「ふざけんなこのっ」
舐めている。私のこと、舐めきっている! 虎杖くんの顔をした、禍々しい呪い。両面宿儺は、愉悦に浸ってけひけひと笑い続けていた。私と言えば、ベッドの上に転がされ、腹に跨られ、時々かかる唾に顔をさっと青ざめるしかない。直ぐにひっくり返そうと動いたものの、首に手をかけられては降参だった。締められる、と恐怖して抵抗するのを辞めてみたが、何もされない。ならばせめてと、赤子にされたかのように両手両足をじたばたさせるしかなかった。
「……殺す!」 「お前が? 俺を? 笑わせる」 「しねっ、このっ」 「ほらもっと。本気を出せ。殺すんだろう? 全力を尽くしてくれ、なあ、沙都」
先程から手足は自由にされたままだ。宿儺の身体から離れようと藻掻き、叩き、殴り、蹴り……を繰り返すが。呪いの王はびくともしない。呪力を込めようにも、先日の任務で使い果たして療養中、空っぽな状態だ。ぽんこつな体ではどうにも上手くいかなかった。
「弱い犬ほどという奴だ」 「ぐぬうううう」 「くく、ほら鳴け。壁の向こうに聞こえれば助けが来るかもな。媚びるんだな小娘」 「むきーーー!」 「愛い奴め」
そもそも、こんな時間に扉を開けたのが運の尽きだった。幾ら虎杖くんでも、深夜、突然女の部屋を訪ねることはないだろう。何の躊躇いもなく招き入れた私が情けない。でも疑いようがないのだ。だって、虎杖悠仁なんだから。虎杖くんは、優しい、いい人だから。
するり、ともう片方の腕が脇腹を擽った。ひ、と思わず息を呑み、手足の動きを止める。宿儺はいつの間にか静かに穏やかな笑みを向けていた。虎杖くんの笑顔とは似ても似つかない下劣な笑みだ。吐き気がする。
「な、にを。するの」 「うん……もう少し物を食った方がいい。肉付きが悪い女は美味くない」 「余計なお世話、っ」 「嘆かわしい。俺が直々に体をみてやっているというのに」 「や、めて!」
脇腹から上へと指がのびて、息を詰めた。何をする気だこの邪悪は。恐ろしさに固まっていると、つうう、と下へ、下へ。下肢に手を滑らされる。乏しい知識ながら、何となく理解してしまう。いよいよ限界だ。火事場の馬鹿力とは、このことだろう。いや、と、大きな声をだし、右手を振り被って、そして。 ぱん。 クリーンヒットだった。宿儺の顔が左へ飛ぶ。 大した痛みでもないだろうけれど、足掻くという行為が大切なのだ。どこまでも靡かない。屈しない。呪いを拒もうとする気持ちだけで、手を上げたのだが。 数秒間の沈黙に、冷や汗がどばっと出るのを感じた。 やってしまった。 昂っていた身体が急速に冷えていく。今この状況で生きているのは、奴の気分がたまたま良かったからだ。気を損ねたら、そこで終いだ。魂を刈られる。ああどうしてこんなことに。虎杖くんは、今どうしているの。どうして、宿儺に。どうして私は。
「飼い犬に」 「……はぁ、」 「噛まれた気分だ」 「は、っ、あぁ、」 「つれないなあ」
見知った友達の真顔が、こんなに冷たく、怖いだなんて知らなかった。歯を食い縛って終わりを待つ。どんな仕打ちが来るのかなんて、もうどうでもよかった。 ……そういえば、野薔薇ちゃんがこないだのお礼にくれたケーキが。冷蔵庫に。 おでんパーティをしようよって、皆と。 ああ。きっと走馬灯だ。 真希さんと呪具を見て。 パンダくんと日向ぼっこして。 伏黒くんの玉犬、また遊びたいな。 虎杖くんのこと、好きだった。 宿儺に抱かれる。
宿儺に抱かれる?
「うう、え」
いつの間にか、部屋には一人だった。突然の吐き気に、ふらふらした足取りでトイレへ駆け込む。酷い悪寒がした。ああ、熱があるんだ。立ちくらみをやり過ごしてから、解熱剤を口に入れ水をがぶがぶ飲んだ。世界が回るような感覚。一体何があったというのだろう。あの時間は、……夢か現か、まったく判別がつかない。
起きると、体は軽く、いつもと変わりなかった。支度をして、部屋を出て。教室へ向かう。今日は遅刻ぎりぎりだ。教室からは、同期の元気な声が聞こえてくる。
「笑い事じゃねーんだって。俺の知らない間にってことはよ? つまり」 「それにしたってその面、びっくりするぐらい男前よアンタ」 「一体だれに……。ああ、佐藤」 「お、佐藤。どう? 元気出た? 任務お疲れ」
虎杖くんの顔に、もみじの赤がくっきりとついていたから、結局その日は一日中気分が悪かった。
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