アイネクライネナハトムジーク

 電気を消した部屋は薄暗い。疲れた身体で、ベッドに倒れ込む。寝転がったまま携帯を、ぽちぽちと操作した。

 充電器に繋いだそれから流れ出すのは、静かなクラシック。曲名は覚えていない。それはどうだっていいのだ。ようはぐっすりと眠れて、疲れがとれればばそれで充分。

 それでも眠れないのは、たかだか音楽くらいじゃどうにもならないような負荷のストレスが、私にのしかかっているからだろう。こんなに疲れているのに、断続的に目が覚めたりと、質の良い睡眠がとれているとは言えない状況だ。これ以上続くようなら、医者に相談して睡眠導入剤を処方してもらうことも厭わない。

 基本的に私の人生はついてないの連続だけど、ここ最近はその「ついてない」が殊更多い気がする。

 なかなか増えない貯金残高、無理を言ってくる会社の上司、調子の悪い冷蔵庫と洗濯機、仕事を覚える気があるのかないのかわからない新人、「苗字は隙がなさすぎるよな」と言って初デートを途中で切り上げた同僚、今日壊れたお気に入りの財布。

 絵に描いたような不幸の連続である。特に初デートを途中で切り上げられたのは結構キツかった。別にその男と付き合いたくて仕方なかったわけではない。でも、久々に他人に向けられた好意に舞い上がったのは事実だ。でも、ランチを食べている最中に「苗字って隙がないよな」と告げられ、食べ終わっていたそいつはさっさと自分の分の会計だけ済ませて帰って行ってしまった。残された私は半分残っていたふわとろオムライスを前に、呆然とするしかなかった。
 向こうは「隙がない=俺たち付き合わないほうがいいよね」の意で使ったらしく、次の日会社で会っても何のフォローもなかった。ただ「おはよう、苗字さん」とだけ言ってきた。私が後先考えない性格だったら、こいつにボディーブローをかましていたところだ。

 隙がないって何だ。今まで恋愛関係に発展しそうになった男は、みんな私にそう言って離れていった。おかげで未だに手をつなぐより先の経験がない。世間的に言う喪女というやつだ。

 でも隙なんかあったら、敵に後ろからグサリじゃないか。

 そう思うのは、生来の性質なのだろうか。それとも、私が曲りなりにも雄英卒だからだろうか。とはいえ、本当の敵と交戦したことなんか1回もない。何故なら私は、落ちこぼれすぎてヒーロー科から普通科に転科したからだ。雄英卒と履歴書に書くと「何でヒーローやってないの?」と聞かれ、その度にこの情けない経歴を話さなければならなかった。

 ふと思い出して、携帯のスケジュール帳をタップする。そうだ。明日、その雄英の同窓会がある。クラス単位で行う私的なものだ。しかも普通科のクラスではなく、ヒーロー科のクラスの同窓会。落ちこぼれで転科してしまった私にも、声をかけてくれた。それが嬉しかった。明後日は日曜日だから、明日どんなにハメを外しても、会社には響かない。そう考えると、気分が少し楽になった。



 同窓会には意外なことに、かつてのクラスメイトがほとんど集合した。みんな忙しい時間の合間を縫って来たらしい。
 ほぼひとクラス分が集まるとなると、自然といくつかのグループに分かれて会話が進む。私も周囲の女子たちと近況報告をし合う。と言っても彼女たちの大半はヒーローとして活動しているから、何をやっているかは本人の口から聞かなくても大体わかるけど。話が一段落つくと、自然な流れで恋バナに向かうのは女子の性というか、久々に会った人にふれる話題がそれくらいしかないというか。

「で?名前は?」
「みーんな私に『隙がない』って言って離れてく」

 周りの皆は驚いた後、「その男は見る目が無い」とか「気にすることない」などのフォローを入れてくれた。そして、

「でも隙なんか作ったら、敵にやられるじゃんね」

「隙がある=弱み」というのは、私の性質というよりも出身校の影響のほうが色濃いのかもしれない。少し安心した。カンパリ・オレンジを飲みながら、私は他のグループをぐるりと見渡す。

 離れた席にいた相澤を見て、はっとした。来てたんだ。
 それに目ざとく気付いた隣の子が、「相澤狙ってんの?」と笑う。彼氏持ちの余裕が垣間見える。近しい人間だから許せるけど、これが会社の同期程度の関係性だったらその人の株は大暴落する。

「違うよ。だいたい、あいつだって彼女くらいいるでしょ」
「どうだろうね。そういう浮ついた話、聞かないなあ」
「アングラ系だからね。それにメディア嫌いだし」
「いなかったら、どうするの?落としちゃうの?」
「今雄英の教師やってるらしいよ。収入的には有望株じゃん」

 私は目を丸くした。あの相澤が?

「…悪いけど、すごい意外」
「だよね。でも生徒除籍しまくってるらしいよ」
「あーそれ、私山田から聞いたよ!生徒の籍まで消すなよって言ってた」
「それ、上手いこと言ってるつもり?」

 あははと笑いが広がる。よし、いいぞ。そのまま話が逸れればいい。しかしそうは問屋が卸さない。

「で?相澤のどこがいいの?素直に吐きなさいな」

 本当に彼女が友人で良かった。大した間柄でもない人間にここまで追及されたら、「しつこい」と言い放つ自信がある。

「だから違うってば。ただ来るなんて意外だから」
「私も来るとは思ってなかったよ。どうも、山田が引きずってきたみたい」
「なるほどね」
「来るのが意外と言えばさあ」

 やっと話が逸れてくれた。周りは来るのが意外だったクラスメイトの話で盛り上がっている。名前が挙がった彼は、若手としてテレビで引っ張りだこだ。確かに相澤とは違う意味で来るのが意外だった。

 今度はこっそりと、視線だけ相澤を見る。誰も気付かないで。お願い。


 みんなはヒーローとしての活動があるから、二次会はなくお開きになった。駅までぞろぞろと歩いて行く間は、遊園地から帰るときの気分に似ていた。

 1番線のホームに向かうのは、運悪く私だけだった。周りはバスか他のホームに散っている。一人寂しく帰るのね。私は「じゃあね」と手を振って、歩き出す。
 ふわふわした足取りで、私はホームに向かう。足と地面が遠い気がする。そんなに飲んだっけ?まるで数センチ浮いてるみたい。

 友人が、「ちょっと相澤」と声を上げた。

「名前のこと、送ってってよ」

 何言ってんの。お膳立てしてるつもり?さすがにそれはお節介が過ぎるよ。やめてってば。そんな気全然ないし。彼氏・旦那持ちの、そういう気遣い本当に嫌い。大嫌い。こっちはこっちのペースとかいろいろあるんだってば。

 そう言おうとしたのに、相澤が素直に頷いたものだから、驚いて何も言えなくなる。
 彼はぽかんとしたままの私の腕をとると、「行くぞ」とだけ言って、すたすたと1番線のホームのほうへ引きずっていくではないか。振り返ると友人が親指を立てている。その上、口パクで「がんばれ」と言ってきた。「覚えてろよ」と同じく口パクで伝えてやった。

 深夜に近いホームに人の影はまばらだ。私はベンチに腰掛ける。相澤は隣に影法師のように立っていた。何も言わない。いやせめて何か言おうよ。久しぶりだなとか、元気にやってるかとか。そんなキャラじゃないって知ってるけど。

「ねえ、一人で帰れるから」
「そんな状態でか」
「この程度なら電車に乗ってる間に醒めるし」

 なのに相澤は一歩も動こうとしなかった。そんな律儀な奴だったっけ?それともあれですか。夜道は危険だとかそういうこと?ヒーローだから?それとも、一応女扱いしてくれてるということですか?余計なお世話だ。こっちは隙がない女だ。ひったくりも痴漢も標的にしないだろう。

 ちらりと電光掲示板を見る。次の電車が来るまであと2分。

「…今、雄英で教師やってるんだって?」
「まあな。苗字は?」
「んー…普通にOL。上司の無茶と新人の無能と同僚の無遠慮に頭悩ませてる日々」
「そうか」

 それだけか。まあ、仕方ないか。だって私達、結局ただのクラスメイトってだけだった。

 電車が来る。立ち上がった私の腕を、再び相澤がとる。人影もまばらな車内に引っ張って行かれた。だから、そんなに酔ってないってば。

 一番端の席に腰を下ろす。今度は隣に相澤も座った。扉が閉まり、電車が滑り出す。

 何、話せばいいんだろう。さっきまでお酒を片手にぺらぺら回っていた口は、今は何も発せない。
 言う前に自分が全てストップをかけてしまう。浮かんできたどの質問も相澤風に言うなら合理的じゃない。私は背後の壁に頭を預けて目を瞑る。どうせ酔ってると思われてるなら、そのまま寝たふりでもしておこう。

 そのまま電車の揺れに身を預けること、10分程度。ようやく最寄りの駅についた。アナウンスで目を覚ましたふりをして、私は伸びをする。

「私、ここで降りるから」

 じゃあねと言う前に、相澤が立ち上がる。そして電車に乗って来たときと同じように、私の腕をとってホームに降り立った。私たち以外、誰もいない寂れた駅。吹き抜ける風が、顔に当たって心地よい。

 私は改札口に向かって歩き出す。隣で腕をとっている彼は私の家を知らない。本来なら支えられながら帰るべき私が、先導しなければ自宅にはたどり着けない。だから自然と私たちは、ただ腕を組んでいるだけになった。

 見上げれば、雲のない夜空と弓弦のような月。私の荒んだ心でも綺麗だと感じた。「I love you」を「月が綺麗ですね」と夏目漱石が訳したというのは、果たして本当だったのだろうか。ロマンを優先するなら、真実であってほしい。

「私、高校生の頃、相澤のこと好きだったよ」

 夏目漱石と月に触発されて、言わなくてもいいことが口から飛び出した。まあいいか。今の私は、酔っ払いって設定だし。多少変なことを言っても、大目に見てもらえるだろう。

「過去形か」
「え?ああ、うん…どうだろう」

 今も好きなのかどうかなんて、考えたことなかった。誰にも言ったことのない私の初恋は、転科したときに終わったのだ。「終了」のタグをつけて、心の奥底のほうにぐいぐい押しこんで、そのまま忘れていた。

 気付けば自宅前に辿り着いていた。まさかこの安アパートまで誰かに送ってもらえる日が来るとは。腕を解こうとしたけれど、相澤がそれを許してくれなかった。なのでそのまま部屋の扉の前にまで行く。

「あの、コーヒーでも飲んでく?」

 扉を開け、靴を脱ぎながら提案する。それは、送ってもらったことへの感謝の気持ちからだった。終電まではまだ時間がある。コーヒー一杯くらいは、問題ないだろう。一種の礼儀のようなもので、期待はしていなかったし、特別な感情なんて何もない。どうせ相手だって断るだろうと踏んでいた。

 返事の代わりに、相澤は狭い玄関に入ってきた。扉が閉まると、電気をつけていない部屋は暗い。カーテンを閉め切ったままにしているから、街灯の明かりも入ってこない。私は電灯のスイッチを押した。
 誰もいない寂しい部屋。最近断捨離したおかげで物が少なくなり、寂しさを更に強調していた。

「適当に座ってて。テレビでも見ててよ」

 とはいえ我が家にはソファなど気の利いたものはない。狭い部屋なので、ベッドをソファのように使っている。相澤はローテーブルの横、つまり床に腰を下ろした。

 お湯を沸かしている間に、さっとメイクを落とした。どうせ相手は相澤だ。高校の頃にすっぴんなんて見られまくった。そりゃ、今はあの頃よりも劣化してるだろうけど、今更という感じ。

 インスタントの安いコーヒーが湯気を立てる。片方を相澤のほうに差し出したら、
ポケットの中の携帯が震えた。彼がマグカップを受け取ったのを確認してから、見てみれば例の同僚からだった。こんな非常識な時間になんだ。やっとこの前の謝罪かと思って見れば、ただの業務連絡だった。来週本当にボディーブロー決めてやろうか。

「ねえ、隙がない女ってそんなに魅力ない?」

 私は相澤の隣に座り込む。顔を覗き込んでみれば、彼は眉を顰めていた。

「急にどうした」
「この前言われたわけ。苗字は隙がないって。隙がないって何?隙があれば誰かが私を好きでいてくれるの?私は隙がないから誰にも愛されないの?」

 堰を切ったように言葉が溢れてくる。酔っ払いと思われているのは本当に好都合だ。どんな行為もどんな言葉も「酔っぱらっていたから」の一言で済ませられる。

「隙隙隙。隙って何?脇ががら空きの女がそんなにいいわけ?ばっかじゃないの。そういう女なら手軽にどうこうできるとか思ってるわけ?そもそも隙を見せて欲しいなら、せめて3回はデートしてよね。たかだか1回のデートで隙を見せるほど、私は頭の軽い女じゃないの!」

 相澤には悪いけど、少しすっきりした。熱いコーヒーに口をつける。こんなものをこんな時間に飲むと、また眠れなくなるのに。やっちゃった。

「女に隙を求めるなんざ、ロクな男じゃないな」
「うん。ロクなやつじゃない。さっきもこんな時間に業務連絡してくるし」

 あっはっはと笑う私に対して、相澤は全く表情を変えない。うーん、ここ笑うところじゃない?山田なら確実に笑うけど。
 相澤がマグカップを置いた。もう飲み終わったのだろうか。まあ、親切に送ってやった上に愚痴まで聞かされて、お礼が安いインスタントコーヒーだったらさっさと切り上げたくなるか。悪いことした。今更反省する。

「隙は求めるものじゃねえ。作るものだ」

 さすがヒーロー。金言だね。

 そう言おうとしたのに、言えない。口が、塞がれている。
 それは一瞬だった。でも、手をつなぐより先のことをしたことのない私にとっては、永遠にも等しい時間だった。

 マグカップが取り上げられる。それがテーブルに置かれるこん、という音をどこか遠くで聞いた。肩をぐっと押される。

 天井と相澤が見えた。所謂「押し倒された」状態であることに、やっと気付く。私を見下ろす彼が、にやりと笑った。悪い顔。ヒーローであることを疑うレベルだ。

「隙だらけだ。ヒーローだったら死んでる」
「…生憎私はしがないOLなので」

 頭は妙に冷静だった。パニック映画に一人はいる、落ち着いて行動するキャラみたいだ。

「どいてよ」
「断る」
「…ヒーローが好きでもない女押し倒してるって、まずいんじゃない?」
「その理論でいくと、好きな女なら問題ないってことになるな」
「そりゃ、ヒーローだって人間ですから?好きな相手くらいは押し倒すでしょうよ」

 武骨な手が私の頬のラインを、ゆっくりと撫でる。想像したこともないくらい、優しい手つきだった。

「知ってると思うが、俺は合理的にいく性質だ。だから一回しか言わねえ」

 その先の言葉は、さすがに恋愛経験ゼロの私でも想像がついた。とっさに手を伸ばして、口を覆う。

「やめて。そういう慰めが欲しいわけじゃない」

 非力なOLの両手は、あっさりと引っぺがされた。どん、と少々乱暴に床に縫い付けられる。相澤の顔が近い。長い髪が、頬に触れた。

「俺がただ慰めるために、ここまですると思うか?」
「相澤、全然合理的じゃないよ」
「そうだな。でも、十年も言わずに抱えてるほうが非合理的だ」
「…嘘がうまくなったね」
「嘘だと思うか?」

 私は静かに首を振る。相澤がこんな器用な嘘がつけるはずない。

 沈黙が部屋を支配する。次に発言すべきは私だ。相澤と目が合う。今、逸らしたらダメだ。

「…相澤のこと、好きだった」
「今は?」
「どうかな。好きってどんな感じだったか、もう忘れちゃった。でも…嫌だと思わないってことは、やっぱり今でも好きなんだと思う」
「苗字は一途だな」
「その言葉、そっくりそのまま返す」

 合理的を尊んで、時間の無駄を嫌うこの男が、十年も私を想っていたなんて。馬鹿にするつもりはないけれど、笑みが零れる。くすくすと笑う私を、相澤は呆れたような、一言では言えない顔で見下ろしている。

「ねえ、どいてよ。逃げたりしないから」

 相澤がやっとどいた。私が起き上がっている間に、彼は残ったコーヒーを飲み干して立ち上がった。

「帰る?」
「送り狼になるつもりはねえよ。それに、今ならまだ電車があるしな」

 さっきまでの出来事が嘘みたいに、相澤はすたすたと玄関に向かって行く。慌ててその背を追った。

「苗字、携帯の番号変えたか?」
「高校のときから変わってないけど」
「連絡する」

 手早く靴を履き終えた相澤は、ドアノブに手をかけた。

「…またね」
「またな」

 素っ気なく言って、相澤は部屋を出て行った。足音が遠のいて行くのが、薄っぺらい扉越しに聞こえた。

 なんというか、十年越しの想いを遂げた後とは思えないほどあっさりしている。それでもいいか。お互いもう大人だし。それに相手はあの相澤だ。これくらいがちょうどいい。

 身体が次第に重くなってきた。自覚していた以上に疲れていたことに気付く。無理もないか。今日はいろいろあった。お風呂に入りたいところだけど、そんな気力もない。明日の朝シャワーでいいや。

 最後に残った気力を振り絞って寝間着に着替えると、電気を消してベッドに倒れ込む。習慣で手が携帯を鞄から引っ張り出し、ぽちぽちと操作し始める。流れてきたクラシック。ああこの曲名は。