「ちょうだい」

 兄が笑っている。穏やかに笑い、はい、と手をよこした。
 何かを貰うのは、奪うのは、こんなに気分がいいんだね。空を見上げる。真っ暗闇だ。もう一度、ちょうだい、と強請れば、兄はまた手をよこす。
「お兄ちゃん今どこにいるの?」聞いても、返事はない。
「お兄ちゃんごめんね。守れなくて。助けられなくて」兄はゆっくりと首をふる。
「復讐もできないかも。だめな妹でごめん」兄はまた笑う。
「……そんなに身長低かったっけ。お兄ちゃん」兄は、自分の半分しか無かった。
 不安に駆られて、ふと、視界の端に何かが転がっているのに気づいて。振り返ろうとすると。



「おはよう沙都」
「……おはよう、九十九さん」

 夢から戻ってきた。以前に見た夢の続きだと、ぼんやりと思い出す。
 天蓋付きのベッド。美女に見下ろされていることに気づき、なんとなく前髪を整えてみる。はあ、と熱い息を零した。……体がだるい。九十九の薄い絹のような髪が頬を擽る。良い香りがするね、と呟けば、当然、と九十九は笑った。


「熱がまだある。一晩しっかり休むといい」
「私、どれくらい寝てた?」
「たったの二時間」
「……ごめんなさい。護衛のはずが、こんな、だらしない」
「いいって。心がすり減っているんだよ。みんなそうだ、こんな状況でぴんぴん動けるほうがおかしい」


 健全な証拠だ。
 身を起こすと、湯呑を渡される。
「ほらお茶でも飲んで」と、九十九はいつもの調子でにこやかに言う。両手で受け取る。掌がじんわり温まると、
「わた、私」沙都の眦に涙が浮かんだ。


「ん?」
「……私、脹相に酷いこと聞いちゃった」
「何それ」
「殺し。……殺したんでしょ、って。人を」
「ははは。言うなあ」
             

 灸をすえてやったんだ。美女が大口開いて笑う様子はすがすがしい。沙都は何故かとても責められている気分になってしまった。後ろめたく思いながら、湯呑に口をつける。熱いお茶を無理やり喉の奥に追いやった。
 九十九はすとん、と沙都のベッドに腰を下ろす。長く引き締まった足を組んで、背を反らしてこちらに顔を向ける。身動きをする度、さらりと靡く髪は、一本いっぽんそれぞれに命が走っているようで。
 この人みたいに美しく強くあれたなら。……沙都は目を背けてから、もう一度お茶を啜った。


「まあしょうがないよ」
「……」
「沙都は人間で、アイツは呪いだった」
「それはそうだけど、」
「そうだけど、何?」
「……けど、私のことを助けてくれた恩人なの」
「ふふ。恩人、人。そうだよ。それが一番、らしい、よなあ」


 アイツ、わかってるのかなあ。
 薄闇の中、ベッドサイドの光に照らされて、美女は笑うのを止めない。沙都は情けない顔をこれ以上晒したくなかった。早く元に戻って、皆のために、今、自分ができることをしなければ。分かっているけれど、体は動かない。だいぶ熱にやられているらしい。


「まあ、積もる話は本人とすればいいよ」
「どうしよう。きっと怒ってる、もう、顔も見たくないはずよ」
「どうかな? そうでもないさ」
「ううん、怒らせちゃったし、傷つけたの。……謝ったけど、だめだよもう」
「酷く落ち込んでるな。実際のところどうなんだ? 脹相」
「え?」


 再び、湯呑を口元に運ぶ途中だ。九十九の発言に驚き、沙都は弾かれたように振り返る。表面が大きく揺れて茶が手にかかる。火傷も気にせず、九十九の向かい側にいつの間にやら立っていた男の姿に、沙都は目をぱちくりさせるのだった。
 九十九は、さて、と声を出し、太腿をぱん、と叩いてからベッドから立ち上がる。入れ替わるように、男が、ーー脹相がそこに腰を掛けた。


「じゃ、あとは若い二人でごゆっくり」


 ひらひら手を振って、さっさと美女は離れていくのだった。


「え、あ」
「……」
「ちょうそう、」


 声が震える。すっかり、怯えているのだった。
 どうしよう。怒っているはずだ、傷をつけるようなことを言ったのだから。どうしようどうしよう。
 もし。脹相が出て行ってしまったらどうしよう。天元様に申し訳ない、見せる顔が無い。虎杖くんのため、とは言っても、この状況じゃわからない。沙都は自分を責めるのだった。もっと上手に立ち回るべきだったのに。薄暗い気持ちに突き動かされた結果が、これだ。
 謝らないと。脹相に、お兄ちゃんに、……沙都は混乱している。


「熱は」
 くらくらする頭を必死に働かせていると、脹相が口を開いた。そのまま、手を伸ばされる。身構えていると、湯呑を持っていかれた。


「ええと」
「熱は、どうだ」
「……下がりました」
「嘘だな」
「……まだちょっと、あります」


 大きな手が沙都の額を覆った。よく冷えた手だった。気持ち良さに目を細める。夢の中で触れた、兄の手を思い出した。
「お兄ちゃん、」気づいたときには、声に出ていた。


「あ、ご、ごめんなさい」
「……」
「えっと、私、謝りたくて。ごめんなさい。……何があったか知らないのに、脹相は脹相で、きっと、わけがあって。なのに私。ごめんなさい。ひとごろしだなんて。最低だね私」
「沙都」
「ごめんお兄ちゃん。……あ、違う。ちがうの。ごめん、ごめんなさい脹相」
「もう謝るなと言った」


 そのまま額から手が滑って、頬を優しく撫でられる。夢かうつつかわからなくなってくる。沙都はその手を振り払うでもなく、何も言わず、ただ受け入れる。


「オマエは悪くない」
「……」
「オマエの言う通りだった。俺は呪いで、人殺しだ」
「……脹相、」


 ぞわぞわ、背筋に寒気が走った。反射的に、脹相の手を掴む。大きくてごつごつして、硬い手を、止めようとする。けど、手は止まらない。すり、とまた撫でられる。


「……兄もよくこうしていたか」
「……こんな触り方しないよ。脹相じゃ、お兄ちゃんの代わりなんてなれない。大体、私のお兄ちゃんはもっと優しい顔してるの」
「そうか」


 頬に手を当てられたまま、沙都は逃げるように目を瞑る。掴んだ手に、するりと指が絡んだ。


「悪かった」
「……脹相みたいに、男前な顔してないし」
「そうか」


 熱がまた上がってきた、気がする。


「私、お兄ちゃんが殺されたこと、多分一生赦さないと思う」
「それでいい」
「赦さない。赦せない、けど。多分、このまま生きていくだけ。復讐とか仕返しとか、できない。……それでも、お兄ちゃんゆるしてくれるかな」
「さあな。兄は先を行くだけだ」
「……いい加減私も前に進まなきゃ」


 虎杖くんみたいに。みんなみたいに。
 自分だけ、あの日に囚われたまま。全てを背負って進む力がなかった。

 絡んだ手の先を目で追う。視線が交わる。
 彼が、脹相が、兄を。この手が、もしかしたら、兄を……。
 全ては疑惑に過ぎない。
 

「兄なら」
「?」
「……弟には、妹には、生きていてほしい。そう思う」
「失う辛さを知ってるのに、そういうこと言うのね」
「……」


 ふわりと血の臭いがした。


「俺は」
「うん」
「俺は、兄として、……"人"として、あの日、オマエを拾ったんだと。今はそう思う」
「……ありがとう、脹相」


 沙都は笑った。互いの首を絞めるような会話だ。どうしようもない。
 脹相は瞬きもせずじっと沙都の瞳を見つめる。沙都はその気持ちに応えようと、熱に浮かされた頭で必死に考えて、かんがえて、


「なら、脹相も、いっしょに生きないとね」


 呪詛を吐いた。




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