……沙都」
「んん……」


 仕方なく、椅子から彼女を抱えて、ソファに雑に転がしてみる。気持ちよさそうに寝息を立てている。……
 まだ日が変わるまで随分と時間があるが、眠気に誘われてしまった。床に座り込み、彼女の頭の近くに首を預ける。そのまま、彼女の小さな息を背に目を瞑った。葡萄の香りはもうしない。換気したにも関わらず、どうにも煤臭さが鼻から離れなかった。




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