さあ、喜劇が始まる


ネズミは猫のような敏捷さでベランダに飛びうつり、すばやく部屋に侵入する。それと同時に、さほど大きい音量ではないが、充分耳障りに鳴り響いていた電子音も消える。部屋の中が急に静まり返った。

くすっ。

あまりの幸運に、思わず笑みが唇から転がり出る。
少年はその笑い声でようやくネズミに気付き、小さな悲鳴をあげた。
すぐに力一杯叫べばいいのに、もしくはすぐさま警報を鳴らせばいいのに、少年はそんな常識的な行動は取らず、まじまじととネズミを見つめるだけだった。今にも倒れそうなほど疲労困憊しているネズミにとっては、この上なくありがたい反応だった。
すると少年は何を思ったか、ネズミに向かって手を伸ばしてきた。ネズミの反射的な防衛本能が働く。その手をかわし、人間の一番の弱点…少年の首をとらえる。そのまま壁に押し付ける。

「動くな」

ネズミは神だと思った少年を、かすれた声で脅していた。いや、それは脅しではなく懇願だったのかもしれない。ネズミの頭は疲弊の度を超し、心の感情と脳みその思考と体の動作の連携が上手く出来なかった。瞬きすら出来ず、無表情で少年の首をつかみ、その体の動きを牽制する。

「なるほどね」

驚いたことに、少年は首を絞められながら、ネズミに話しかけてきた。

「こういうこと、慣れているんだ」

慣れる!確かに、そうだ。洞窟で暮らした数年間は体術や刃物や他のあらゆる武器のの扱い方、戦い方を習った…復讐と、護身のために。今、その甲斐むなしく瀕死の目に遭っているが、それだって初めてのことじゃない、ネズミの記憶が正しければ、今までにも二回は死にかけたはずだ…

くるくるからからとハムスターのまわす滑車のように、ネズミの思考は軌道を外れて空回りしていく。だめだ、本当にこれが限界かもしれない。

「手当てしてやるよ」

少年が、そう言った。

テアテ、シテヤルヨ。

その八つのシラバスから成る日本語を、ネズミの脳はセンテンスとして認識出来なかった。意味を成さない、ただの音として耳を介して頭を素通りしていった。

反応を示さないネズミに気付いたのか気付いていないのか、少年はその文をもう一度繰り返した。

「手当てをする。血を止めなくちゃいけない。て・あ・て、わかるだろう?」

手当て?何のことだ?おれの、肩の傷のことか?

少年が強調した単語だけを、ようやく理解したネズミは混乱し、少年の首にかけた手の力が、ほんのわずかにゆるむ。
その時だった。

「紫苑」

すぐそばの壁に取り付けられたインターホンから、女性の声が流れてきた。
たぶんこの少年の母親だろう。万事休す……

「窓、開けてるでしょ」

紫苑という名らしい少年は、指の力がゆるんだネズミの手を払いのけることもせず、ただ息を吸った。

「窓?……あっ、うん、開けてる」
「だめよ、風邪ひくわよ」
「わかった」

なんということもない、ただの親子の会話だった。どうやらネズミのことをこの場で訴える気はないらしい。…まぁ、喉元を押さえられている状態だし、頭の良い坊っちゃんのことだから、下手に侵入者を刺激しない方が得策と考えているのかもしれない…

ネズミの思考がまた意味なく逸れて行きだした時、この場にそぐわぬ愉快そうな笑い声が、インターホンから聞こえてきた。

「今日で十二歳になるのにね。ほんと子どもなんだから」
「わかったって……あっ、母さん」
「何?」
「レポートあるから、しばらく声をかけないで」
「レポート?特別コースの入学が決まったばかりなのに?」
「え?……まあね、いろいろと課題があって……」
「そう……無理しないのよ。夕食にはおりてきなさい」

インターホンの通話が切れる。もう、正真正銘の限界が来ていた。ネズミは紫苑を解放し、少し距離をとろうと数歩後ろに下がったが、そこで膝がくだけた。その結果、崩れるように座り込む形となり、ちょうど背中にあったベッドにもたれかかった。深く長く息を吐く。インターホンが鳴ってから、無意識のうちに呼吸を止めていたらしかった。

紫苑は何かの管理システムを作動させる。窓が自動的に閉まり空調が作動し、適度に乾いた心地良い風が部屋を巡回し始める。紫苑は部屋の棚を開け、救急セットを持ってきた。






神にも等しいその少年は、注射器片手ににっこり笑った




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