盗人は優雅に手を絡め、
「そこまでだ、怪盗イヴ!」
バンッと、扉がバネ仕掛けのように勢いよく開き、制服警官がひとり、拳銃を構えて飛び込んでくる。 ネズミはその時、ちょうど目当ての宝石を布に包んでイヌカシの犬にくわえさせたところだった。実は今回のミッションの要はこの犬、厳しい包囲網を誰にも気付かれずに潜り抜けて宝石を組織に届けなければならない。 行きはよいよい帰りは辛い、現行犯で盗人を捕らえようと画策する警察の作戦により、侵入よりも脱出の方が数段難しい。 そこで「怪盗イヴ」には、囮となって派手に動き回り警察の目を犬に向けさせないという役目が与えられていた。
「きみは既に包囲されている!大人しく両手をあげなさい!」
犬は宝石を口に隠し、音もなく暗がりへ走り去る。 それを見届け、ネズミは緩慢な動作で後ろを振り返った。
「やっぱり、あんたか」
そこに白髪の若い警官を認め、ふふっとネズミは嬉しそうに忍び笑いを洩らした。
盗人は優雅に手を絡め、
イヴは微笑みさえ浮かべ、舞踊の仕草のように両手をゆっくり肩まで持ち上げる。
「動くな!そのまま両手を上げていなさい!」
紫苑は緊張と興奮に手が小刻みに震えるのを自覚しながらも、訓練通りに拳銃を構える。
「観念しなさい、きみは包囲されている!」
怪盗イヴは、人を傷付けることこそないものの、器物破損の常習犯、いつも奇術を駆使して逃げおおせるため、危険度の高い人物とされていた。実際、紫苑は今まで何度もイヴと遭遇しながら、すんでのところで取り逃がしている。盗人というものは、現行犯で捕らえるのでなければ起訴は難しい。今度こそ逃がしてなるものか、と紫苑は意気込んでいた。
そんな紫苑の心情を知ってか知らずか、イヴはまじろぎもせず銃口をひたと見据えたまま、詠うように言う。
「ひらりひらり、夜空を舞う白い蝶々、不粋な檻に閉じ込めようとは、さてもさても面妖な。蝶は自由なくば生きられぬものぞ」
え?
紫苑は面食らう。怪盗イヴの声を聞いたのは、これが初めてだった。
しまった、録音機を回しておくんだった。イヴの声紋がとれる、千載一遇の機会だったのに。
紫苑の動揺と注意が逸れた瞬間、ひらり、とイヴの白い手が蝶のように優雅に閃いた。 はっ、とその動きに目を奪われ、引き金を引くことを失念する。 そんな隙を、イヴが逃すはずがない。 一気に間合いを詰められ、気が付いた時にはもう、銃は紫苑の右手にはなかった。かわりに、イヴの左手が絡んでくる。
「ねぇ、刑事さん。包囲されている、だって?嘘つきだね、あんたも。人の気配がないよ、ここにはあんたしか来れなかったんだろう?それに、」
イヴはくるりと手のなかで銃を回し、カチリとセーフティーバーを解除する。
「撃つ気もないくせに、構えるもんじゃないよ」
ふふふ、とイヴは紫苑の耳元で密やかに笑い、その首筋に銃口を押し当てる。 ひやりと冷たい銃口に、紫苑は戦慄し、ごくりと唾を呑み込む。
「…ぼくを、殺すつもりかい」 「ははっ」
イヴは喉をふるわせて短く笑った。紫苑の手に絡ませた指を解き、紅い蛇行跡の浮く首筋を優しく撫でる。 イヴに手を解放されても、紫苑は両手とも痺れたように動かすことができなかった。ただ棒立ちで、妖しく光る灰色の目に射すくめられていた。
「おれが、こわい?」 「怪盗イヴは、義賊気取りだと聞いた。人は殺さないはずだ」 「へぇ?もし、そんなの嘘っぱちだとしたら?」 「…今ここでぼくを殺せば、それは強盗殺人になる。そしたら、きみの刑は、無期懲役か死刑か、その二択しかなくなる」 「おれを心配してくれてんの?それとも、脅してんの」
鼻と鼻がくっつくくらいの距離で、イヴは嘲弄の笑みを濃くする。 イヴの顔は月明かりの逆光になっていたが、長い睫毛一本一本が頬に落とす影まではっきり見てとれた。 間近に迫る美貌と不思議な瞳に魅入られ、もはや紫苑はぴくりとも動けなくなっていた。
「…きみを脅す?この状況で?まさか」 「ふふっ」
楽しそうにイヴは笑い、カチリとまた元通りに銃の安全装置をかけなおした。そしてそれを、紫苑のポーチに戻す。
「…もうちょっとあんたと話していたかったけど、おれ、あまりぐずぐずもしてらんないんだよね」
するりと、イヴの手が離れていく。 はっ、と紫苑の自失が破られた時にはすでに、イヴは数メートルも離れた窓辺にいた。
「じゃっ、またね、刑事さん」
ばさりとカーテンがはためき、ぶわっと積年の埃が舞い上がる。
「うっ、ごほっ、」
灰塵をもろに被った紫苑は咳き込みながらも、窓へ駆け寄る。 しょぼしょぼする目を必死に開けて見回すが、そこにはもうイヴの姿はなかった。
その頃、イヴは二棟先の屋根の上に立っていた。 窓から顔を出してきょろきょろとイヴを探す紫苑の姿を眺め、くすりと楽しげに笑った。
もうじき、警官が夜闇に映える白装束のイヴを発見するだろう。 さあ、追いかけっこの終盤戦だ。
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