「噛んでおけ」
「!」
「強く噛むな」
「…?」
「噛んだら血が出る」
「……」
「俺の血は毒としてお前の体内を回るだろう」
「!……」
「死ぬぞ」

 沙都は数回頷いた。絶対に死にたくない! れどう転がっても危険な状況にあることに気付き、怯えてしまった。ふんふんと、鼻で息して、全てを男の体温に委ねるのだった。


‐‐‐
 
 このくらい楽勝、と沙都が息巻いていたのは数十分前までだ。伊地知にお気を付けて、と声を掛けられて。ダブルピースを向けた後、帳に向かってダッシュして、自らこの地に入り込んだのだ。

 廃墟を壊して更地にしたい。どうも怪しい気があって、工事が一向に進まない。
 というのも、関係者が作業中に立ち眩み、ばたばたと倒れてしまうのだとか。音を立てたら駄目だとか。現場監督は頭に包帯を巻き、足を組んで、お手上げだと不服そうな顔をしていた。
 祓ってくださいとの依頼が高専生に飛び込むと、沙都に白羽の矢が立った。丁度、他の高専生も依頼に追われて忙しい時期だった。いつもは同期の虎杖や伏黒、釘崎と行動するものだったから、一人だけの任務は実質初めてだ。虎杖と釘崎は沙都だけで大丈夫か? と指を差す。伏黒は虎杖が付き添った方がいい、日を改めろと至極真っ当な助言をしたのだが、沙都はついに来た! と目を輝かせて。私にできることなら! と腕を捲って引き受けたのだ。

 ……帳の内側は、じめじめしていた。小さな呪霊がこそこそと集まって、訝しげに視線をぶつけてくる。沙都は慣れた手つきでそれを祓い、核はどこだろうかと足を進める。
 伊地知からの情報だと、元々小さな診療所だったらしい。このカウンターは受付かな。だとしたらこの部屋が診療室だろうか、と、一つ一つ観察しながら歩く。
 レントゲン室。次にベッドのある部屋。暗い部屋を出ると、さっき通ったところに繋がっているはず……。

 そこから、沙都の記憶は飛んだ。

 気づけば真っ暗闇の中倒れていた。頭が痛い。どうやら床に思い切りぶつけたらしい、ゆっくり起き上がり、周囲にみちた嫌な気配に口を手で塞いだ。息を殺し、じっとしていると目が慣れてくる。ここは……廊下だ。長く長く続くそれに、沙都は首を傾げた。こんな造りじゃなかったはずなのに。ー−どうやら、作り変えられているらしい。予想していた任務とだいぶ違うような、と冷や汗をかいていると。
 ずり、ずりと向こうから這いよってくる、異形を見つけた。
 それは目が不自由らしい。太く長い手足を駆使して、ただ這いつくばって、少しずつ前へ進む。……探しているんだ、私を。
 沙都はだんまりを貫き、少しずつ壁に向かって移動し、ぺたりと背中をつけた。やり過ごそうと身を小さくする。が、失敗だった。じわじわと、こちらに近付いてくる手に、足に、心臓がぎゅっと悲鳴をあげる。気持ちが駄目になってくる、頭がくらくらする。
 立ち眩みの原因が今になってわかった。全員必死になって口を押さえるものだから、軽い酸欠状態だったんだ。今更気付いたところで、なんの役にも立たないなと小さく溜息をつく。目が悪い代わりに耳はすこぶる良いらしい。呪霊は何かぶつぶつ言いながら、沙都に向かって、爛れた手を足を、そうっと伸ばすのだった。
 このままじゃ詰みだ。虎杖くらい強ければ、真正面からパンチしただろう。私も! と、攻撃をしかけるために呪具に手をかけようとする。
「(……無い。)」片手で身をまさぐり、あれ、あれ。絶望する。無い!! 何処で落としたのか、奪われたのか、壊されたのか。どうしよう。速攻一番とわかっているけれど、これでは何もできない。
 仕方ないから、もう一度両手で口をぐっと抑え、息を潜める。こうしていれば何とかやり過ごせるはず。やり過ごしたら、コイツが向こうに行ったら、呪具を探そう。呪具が無かったら、状況を整えて、術式一本で対抗しよう。ここで騒いだところで、相手と自分の相性は最悪だ。何とかなる、どうにかなる、……。
 どうしてこんなにも弱いのか、馬鹿だったのか。強い友達と一緒にいて、ちょっと強くなった気がしていた。思い上がっていたんだ。
 じわりと浮かぶ涙を流すまいと、きっと目の前の呪霊を睨む。継ぎ接ぎの手足が、ぶるん、と震えながら沙都の爪先を掠った。これ、もうだめかも。


「……ここか」
「っ。うあっ」


 一瞬だった。首根っこを掴まれて、そのまま思い切り引っ張られる。目の前にあった長い手足から、ぐっと距離が離れた。背後の何者かは、沙都を無理やり立ち上がらせる。それから大きな手で沙都の小さな口を覆い、すぐ近くにあったらしい部屋に入ると扉を閉めた。


「……っ、ひ、ひいっ。むぐっ」
「煩い」

 口を抑えていたのは、脹相だった。時々任務やら何やらで一緒に行動する、虎杖の兄だと自称する、特級呪物の受肉体だ。
 どうしてここに脹相が。何故。何が目的で? というか、力が強すぎる! 呪霊から離れてほっと胸を撫で下ろす間もなく、新たな恐怖に脅える。体術でなんとかして離れようと暴れ始める沙都の耳に、脹相は、落ち着け、と、低い声を流し込むのだった。


「苦しいか」
「っ……んん」
「そうか。なら」


 扉を強く叩く音が響いた。声を出そうにも出せない状況だと理解したものの、脹相の分厚く大きな手で思い切り口を塞がれると、鼻孔まで被さって、窒息してしまいそうだった。ぎぶぎぶ、と腕を強く叩けば、一瞬掌が退いて、そのまま、ぼんやりと開いた口にずるりと指が突っ込まれる。沙都は驚き、何事かと目をちかちかさせて、反射で、がり、と強く脹相の指を噛んでしまって。
 そして、今に至るのだった。

 脹相の指は骨ばっていて、厚かった。口腔にするりと忍び込んで、動かない。舌の置き場に悩んで、ほんの少し動かすと、煩わしいとばかりに人差し指で舌を圧された。これはこれで苦しい。脳がずんと重くなり、体の力が抜けていく。下手したら吐いちゃいそう。どういうことなんだろう。


「ゆっくりでいい」
「ん…」
「オマエが落ち着いたらアレを始末する。いい加減鼻で息をしろ」


 はあはあと煩いから居場所がばれるんだ、と脹相は続けた。呼吸音が大きかったらしい。動揺していたのが、あっちにも伝わっていたんだ。自分の不甲斐なさにすっかり恥ずかしくなって、沙都は俯いて脹相の指を咥えていた。息と一緒に、指を小さく吸う。背中は温かかった。一応、人間の体だからだろうか。くっついてると温かいだなんて、知らなかった。


「悠仁に頼まれて、加勢に来たら」
「ん」
「丸腰でぶっ倒れるなんて、悠仁が心配するだろう。反省しろ」
「んん……」


 返す言葉もない。調子に乗っていたと思い知らされる。ごめんねありがとう虎杖くん。ぐっと力を入れてしまい、また指に歯を立ててしまったが、脹相は何も言わなかった。


「落ち着いてきたか」
「……」
「頑張った」


 ずるり、と指を引き抜いて、脹相は沙都の頭を撫でた。撫でたのではなく、唾液を頭で拭ったのだと気づき眉を顰めるまで、数秒かかった。


「待っていろ」


 脹相は立ち上がり扉へと手をかける。包み込むような温かさがなくなり、沙都もこうしちゃいられないと身を起こした。すると、さっき撫でられた(ように感じた)頭を、ぱしっと叩かれた。足手纏いだと言いたいらしい。悔しさに顔をくしゃっとして、脹相の目をじっと見詰める。沙都は真剣だったのだが、脹相はそれが面白かったらしい。ふん、と鼻を鳴らしてから、意気込むでもなく、あっさり扉を開けた。扉の向こうで地を這っていた呪霊は、あっという間に弾けて、沙都の頬に脹相の血が跳ねたので。折角落ち着きを取り戻した沙都は、毒だ! と、また息を荒げることになった。




「ありがとう。助かりました」
「鍛錬に励むんだな。俺の弟を見習え」
「うう、はい。そうします」


 すっかり元の長さに戻った廊下を、脹相はさっさと歩いた。沙都もとっとこ後をついていく。廃墟は、人を拒むような湿り気に満ちた様子から、音も色も無い、なんでもない場所になっていた。


「悠仁のついでに見てやろう」
「本当に? それはすごくいい勉強になりそう」
「悠仁が喜ぶだろう」
「うん、多分」


 にしても、呪具があればもう少し何とかなったんだけど。
 ぶつぶつ言うと、脹相は、ああ、と思い出したように服に手を突っ込んだ。そのままほら、と振ってみせる。沙都の呪具だった。


「あっ。どこに!?」
「廊下に落ちていた。立ち眩んでそのまま離したんだろう
。オマエは基本がなってない」
「それ私のって脹相知ってたでしょ! なんですぐ渡してくれないの」


 それがあれば、少しは太刀打ちできたのに、と零せば「少しはな」とばっさり切り捨てられた。それから立ち止まって振り返り、数秒の沈黙の後、脹相は言った。

「怪我をさせたくなかった」
「え。……え、あ。そうなの」
「……悠仁が悲しむからな」
「あ、ああ。そっか。そうね。虎杖くんがね」

 
 廃墟から出ると、帳が上がった。伊地知が心底ほっとした様子で手をあげる。全然活躍できなかった、きちんと謝らないと。頭をぺこりと下げて、駆け寄ろうとすれば、脹相は無言で呪具を差し出す。
 その指に綺麗な歯型がついているのを見て、なんだかなあと、沙都は頭をかいた。




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