満ち潮に乗って助けてあげる
「…あっ、あの…」
しばらく歩いたところで、蚊の鳴くような声で紫苑が言った。 彼にはネズミの歩みが速すぎるのか、少し息を切らしている。 ネズミは足をゆるめ、紫苑の方へ顔を向ける。
「うん?なに?」 「た、助けてくれて、ありがとう。ええと、きみの…名前は、イヴっていうの?」 「ネズミ」 「え?」 「ふふっ、それが、おれの名前」
満ち潮に乗って助けてあげる
「ネズ…ミ」 「そう」
ネズミは、繋いでいた手をぱっと離し、紫苑の透明な髪に触れる。
「綺麗な色だな、この髪。ネオンの色が反射してきらきら光ってる」 「そっ…そうかな。いつもは帽子を被ってるんだけど、今日は忘れちゃって…」 「ふぅん、ところでどうして今日は賭博場に迷いこんだんだ?あんたみたいなお坊っちゃんが」 「お坊っちゃんじゃない、うちは中流家庭だよ」
はははっ、と突然、ネズミは声をあげて笑い出す。 びっくりして紫苑はまた、顔を赤らめる。
「な…なんだよ」 「いや、悪い悪い。まさか、真面目に応酬されるとは思ってなくて。うん、それで?こんな遅い時間に、迷える子羊さんは何をしていたのかな?」 「…今日、誕生日パーティーがあって…」 「誰の誕生日?お友だちの?」 「いや、ぼくの」
ひゅーっと、ネズミは鮮やかに口笛を吹く。
「そっか、ハッピーバースデー、紫苑」 「あ、ありがとう」
生真面目に答える紫苑に、またネズミはくくっと笑う。
「そんで、帰りに繁華街で道に迷って、間違ってカジノに入ったらさっきの奴らに捕まった…ってとこ?」 「…うん」
恥じ入るように俯く紫苑が可笑しい。 またネズミは笑いながら、ちらっと腕時計を見る。 それはさりげない腕時計だったが、かなり値の張るものであることが紫苑にも分かった。
「おや、もうこんな時間だ、紫苑。終電逃したな」 「えっ」 「あんた、家は?」 「無理だ、歩いて帰れる距離じゃない」 「じゃっ、泊まってくか?」 「え、きみの家、ここから近いの?…あ、でも、そこまでお世話になるわけには…」 「まさか。ここは繁華街だぜ、ホテルがいくらでもあるだろ」 「あ、そうなの?」
ネズミに再び手を引かれ、目の痛くなるようなネオンサインの輝く街を歩く。 ネズミの足どりは慣れたもので、彼がこのあたりに詳しいことがうかがえた。
「ほら着いた。多分ここが一番安いと思うけど」
紫苑はそのホテルを見上げて絶句する。
「紫苑?」 「ネ…ネズミ」 「うん?」 「これ…ラブホじゃ…」 「そうだけど、何か問題でも?」 「…いや、あの」 「今日は仕方ないだろう。それとも野宿するか?」
漠然とビジネスホテルを想定していたらしい紫苑は、まだ硬直している。 やれやれと、ネズミは肩をすくめると、ごく自然に紫苑の肩を抱いてホテルのエントランスに入る。 呆然としている紫苑は、ネズミの手を払いのけることも忘れ、大人しくついてきた。
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