車に揺られて、森へ。隣には特級呪物の受肉体。 窓の外を木々が滑り移っていく。
「もうすぐ着くっス」
明に声をかけられて、うん、とだけ返した。珍しく元気ないっスね沙都さん、とミラー越しに目を丸くされて、ちょっと寝不足かも、と答える。
「足を引っ張るなよ、先生」 「……そっちこそ」
憎まれ口を叩くのは、お兄さんだ。舌を出して言い返すけれど。心臓が妙に跳ねて、それが居心地悪くて。ふい、と逃げるように窓の外を眺めるのだった。曇り空、濃い緑。ああ早く東京に帰りたいな。
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「深夜、出るらしいっス」 某県、山奥のキャンプ場。知る人ぞ知るといった場所らしい。インターネットでは、満天の星空が美しい! という口コミが寄せられている。実際に行った人たちの感想を、掲載されている自然豊かな写真と一緒にぼんやり眺める。 たまには、こういうアウトドアもいいなあ。職員室のソファに腰掛けながら、コーヒー片手にマウスでスクロールする。どこがおかしいのよ、このキャンプ場の。明に問いかけると、それが……と表情を曇らせる。「コメント欄、最新順にするとまあ酷いっスよ」と、数回マウスをクリックして見せた。並び替えられたコメントに、眉を顰める。
「『行かない方がいいです』『夜になると何か来る』『見なければよかった。あれは動物じゃない』……つまり、非術師にも視認できるほどの?」 「まあ、そう考えるのが自然っスよね」
ちょっとした心霊スポットのような扱いを受けている。その影響か、今キャンプ場は一時閉鎖状態になっているとか。
「コメントだけで閉鎖には追い込まれないだろう」 「! お兄さん」
ぬっと姿を現したのが、お兄さんだった。お兄さんは私を一瞥して、何の一言もなく横に腰掛ける。足を大きく開くもんだから、少し横にずれることにした。
「そうっスね。ま、つまり、本当に怪しいことだらけってことっス。窓が言うには二級相当の呪霊だとか。なんで……二人で行って祓ってきてくれると」 「二人で? 明ぃ、一人じゃだめなの?」 「沙都さんソロキャンプしてみたいだけでしょ」 「ええ……。じゃ、明一緒に行こうよ」 「今回は、その、横のお方と沙都さんでシクヨロっス」
明はにっこり笑ってから、ぺこっと頭を下げてみせた。私は横に座る彼を見上げる。じっと真っ黒な双眸が、私をきっちり射止めていたので。ううん、と唸って頭をかくのだった。
お兄さんと自宅で一夜を明かしてから(本当にただ一夜を明かしただけだ)。 沙都、と正面切って呼ばれてから。 いよいよ私はおかしくなってしまったらしい。一見、何でもないように振る舞っているけれど、高専内でお兄さんを見かけては、頬に熱を集めてしまう。顔を直視できない。何気ない世間話が嬉しい。が、長く話すのに気力がいる。先生、と呼ばれたり、名前で呼ばれたり、いちいち心臓がはねる。
これはまずいのでは? もしかして、いや、そんな。悶々としていたところに、この任務だ。 今までお兄さんと二人きりで任務なんて、無かった。二級相当なら、他の術師とでもいいだろう。何なら私一人でもうまくやれるはずだ。明にそう説明するが。
「あくまで、二級相当っス。確証はないのと、もしものときのためっスよ」 「そんな」 「あはは。貸し切りだし、自然を楽しんできてください」
二人で。明に他意はないのだろう、行ってらっしゃいと手をふりふり振られる。隣に座る男は「よろしく頼む、先生」と飄々とした顔で言ってのける。人の気も知らずに、私だけ浮いた気持ちで阿保らしい。溜息をついてから、うん、よろしくね、と返事した。
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キャンプ場には私達以外に誰もいない。閉鎖されているのは本当らしい。管理人も、今は不在だとか。少々不安が募る。 明に置いてけぼりにされて、いよいよ二人きりだ。少しの間、どうしたもんだかとドキドキしながらハンマーとペグを握りしめていたが。お兄さんは至っていつもと変わらず、さあ準備をしよう、とぶかぶかの袖を捲るのだった。 そうだ沙都、これは仕事だぞ。顔を二、三度叩いて作業にとりかかる。それにしてもまあ、男らしい腕付きですこと。とっ散らかる私の思いなんてつゆ知らず、お兄さんは黙々とペグを打つ。何故かしら、とても手際がいい。
「元の人間が」 「?」 「こういったことに、長けていたらしい」 「左様ですか」
お兄さんとせーの、で力を入れる。なんとか、テントを張って拠点を作り上げたのだった。
「はあ、やっと張れた……」 「もう、へばっているのか」 「うーん。最近なんだかんだデスクワークの方が多かったから」
ふう、と息を吐いてチェアに腰掛ける。お兄さんも、見よう見まねでチェアを開き、座り込んだ。のどかな時間である。 木々に囲まれる中、地にロープを這わせてきちんと区分けされたサイト。深緑の匂いと風で葉が擦れる音が心地いい。もっと朝早ければより爽快だったろう。既に日は傾きはじめていて、空の端が橙に染まっている。 「空気がおいしいというのはこういうのを言うのかもしれないねえ」と思い切りのびをして言う。お兄さんは首を傾げて口を大きく開けて、また首を傾げる。面白いのと少しかわいいので、放っておくことにする。
「……にしても、張る必要があったのか」 「テントのこと?」 「帳をすぐにおろせばいい。大体、俺たちしか居ないんだから、視認されることもない。不要か」 「なるべく、呪霊が現れたときと同じ状況にしたくて」
呪霊が出るのは、決まって深夜だという。ざわざわ木が唸る音と共にテントの外を這いずる音が聞こえて、束の間の静寂の後。侵入されて"叩かれた"り、"噛まれた"り、被害は様々だ。
「だから、テントを張ってから帳をおろすように連絡しようと思ったの」 「成程な」
スマホを操作して、明に電話を掛ける。
「あ、明。テント張れたし準備がー−」「ごめんなさい沙都さん、急用っス。県境の任務で、呼び出し食らってしまって! 私ここから近いんで、そっち顔出すっス。ホント、すみません!」 「ええ? 困ったな。いつ戻ってこれそう?」 「あっち、夜の任務らしくて。怪我人出そうとか、なんとか。終わり次第なんでどうかなあ、もしかしたら。朝焼けまでには戻るっス」 「なんか大変そうね」 「かたじけないっス……あ、リュック、いざという時のために色々準備してあるっスよ。一晩しのいで、呪霊もぱぱっと、やっつけてください! 応援してます! マジでヤバくなったら連絡くださいっス、念を送るんで」 「そんなあ」
健闘を! そう告げられて、ぶつっと電話が切られる。明はあんな口調だけれど基本まめな子だ。よっぽど急ぎの要件なんだろうか。それもそれで心配だ。
「で、ここで一晩過ごせということか」 「のわっ」
すぐ近くにお兄さんが居て、椅子から落ちそうになる。なんでそんな傍に、と、もごもご訊ねれば「盗み聞きだ」と電話を指差す。せめて何か言ってよ、と、文句を言いかけると、大きく烏の声が響く。 仕方なく、今日はキャンプだよ、と答えてから、支給されたリュックの中身をごそごそ漁るのだった。今あるもの。ランタン、二人ぶんのお茶、タオル、ブランケット、カロリー…イト。……あとお兄さん。
「まあ人生こんな一晩があってもおかしくないか」 「腹が減った。そうだ先生、火をたくか」 「……直火禁止なんだよここ。あと火があっても焼くものがないの」
お兄さんの顔がオレンジに照らされている。日が暮れるのが早い気がする。 先生、と呼ばれてこそばゆいが、もうそっとしておくことにした。藪をついて痛い目を見るのは私だ。仕事なんだから、平常心で取り組まねば。一晩、よろしくお願いしますね、と手を膝に置いて軽く会釈する。長い足を組み肘掛けに肘をどっかり置いて「ああ」と返事するお兄さんは、ポーズこそふてぶてしいけれど、不思議と自然に馴染んでいた。
暫くお兄さんと談笑していると、辺りはすっかり薄闇に包まれた。ので、ランタンをリュックから取り出した。重くごつごつして、古そうだけれど、使えるだろうか。 スイッチを押せば、強い光が煌々と辺りを照らし出す。くっきりと、お兄さんの輪郭が浮かび上がるのを見てほっとした。 それにしても、夜の山は冷える。暑くもなければ寒くもない、そんな季節だけれど。上に羽織るものを準備しておけばよかった、とブランケットを肩にかけながらぶる、と震える。お兄さんは大丈夫かしら、と見やれば目が合う。寒くない? と問いかける前に、ああ、とお兄さんは声を出した。
「冷えるのか」 「あ、うん。お兄さん大丈夫?」 「ある程度体温の調節がきく」 「すごいね」 「ほら」 「わ」
お兄さんは自分の膝にかけていたブランケットを、何の躊躇いもなく私の膝へうつした。温い。
「やる」 「あー、ありがとう」
……やはり胸が高鳴っている。お兄さん、きっと誰にでもこうなのに。根っからのお兄ちゃん気質なだけなのに!
「あ、温かいものでも飲めれば、多少違うんだろうけどね!」 「そうだな」
しーん。 私の方が、また変な意識をし始めてしまって。謎の沈黙が訪れてしまうのだった。あれ、どうしようこんな時何話そう。さっきまでほんと普通に会話できてたのに、虎杖くんのこととか、弟のこととか、聞いてみようかな。明とのこととか、五条先生たちとか、話してみようかもう一回? どうしよっかなあ。
「気がかりなんだ」 「……気がかり?」
沈黙を砕いたのはお兄さんだった。
「最近やたらと気がかりなことがある」 「何ですかそれ。お兄さんが考えることといえば悠仁くんとか、他の弟とかでしょ?」 「いつでもどこにいても今だって弟が第一だ」 「そりゃそうか……」 「……ただ、別に気にかかることができてしまった」
なんなのそれ、と、聞き返してから、どきり、とまた胸を鳴らしてしまう。お兄さんの目が、少し怖い。じっと私を見据えて、逃がさんとばかりで。話を聞いているのはこっちなのに、まるで尋問されているみたいな気持ちになる。
「俺を知りたいと」 「はあ、」 「血も繋がっていないくせに、俺を知りたいだなんて」 「……」 「拒みたくないと言われてから、俺は最近変なんだ」 「……どう、変なんですか?」
最早、誰に言われただとか聞かれただとか、そんなこと聞かなくたってわかることだ。 彼の気がかりは、私に違いない。 ふと、「呪いは呪いだ」と脳内でリフレインする。私の言葉、五条先生の声。何故今になって、そんなこと思い出すんだろう。無意識な警鐘だろうか。 山奥で、呪いと二人きりであるこの状況を危ういと感じているんだろうか。 お兄さんの言葉をじっと待つ。 今までの和やかな雰囲気はどこへやら、オマエは怪しい女だと罵られることだってあり得るかもしれない。虎杖くんが居たとしても。この状況、突然、敵対することだってあるかもしれない。 まさか、と思うけど。だって、お兄さんは、特級呪物の受肉体なのだから。……
「……」 「……しい」 「はい?」
やたら小さい声でいう。思わず、立ち上がってしまった。しっかり聞き取ろうと、お兄さんに向き直す。ブランケットが地面に落ちたが、気にしない。
「な、んて、言ったんですか」 「きちんと聞き取ってくれ」 「はっきり言ってください」 「……嬉しい」 「え」
今度は。きちんとした声で。淀みなく、お兄さんは言った。
「嬉しいと思った。オマエの言葉を。最初は変な女だと見ていたが」 「失礼だな」 「今は嬉しいと思う。あと面白い」 「うれしい。……おもしろい?」 「手の傷を痛そうにしているのを見て、嫌だった。……傷つけたくなかった」 「いやそれは。もう大丈夫だよ。お兄さんのせいじゃないし、……え。ええ?」 「オマエは躱すことが得意だというが、むやみやたらに突っ込むようなところがある。その上考えが甘い。世話が焼ける。放っておけないんだ」 「それって、」 「先生、教えてくれ。……もしかして俺は、先生、いや、沙都のことを」
ま、待った。待って! どうしちゃったんだ。もしかしてって、え、これ、これって。……そういうこと? お兄さんの目は怖いんじゃない、真剣なんだと今になってやっと気づく。何を言い出すんだろう。いや、これ以上は聞かないでおいたほうがいいんじゃ? だって、これ以上聞いたら。 わ、私。顔から火が出ちゃいそうで。
「沙都」 お、追い打ちはズルいでしょう! 耳を塞ぎたいけれど、塞げない。 結局、好奇心のほうが、強いのだった。
「俺は沙都を」 「う、うん」 「……」 「……?」
「妹だと、思っているのだろうか」
……。 五条先生。「呪いは呪いだ」と、私は確かに言いました。間違っていないと思います、呪いは呪いなんです。でも一つ認識を誤っていました。 彼は、脹相は。呪いである以前にお兄ちゃんなんです。 「兄は兄」、だったみたいです。
「……どうだろう? だから、オマエのことが気がかりで仕方ないんだろうか。なあ沙都」 「絶対違うと思います」 「そうか……」
あっさり、振ってしまった。お兄さんは、首をもたげて、もう一度、そうか……と唸る。
「……余計なお世話かもしれないですけど、先生なんで一つ教えてあげます」 「ああ。なんだ」 「そういうの。恋煩いっていうんだよ」
知っておいて損はないです。 そう言って、踵を返した。 どこへ行く、と訊かれて、トイレ! とだけ返す。一つしかないランタンをもって、小さい電球が一つだけ灯っている管理棟に向かってずんずん歩く。変な汗をかいている。これから仕事なのに。ここから本番なのに、ああ、もう。あつい! back |
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