君がいるからもう怖くない 綺羅のショーは素晴らしかった。 メインイベントだったはずの空中ブランコも椅子芸も、よく覚えていない。 ショーがお開きになるとすぐさま、少年は大テントを飛び出した。 息を弾ませ、前回訪れたトレーラーハウスへ向かう。 「やっぱり、来たな」 少年を待ち受けるかのようにトレーラーハウスの正面に仁王立ちした綺羅が、にやりと笑って言った。もうすでにさっぱりした服に着替えている。 「…綺羅。すごかった、感動した」 「あたりまえだろう」 「うん」 「で、それだけを言いに来たわけ?」 「えっと…、うん」 ふん、と綺羅は笑い、手招きをした。 「まあ、せっかくだからお茶、ごちそうするよ」 「あ、今日は茶菓子持ってきた」 「なんだ、用意いいじゃないか」 からからと笑う。その笑い声は空に吸い込まれて散っていった。 なんとなく、少年もつられて笑う。 椅子に座って落ち着くと、綺羅はつんと柑橘系の強い香りのするアイスティーを淹れてきた。グラスの中で氷が涼しげな音を鳴らす。 「今日は何?」 「アールグレイ。キーマン茶にベルガモットで香りを付けたやつ。ちなみにこれはトワイニング社の」 「あっ、紅茶クッキーってこの香りだよね」 「うーん、確かにそうだけど、アールグレイの香りはベルガモットの香りなわけだし、紅茶クッキーって厳密にはベルガモットの香りのクッキーだよね」 「あ、そうなんだ。ベルガモットって?」 「柑橘類。ダイダイとマンダリンオレンジの交雑種だって」 「それ、食べられる?」 「いや、無理」 「残念だなあ。あっ」 「うん?」 「お菓子持ってきたんだった。お皿、ある?大きめの」 「ある。ちょっと待ってろ」 綺羅が席を立ったあと、少年はおそるおそるグラスの紅茶を飲んでみる。つん、と慣れない香りが鼻をついたが、美味しかった。 「はい、これ。一番大きかったやつ」 「うん、ありがと」 持参したおよそ10cmの深さのある円柱の型に入った菓子を皿にのせる。ふわっとリボンも架ける。 少年が得意気に笑って見せると、綺羅は絶句していた。 「…おい。これが、茶菓子?」 「うん。母さんが作ってくれた」 「でもこれ…立派なケーキじゃないか!」 「シャルロットっていうお菓子だよ。これはシャルロット・オ・フランボワーズ、ラズベリーのシャルロット。友達が今日サーカスでデビューだって言ったら張り切って作ってくれたんだ。お祝いだって。一応保冷剤入れてきたんだけど、もうあんまり冷たくないかな」 綺羅はまだぽかんとしていた。 少年は、母親から聞かされてきた話をそのまま少女に話す。 「シャルロットは、女の人の帽子に見立てたお菓子なんだって。ほら、お皿が帽子のつば、お菓子は頭のとこに見えるでしょ」 そのお菓子は、円柱の型の内側にスポンジケーキを貼り付け、その中にラズベリーのジャムや生クリーム、ババロアなどわ詰めたものだった。 「すごい。おいしそう。おまえの母さん天才だな。いただきます!」 綺羅はぱっと笑顔になると、威勢よく菓子にぱくつき、ぺろりと平らげてしまった。今度は少年が驚く番だった。 「すごい。君の胃袋は無限大?」 「もちろん。体力が勝負だから」 「母さんに伝えとく。きっとすごく喜ぶ」 「ありがとうございました、こんな美味しいもの初めて食べました、ごちそうさまでした。こう伝えてくれる?」 「了解」 綺羅はふふっと笑う。 アールグレイを一口すすって、少年も笑った。 「公演が終わったら、また他の街へ行くの?」 「うん。この夏休みが終わる頃、移動する」 そっか、と言って少年は少し黙った。 寂しかった。 けれど、綺羅が突然学校に来なくなった時のような喪失感はなかった。 綺羅はこの街を去っていく。 その事実はすとんと少年の心に落ち着いた。 「でも」 綺羅が口を開く。 「うん?」 「でも、また、来るよ」 「え?」 「なんだか、不思議な縁がある気がするんだ。この街には近いうちに舞い戻ってくる気がする。ただの勘だけど、わたしの勘は、当たるんだ」 「そっか」 「おい、信じてないだろ」 「え、そんなことないよ」 綺羅の話は何の根拠もなかったけど、それもなんとなく納得できた。 「なぁ、海里」 少女は、初めて少年の名を呼んだ。 「わたし思うんだけど、おまえさ。もっと自分を出した方がいいよ。たぶんだけど、見た感じ、おまえっていつも遠慮ばっかしてるから」 「…うん」 「せっかく、おもしろい奴なんだし」 「え、誰が?」 「おまえだよ」 「そんなこと言われたの初めてだなあ。気味悪いって言われたことはあるけど」 「は、どこが?」 「相手のこと、言い当てちゃうから。占い師ってあだ名、付けられたこともある」 ははははっ、と綺羅は声をあげて笑った。少年は少し憮然とする。 「笑い事じゃないってば」 「はははっ、悪い悪い。似合ってると思って」 「どこが」 「達観してて、超越してて、年のわりに大人びてるとこ。あ、良い意味で。誇りにすればいいのに」 「誇りに?」 うん、と言って綺羅は目を細めた。 「海里だって、言ってくれたじゃんか。好きなことは自由にしたらいいのに、って。あれ、すごく勇気づけられたんだ、ありがとう」 「え?」 「ええと、ほら、わたしが最後に登校した週の体育の授業で。だからそのお返しって言ったらなんだけど、わたしは海里にも元気になってほしくて」 「え…うん、ありがとう。もう大丈夫」 たとえこの街からきみが消えても、この心にきみがいるから。 きみが、魔法の言葉を残してくれたから、もう大丈夫。 「なら…良かった。じゃあ、またな」 綺羅は、最後に最高の笑顔を見せた。 その表情を、今でもはっきり覚えている。 |