「イケナイ関係って、ぐっとくるもん?」 「なんの話ですか」 「沙都の色恋の話」
陽が沈むのがすっかり早くなった。 窓の外は暗い。職員室は蛍光灯で眩しい。 日下部先生がもう帰るというので、一緒に上がろうかな、と席を立った瞬間。お疲れ様、と、出張帰りの五条先生が乱入してきた。これお土産わけといて! と休憩スペースの机にぽいと投げてから、聞いてよ沙都と幼く絡んでくる。 助けて日下部先生! 「給湯室、湯は捨てといた。お先」 ……日下部先生の馬鹿! 職員室に二人きり、出張先の話をだらだら聞かされる。前にもこんなのあったぞ、デジャブ。適当な相槌に不満そうだけど、大人しく言うことを聞いているのだから良しとしてほしい。 帰ることができないので席に着いて仕事することにした。キーボードを打つ手が止まらない。そういえば、この間の……キャンプ場での報告書、補足を頼まれていたのに、仕上げてなかったことに気が付く。明に迷惑をかけてしまう。まずい。 ファイルを開き、どこから手をつけようか悩みながら、すっかり冷めたコーヒーを一口含む。 開かれたファイル名を見た五条先生に、そうだそうだと嬉々として話題をかえられて、冒頭のやり取りに行きつくのだった。
「五条センセイ。出張お疲れ様でした。仕事終わったでしょ、早く帰ってください」 「沙都、イライラしてる?」 「今余裕ないんです。しっしっ」 「余裕がなくなっちゃうほど気持ちかき乱されてるんだ」 「うざいっ」
画面から目を逸らして、きちんと五条先生に向き合う。満面の笑みだ。私が話にのるまで攻めの姿勢をやめないつもりだろう。最悪。
「早く帰りたいので邪魔しないでくださいっ」 「あんまり夜遅くだと心配だなあ。もう19時だよ」 「呪術師の仕事はここからです。後生です。帰って!」 「ふぅん。なら、悠仁に連絡いれとくよ」 「は」 「"これから沙都帰るから近くまで送ってやってー。……って脹相に頼んで" 送信」 「ばっ」
五条先生の悪ふざけはたまに、度々、しょっちゅう度が過ぎるってわかっていたのに! センセイのばか私のばか、と、最強の胸元をぽかぽか殴る。全然痛そうじゃない。無限が憎い。
「もうっ、仕事持ち帰ります。帰ります!」 「迎えにきてくれるの待ちなよ」 「いっそ五条先生が送ってくれればいいじゃないですか」 「僕よりもっと適任がいるだろ」 「佐藤先生、来たよ」 「あれ、悠仁だけ?」 「虎杖くん!」
がららと扉を開いて、大きなパーカーにバスパン姿の虎杖くんがひょこっと顔を出す。今連絡したはずなのに、早すぎやしないか。「寮から廊下走ってきた!」恩師に似て人の心を読むのが上手い。廊下は走らないでほしい。
「兄貴はどうしたの」 「脹相は門で待ってる。佐藤先生、いこ」 「あの、虎杖くんごめん、私一人で帰れるからーー」 「学生の厚意を無下にしちゃいけないよ沙都。保護者も待ってるみたいだし。僕戸締りしていくから」
子どもの前で保護者に手出すのはだめだよ。 耳元で囁かれて、ぞわぞわしたので、五条先生の足を踏んだ。踏めなかったので、ぐりぐり踏み潰すふりまでしてみた。二人とも仲いいね、と、可愛い教え子はすんとした顔でそれを眺めた。
急いで帰り支度をして、十分後。
「遅い」 「悪い、五条先生と話してて」 「教え子をあまり夜遅く振りまわしてくれるな」 「うう。すみません」
闇夜に塗りつぶされそうな、見知ったシルエットに戸惑いを隠せない。 お兄さんと会うのは、あの依頼ぶりだから、一週間とか、そんなところ。今週は別の任務に行ってたみたい、顔を合わせることがなかった。
「じゃ、二人とも気を付けて」 「ああ。行くぞ」 「うん、ありがとう。……うん? あれ、虎杖くんは?」
折角だし、ありがたく二人に送ってもらおう、なんて気持ちを切り替えたところで、虎杖くんが手をふりふりしだした。何で?
「俺、この後伏黒と任務なんだよね。部屋戻って着替えないと」 聞いてないよ! 「ごめん、五条先生から口止めされてて」 可哀相に!
「任務前にほんとごめんね。あと、担任の悪ふざけだなって思ったらいつだって断っていいよ」 「平気平気。せんせ、気を付けて帰ってね。俺も気を付けて行ってくる。脹相、頼んだ」 「ああ。悠仁、またあとで」
教え子はぴょんぴょん跳ねて大きく手を振ってから、背を向けて駆けだした。あっという間に坂を越えていく。
「すばらしく気の良い子ですね」 「自慢の弟だ」 「自慢したくなるのもわかります」 「行くぞ」 「……はい」
遠くなる虎杖君の背中を見届けてから、お兄さんはさっさと歩き出す。慌てて後を着いていくことにした。
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東京と言えども山々に囲まれた本校である。車移動が基本だ。補助監督さんのご厚意で駅まで送ってもらうこともしばしば。今日は皆さん任務で出払っているため、そういう訳にもいかず、少し歩いた先にタクシーを呼ぼうとしていた。
「お兄さん、そこまでで結構ですので」 「脹相だ」
すました顔で即答される。二人きり。ぐぬぬ。
「……脹相。なんならここで大丈夫。いつも一人で帰ってるし申し訳ないし、」 「喉がかわいた」 「?」 「送ってやるから茶でもくれ」 「……はいはい。ありがとう」
弟からのお願いには忠実な兄だ。 意地でも送ってくれるらしい。 仕方ない、タクシーを呼ぶのはやめて、途中で美味しい飲み物買ってあげよう。スタバ寄ろう。単純に、この男がフラペチーノとか飲んでるところを見てみたい。
月が綺麗な夜だった。 任務のことや、五条先生の愚痴を聞いてもらいながら、のんびり歩いていると。 ふと、嫌な気配がした。 足を止める。脹相も同じようで、顔を見合わせる。
「なんか。……いるね」 「近くだ」
辺りを見回すと、人気の無い交差点の向こうに、残穢を見つけた。歩行者信号が点滅して、それに背中を押されるように、走り出す。 残穢は少しずつ濃くなっていく。表通りから、ビルの間、路地裏へ。 もしかしたら、誘われているのかもしれない。周囲を警戒しながら、先を急ぐ。 何だかめんどくさい事に巻き込まれちゃった。脹相がいて正解だったかも。ちら、と振り返ると、小さく欠伸をしていた。
「面倒事に首突っ込んじゃったね。ごめん」 「早く済ませるぞ」 「うん。あ、」
呻き声がする。女性の声だ。 電灯も月明かりも届かない暗闇から、聞こえてくる。
「えっと、大丈夫ですか? ……誰かいますかー?」
返事はない。が、止むことのない苦しそうな声が正解だろう。ハンカチを取り出して、呪力をこめる。スマホの電気をつけて、暗闇へ向ける。
「!」
くねくねとした呪霊に全身を締めあげられている女性がそこにいた。 真っ赤な顔をして、反抗することもできないまま、されるがままになっている。 早くしないと。 呪力を飛ばそうとして、集中した次の瞬間、
「穿血」
呪霊が弾け、女性が地に落ちた。 一瞬、何が起きたか理解が追いつかなかったものの、激しい咳込みと嗚咽に、慌てて駆け寄る。
「もう、もう大丈夫ですよ。えっと……救急車。呼びますね」 「あ、ありがとう、ありがとうございます」 「平気です。大きい怪我は無いですよ。血も出てないです」 「ぐす、あり、ありがとう、お姉さん」 「あ、私じゃなくて、脹相が……あれ、脹相?」
ハンカチを女性に渡してから、スマホの光で周囲を照らしてみる。 サイレンが近づくまで辺りを見回してみたけれど。 脹相は、忽然と、姿を消してしまったのだった。
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「なんで居なくなっちゃったんですか」 「……起き抜けになんだ」
次の日。 虎杖くんと一緒に、脹相が泊まっているらしい寮の一部屋に押しかけた。 ベッド以外なにもない、殺風景な部屋だ。 虎杖くんの服を借りているのだろうか、お兄さんは薄手のトレーナーにゆるいズボンを履いてベッドに寝っ転がっていた。少し丈が足りていないらしく、足首は丸出しだ。
「脹相、佐藤先生心配して来たんだよ」 「何が心配で……」 「昨日突然居なくなっちゃったことです!」
どうやら寝起きは良いほうじゃないらしい。前に家に泊まった時もそうだったっけ。虎杖くんが横にいるのに、顔をくしゃくしゃにして、体を思い切り小さく丸めた。かと思えば、布団を頭から被って隠れてしまった。 反射的に掴んで剥がしてみると、不機嫌そうな唸り声。
「寝る」 「起きて。もう7時だよ」 「早い……」 「せんせ、俺も早いと思う」 「虎杖くん疲れてるとこごめんね。寝ておいで。弟いれば起きるかと思ったんだけど」
お言葉に甘えて、と、虎杖くんはふらふら部屋から出ていった。 任務から帰ってきたばかりで、伏黒くんも疲れてるようだったし、二人とも今日はしっかり休んでもらおう。
「……」 「虎杖くんはいいとして。起きて。ねえほら。起きろー」
ねえってば。 ぽんぽん布団を叩くと、よっぽど煩わしかったのだろう、がばり、と起き上がり、ぼさぼさの髪の毛が飛び出した。
「オマエは朝からなんなんだ……」 「脹相のこと心配で、早起きして高専来たんだよ。昨日のことちゃんと説明してください」 「……」 「ね」
顰めっ面を覗き込むと、脹相は大きくため息をつく。それから、頭をがしがしかいて、ベッドに胡座をかくのだった。
「事が済んだから帰っただけだ」 「一言言ってくれてよかったでしょ。突然いなくならなくても」 「……」 「あの女の人は無事だったよ」 「……」 「ありがとうだって。……あの女の人は、脹相が助けたんだから、脹相がお礼を言われて当然なんだよ」
ぴっと彼の鼻先に人差し指を突きつけて、言い放った。そしてから、膝を曲げて、脹相と同じ目線に立つ。
「ありがとうね、脹相」
勝手に帰ったことはさておいて。 単純に、昨日のお礼を伝えたかった。
寝起きで不機嫌な男だ。朝からこんな説教じみた話、不快に思って当然だろう。 そこは、置き去りにしていった仕返しってことにしておく。 じゃ、帰るね、と声をかけて、そそくさと立ち去ろうとすると。
「待て」 「!」
手首をぐっと掴まれた。 そのまま引っ張られて、なし崩しに、ベッドに腰をかけてしまう。 ……なし崩しすぎる!
「あ。……怒ってる?」 「……怒ってない」 「ええ。怒ってないの?」 「先生」 「は、はい」 「……俺は人じゃない」 「……んん?」
脹相って大柄なんだな、って、改めて気づいた。隣に座ってるだけなのに、見下ろされてるから。 ……そうじゃなくて。 今、どんな話になってるんだろう、これ。
「あの。話が掴めないというか、」 「俺は人じゃない。呪いとして生きてきた」 「……まあ、そうね」 「だから、人に感謝される筋合いもない」 「……どういう理屈それ」
私の怪訝な声にも、何処吹く風だ。
「俺に助けられたとして、あの人間は怯えるだけだろう」 「……」 「それで、オマエに任せた」
帰り道、送らなくて悪かったな。
ぱ、と手を離してくれた。 昨日、勝手に帰った理由を説明してくれたのだ。
暫くの間、脹相と目を合わせる。不機嫌な様子はもうなかった。 冷たく乾燥した部屋で、カーテンの隙間から滑り込んだ朝日が、私たちを照らし始めた。彼の無表情は白く、眩しい。 瞳には辛うじて私が映っている。それに幾分かほっとする。
「……脹相は」
今度は私が、彼の手を両手でとった。
「前、話しましたよね。脹相は人じゃない……けれど。呪いかもしれないけれど」 「ああ」 「それでも……。昨日は人を助けたんだから!」 「……」 「感謝される筋合いある!でしょ!」 「……沙都、」 「私は脹相のこと、呪いだって拒まない。人でいいじゃんってさえ思ってる。脹相がそうありたいなら。 人だ呪いだ、周りのことは、もう気にしなくていいの。 脹相が、これからの生き方で決めることだよ」
そのままぎゅっと、脹相の硬い手を握る。
「昨日は無事に帰れたけど。お詫びだと思って、今日こそ家まで送ってってください」 「……」 「わかりましたかっ」 「……先生だろう。すぐ泣く癖をどうにかした方がいい」 「私のことはいいの!」 「ふっ。……沙都。わかった」
手を握り返された。 硬くて、厚くて。 この人の手、すごく、あたたかい。 体温調節が得意なのはどうやら本当らしい。
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「で、見てこれ。面白いでしょ。ギャップすごいの」
写真を突きつける。 明は書類を机に置き、スマホを手に取り、目を細めてじっくりと眺めた。
「ふふ。この出で立ちでフラペチーノ飲んでるの、何度みても……」 「……これってばデートじゃないスか」 「……はえっ?」 「沙都さんこれスタバデート! 間違えないっス!」
明はばんっ、と机を叩き、その勢いで立ち上がる。 伊地知さんが遠くで何事かと、困った顔をしている。
「そんな……つもりは全く無……」 「これもうイケるっス! ケジメつけないと! この関係!」
この関係。……教師と教え子のお兄さん……とかいう、五条先生曰く、イケナイ関係?
「イケナイ……え、イケるっていうのは……」 「告白」 「!」 「沙都さん。ぶっちゃけもう、好きでしょ。その……人?のこと」 「……じゃ、その報告書、上によろしくね」 「あっコラ!」
いい大人が逃げるな! 罵声を浴びせられるが気にしない。他の補助監督さんに頭を下げて、さっさとその場から離れる。逃げる。
呼吸を整えてから、手にしたスマホを覗いた。 写っているのは、教え子のお兄さん。……
術式発動とばかりに、ハンカチをぶんぶん振り回す。 ……躱すことができそうにない! back |
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