兄はあの日、恐らく、死んだ。
 どうやって死んだのかは知らない。
 真人によって、体を変えられたのかもしれない。ホームに落ちて、轢死だったのかもしれない。宿儺の手で、何が起きているかわからないままに消されたのかもしれない。
 私を抱く、この男の手に、殺められたのかもしれない。


 あの日。十月三十一日。
 人混みの中を必死にかき分けて、沙都は声をあげながら交差点を走った。
 信号機なんてあってないようなもので。誰もが見えない何かに怯え、戸惑い、逃げようとする中、人の流れに逆らって走った。
 兄から連絡があったのだ。何が起こっているのか全くわかっていない、呪いの見えない兄から。渋谷は混んでいるよ、なんて、連絡だった。個人行動なんてとるべきではないとわかっていた。それでも、兄を、家族を。

 走馬灯のように兄との思い出がとめどなく頭に流れる。
 どこへ向かえばいいのか、何をするべきなのか、私は。
 呪術師として失格だとわかりながら、それでも足は止まらない。みんなを守らなければ。そんなのわかってる。でも、その前に、自分の大切な人を守れなくてどうする。どうする! 渋谷を駆けて、駆けて。駆けた先で。

 向こうの空がオレンジに光った。
 地響きと爆風に、足が、止まった。
 ため息みたいな悲鳴が漏れ出た。

 みんなはどこにいるだろう。非術師を、どうにかしないと。助けないと。
 ああ、自分にできることをしなければ。



 それからはよく覚えていない。なんとかみんなのもとに駆け付けて。
 誰がいて、誰がいないかも、もうわからなくて。
 生き残っていた補助監督さんと会って、一先ず戻ろうとなってから。兄を思って、抜け出した。
  
 どうすれば、兄を助けられたのだろう。
 もっと早く渋谷につけばよかった? 兄を見つけ出せればよかった?
 私が強ければよかった。呪霊をいっぴきでも多く祓えばよかった。

 あの日、たくさんの呪いが、人を殺した。兄だけじゃない、多くの人の命が奪われた。
 ある者は魂に触れられ、弄ばれて。
 ある者は切られて、焼かれて。
 飲み込まれ、瓦礫に潰され、塵にされ。
 
 残された人たちは、もう手遅れだと、しょうがないと、言い聞かせて生きていくしかない。そんな無常なことがあるのか。なくした人たちの気持ちを背負って、苦しんで。
 それで、生きていけるのか。

 私は、目の前の男を赦せるだろうか。
 血の繋がりも何もない、人間なのか呪いなのかわからない、この男がしたことを。人殺しを、赦せるのか?
 大切な人たちを奪った、このひとを、赦せるのか。

 脹相の服は、涙でじっとり濡れている。
 息を思い切り吸えば、あの日嗅いだ、血の臭いで肺がいっぱいになる。
 彼の体は温かい。鼓動が心地良い。

 死ぬというのはきっと苦しいんだと思う。真っ暗が襲ってくるのだろう。ゆっくりかもしれないし、唐突にかもしれない。痛みと寒さと共に、終わりを感じるのだと。
 兄は苦しかっただろう。
 最後に何を言ったのかとか、何を見たのか、思ったのか。知りたいことはたくさんある。
 それよりも、何よりも、兄を奪ったものが、今は憎くて憎くて仕方ない。悔しくて堪らない。仇をうてるなら、迷わず、うつだろう。
 兄を奪ったと疑わしきものは、呪いは、祓わなくてはならない。人間が生みだしたのに、いずれ人間を殺すというなら。人間が始末しなくてはならない。共には生きていられない。不戴天の仇なのだから。

 けれど。
 脹相の腕の中で、沙都は戸惑っていた。
 滅ぼされた渋谷の地で、この体温に救われた。
 そのまま死んでいれば、彼岸で兄に会えたかもしれない。確かにこの男は、私を救った。
 見捨ててもおかしくない状況だったのは確かだ。弟を思っての行動だろうけど、脹相は沙都を助けた。人を殺したというけど、助けもした。
 沙都は葛藤する。
 脹相は自分の知る呪いとは違う。彼が弟に見せる表情を知っているからだろうか。数日一緒に過ごしただけなのに。人を殺したと告白されても尚、脹相を敵だと、憎いと、思い切ることができなかった。


 沙都が罵るも、周囲に喚き散らすも、仇を討とうとするも、彼女の自由だ。
 暇つぶしでここに居るわけじゃない。沙都たちと交流することはあっても、天元を守るという命に従ってしかたなく残っているだけだ。
 それを妨害するようなことがあるなら、何かしら手を打たなければならない。
 縮こまったままの沙都が放つ言葉を、脹相はじっと待つ。彼女の体は熱かった。熱でもあるかのようだ。息が荒いことに、自分で気がついているのか。
 随分長い時間がたったように思えた、その時。



「殺したのにも、わけがあったんでしょ」


 沙都は、脹相の背中を撫でた。爪をたてた場所を、いたわるように撫でた。自分がされたのと同じ強さで、撫でる。


「何か理由があったんだよ」


 沙都は自分に言い聞かせるように、脹相に言った。
 涙はもうなかった。


「脹相。私のこと、たすけてくれて、ありがとう」


 脹相はぞっとして、沙都の言葉に身を固めるばかりだった。
 人殺しだと責めればいいのに、それをしない。呪いは呪いだと切り捨てればいいのに、できない。
 脹相の罪を受け入れ、しょうがないと赦すことを選んだ。強かな女だ。同時に、いつか突然壊れてしまいそうな女。
 沙都に赦されるか赦されないかなど、結局のところ、関係ない。自分には自分の考えがあって、すべきことを全うしたまでだ。沙都に今更何か言われたとて、過去は変わらない。
 最初からそんなことわかっていたのに、どこかで安堵する自分がいた。

 沙都の言葉は、考えに考えぬいた末の決意だ。ならばその決意を利用することだってできる。
 しょうがないことだったんだ、どうにもならなかった、悪いことをしたと、言葉にしてしまおうか。
 彼女の情につけこんでしまえばこちらのものだ。この先、人殺しだとかお兄ちゃんだとか、自分の前で騒ぐことはなくなるだろう。
 ついでに彼女の身も心も奪ってしまえばいい。恋仲になって彼女を甲斐甲斐しく護ってやるのもいい。沙都の兄に成り代わるでもいい。彼女の特別になれば。
 そうすれば、あれは避けようのないことだったと、いつか思い出さなくなるだろうか。辛いつらいと、泣くこともないだろうか。
 受肉してから、呪いとして生きてきた。呪いなら、奪って、奪って、奪ってしまえばいい。彼女の心も。身体も、


「ごめんね脹相。意地悪言って。ゆるしてね」
「……もう喋るな」


 ……そうやって、楽な道を選んできた。
 自分が嫌になる。


「一度戻るぞ。天元が心配して……沙都?」
「ごめん……」
「……熱い」


 いくら何でも熱すぎる。肩に両手をやり、身をはがす。
 汗に濡れた前髪を指ではらい、額に手をやれば、随分と熱がある。


「……はあ」
「ごめん」
「もう謝るな」


 頼むから。

 ぐったりする沙都をおんぶして、トンネルを出た。少し歩けば、おーい、と九十九が手を振っている。お熱いねえ! と野次を飛ばされて、本当に熱いんだ、と返せば、九十九は目をぱちくりさせた。


「沙都。こんなに泣かせて。罪な男だ」
「ああ。そうだな」
「ちょっと。何したんだよ」
「こいつ、熱がある」
「ええ」


 九十九に沙都を押しつける。知恵熱だろう、寝れば治る、なんてごにょごにょいって、そこから脹相はだんまりを決めこんだ。九十九が何を言っても何も言わない。 
 九十九は沙都の額によく絞ったタオルを置いた。
「沙都にはもっと優しい男が似合ってるんだけど」ぶつくさ言ってる九十九と腕を組む天元を見てから、その場を立ち去った。




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