たゆたう時間の中で
9月7日水曜日。朝から蒸し暑く、空は晴れ上がっていた。三年前のあの日とは正反対の空模様。南の海の上では台風が発生したようだったが、まだNo.6に上陸するには数日かかるだろう。あの日以来、紫苑は嵐を心待ちにするようになっていた。あの日、ネズミに出会ってから。
たゆたう時間の中で
ヘルメットで蒸された頭皮から滝のように汗が吹き出し、額を流れ落ちて首元のタオルに染み込み、目元の汗はゴーグルの底に溜まる。全身の汗を吸収した作業着は、ずっしりと重い。 炎天のもと、紫苑は重装備で勤務先の公園の除虫作業をしていた。公園のサクラの木に大量に毛虫が発生してしまい、住民から苦情が出たのだ。該当区域は現在立ち入り禁止、紫苑と山勢、3体のロボット総出で害虫駆除にあたるよう、市から指示が通達された。 とはいえ、背の高いサクラの木の除虫は、イッポやニホ、サンポには不可能だ。そして、管理室を無人にするわけにはいかない。必然的に、紫苑と山勢が交替で作業をすることになった。
ひと枝ずつ、スプレーをかけ、毛虫を地面へ落としていく。丹念に地道に、しかし他の木の益虫まで殺してしまわないように。日が沈んで手元が見えなくなるまで、時計さえ見ること無く、ひたすら同じ動作を繰り返す。 そうしていると、意識がひとりでに浮遊し、時を遡っていく。時間の巻き戻し先は、いつも決まって2013年9月7日。嵐の激しさと、ネズミという鮮烈な少年。灰色の瞳。
ネズミ。きみはいま、どこにいるのだろう。 この晩夏の太陽を、きみも肌で感じているだろうか。 きみはいま、どんな姿なのだろう。 3年前の嵐の日から、きみを忘れた日はない。それでも、1年ごとこの節目の日には、きみの1年分の成長を想像して、脳裏に組み立てるきみの姿かたちを書き換えている。 あれから3年。12歳から15歳になった。男子が最も成長する時期だ。ぼくも、背丈が伸びた。頬の丸みがややとれて、顔立ちが変わった。日にも焼けた。 きみはどうだろう。あの時のようにやせ細っていないことを願う。ちゃんと食べているかい。もしかして、ぼくよりも背が高くなっていたりして。 久しぶりに会えたとして、成長したきみのことを、ぼくはちゃんと見分けられるだろうか。きみのことが分かるだろうか。 もう、今年は成長したきみの姿をうまく想像できない。なんどきみを思い浮かべても、あの嵐の日に肩を負傷して震えていた小柄な少年の映像に立ち返ってしまう。
チチッ。
小ネズミの鳴き声が聞こえた。 空耳かな。ネズミのことを、考えすぎたから…… それでも期待を捨てきれず、額の汗をぬぐい、ゴーグルを外す。樹上から首をひねって、ぐるりと公園を見渡す。
なにを期待しているんだ。ここはいま、害虫駆除のため、立ち入り禁止になっているじゃないか。
人影を探すのを諦めて首を振り、もう一度作業に戻ろうとする。
チチッ、チチチッ。
また聞こえた。疲れているのかもしれない。日もずいぶん西に傾いた。引き揚げ時だ。
紫苑は脚立を下り、地面にそこかしこに落ちた毛虫を箒で履き、ポリ袋に集める。
チチチッ。
はっと動きを止める。これで三度目だ。空耳なんかじゃない。 あちらこちらを注意深く見渡すと、草むらの陰に、灰色の小ネズミがいた。灰色の。
ああ、と紫苑は思う。 灰色の瞳。きみの灰色の瞳だけは、決して忘れはしない。きみの姿かたち、容貌がどれほど変わろうとも、嵐色の瞳は変わることなく、燦然と輝いていることだろう。だから、分かる。いつどこで、突然きみと邂逅したとしても、きみだと、ネズミだと、ぼくには分かる。
「ネズミ……会いたいなぁ」
ぽろりと、言葉が舌から転がり落ちていた。 会いたい。また、会いたい。そう思い続けて1096日目。
灰色の小ネズミは、こちらから一定の距離を保ったまま、またチチッ、と鳴いた。 ネズミを想って、紫苑は我知らず顔をほころばせていた。
「おーい、紫苑、そろそろ定時だ。上がっていいぞ」 「はーい、今、戻ります」
山勢が管理室から外に出て、呼びかけてきた。手招きをしている。 急いで清掃道具を片付ける。
「紫苑、沙布が来ているぞ」 「えっ」 「おれがお茶でも出しておくから、はやくシャワー浴びてこい。それから、」
足早に管理室へ向かう紫苑に、山勢はにっと笑いかける。
「今日、誕生日だったよな。おめでとう」 「えっ」
不意打ちに驚く。すると、間発入れずに憤慨した声が、山勢の後ろから飛び込んでくる。
「あっ、山勢さんったら、わたしが言おうと思っていたのに」
沙布はショートカットの髪を揺らし、頬を膨らます。ははは、悪い悪い、と山勢は沙布を軽くいなす。 顎をつん、と上げることで気を取り直した沙布は、にっこりと笑顔を紫苑に向ける。
「紫苑、お誕生日おめでとう。ご飯でも食べに行きましょ」
ああ、ぼくのまわりには幸せがあふれている。
「ありがとう、沙布、山勢さん」
ここに、ネズミがいてくれたら、本当に幸せなのだけど。会いたい。会いたいよ、ネズミ。 でも、まだ、耐えられる。きみを思い出して、暖かい気持ちになれるから。
再会の日まで、あと365日
振り返ると、灰色の小ネズミはいなかった。
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