僕が居なくても、もうひとりで眠れるね

パタパタと板張りの廊下を走ってくる音が聞こえる。しっかりと聞いていないと分からないほど小さな足音に小動物を連想した。足音はやがて私の部屋の前で止まり襖越しに声がかけられる。見た目の割に低い声で話す神獣の声に私はすぐに襖を開いてやった。

「蘭丸!」

私の目をしっかり見つめて呼び、尚且つ血相を変えているイナバに私はハッと息を飲む。それからすぐに踵を返して走るイナバの背中を追って私も部屋を飛び出した。小さな足音に加えて大きな足音を追加したせいで城内の家臣達が何事かと皆して振り向くが私は走るのに夢中でそんなことに気を取られていられない。やがて、騒ぎを聞きつけたらしい信長様と廊下で鉢合わせたが私は一言謝罪しただけで信長様の横をすり抜けていった。

「ほらな、言った通りだ」

私の背中に信長様の満足気な声が薄っすらと届くが私は振り向かずただひたすらに前を向いて走る。権力の象徴である城を出て、賑わう城下町を通り、戦の国の外れにある鳥居に辿り着く。そのまま私が迷わず鳥居の先へ飛び込もうとしたが、それはイナバに服を引っ張られることで阻止されてしまった。

「何をするんですか!?」

「まだ行っちゃダメだ!」

「それじゃあまたいつまで待てばいいんでしょうか!?私は、ただ、」

「仮に会ったとしてどうするつもりなんだよ!?向こうは今、」

そこまで言ってからイナバが口を噤む。私はイナバの言わんとしていることを瞬時に理解した。鳥居はまだ何処かへ通じたままになっている。おそらくこの先には私が焦がれた人がいるはずだ。しかし、これ以上先へ進めない私には目の前の光景がただ歯がゆく思えてならなかった。あの日から深い眠りに落ちることができないせいか、また、頭痛がする。何度目になるか分からない痛みを感じながら私は鳥居の先をじっと見つめて立ち尽くしていた。


何の前触れもなく突然空が茜色に染まったあの日、私の隣にいた人物が失踪した。幼い頃から共に過ごし、そして共に織田家に仕えていた人物、つまり失踪したのは私の実の姉である。ある時期に城内の人間を大部分入れ替えた際、私は信長様の小姓として、彼女は女中としてそれぞれ織田家に見初められた。私がなかなか姉離れができないせいなのか、信長様が私に暇をくださる時は必ず彼女と一緒に過ごすことを条件として提示する。私には、これはきっと信長様なりの優しさなのだと感じていた。

「姉上、一緒に城下へ参りましょう」

女中達が忙しなく動き回る部屋の前を通り過ぎると奥の座敷に彼女の姿があった。女中としての傍ら、陰陽術に似た術を使える彼女が祭事にも引っ張りだこのせいか彼女の姿は私に神々しく思わせることが多々あった。私が開けっ放しの襖の間からひょっこり顔を覗かせると彼女がすぐに振り向く。それから手に握っていた女中達の勤務表を文机の上に置き私の所まで来てくれた。

「この間行ったばかりよ」

「だって、信長様がまたお暇をくれたんです。姉上と一緒に息抜きするように」

私が唇を尖らせると彼女は眉を八の字にして困ったように微笑んでしまう。それから華奢な腕を袖の中からちらりと覗かせながら私の頭をやんわりと撫でた。

「信長様ったら、あんまり蘭丸のことを甘やかさないでほしいんだけど」

本人がいないとはいえ主君にこんな口が聞けるのはこの城の人間の中で彼女しかいないだろう。信長様と彼女は旧知の仲だと聞いたことがある。しかも、私が生まれる前からの付き合いだそうで。そのため彼女は信長様に信頼されている。

「私は姉上とご一緒できるのが嬉しいですが、姉上は嫌なんですね」

私があからさまに表情を暗くしてみせると彼女は私からパッと手を離しながら横に手を振る。私も嬉しいと口にしながら微笑むことがお決まりなので彼女が私の誘いを断ることはないと知っていた。彼女は弟である私を好いている。姉として純粋に私をかわいがってくれるのだ。

「それじゃあ、お言葉に甘えてお出かけしちゃおうか」

悪戯っ子みたいに無邪気な笑顔を浮かべてみせる彼女の姿に私も自然と頬が緩む。彼女は近くを通った女中の一人に仕事の引き継ぎを簡単にする。女中は真剣な面持ちで彼女からの指示を聞いてから不意に私を見た。だけどすぐに彼女と視線を戻し穏やかな表情を浮かべながら深々と頭を下げる。

「悪いけど、よろしく頼むね」

女中にへらりと笑ってから彼女は私と一緒に歩き始める。すれ違う家臣や女中が揃って彼女と私に声をかけた。仲が良い姉弟であることは私が暇を貰うたびに彼女と一緒に出かけるので信長様を筆頭に皆公認だ。

「なんだ蘭丸。まだ行ってなかったのか?」

城を出て外に足を踏み出した瞬間信長様に声をかけられた。信長様は気まぐれに行った庭の散策から戻ってきたところらしい。

「これから行って参ります」

「どうせ名前がなかなか仕事をやめようとしなかったんだろう?」

私は肯定の意味で彼女を見る。一方彼女は眉を八の字にしてから信長様に視線を向けた。

「突然のお暇でしたので引き継ぎに手惑いましたの」

「そんなの他の連中にやらせておけばよいものを」

当然だと言わんばかりの信長様は彼女の肩に自然に手を置いて軽く叩く。彼女はころころ笑いながら信長様にされるがままだ。二人が長い付き合いだけあって二人の距離は信長様の周りにいる人間に比べると誰よりも近い。信長様曰く彼女は妹のような存在らしい。だけど、最近は女中達を束ねる立場のせいなのか彼女が口うるさくなったのでまるで姉になったみたいだと信長様はいつも笑いながらそう話してくれていた。だから私の目の前で二人が軽口を叩き合っていても私にはそれが当たり前の光景だったのである。

「姉上」

あまりにも長く話し込んでいるので私は思わず彼女の袖を摘んだ。彼女は私に視線を合わせると小さく声をあげる。それから信長様に向き直り平謝りした。

「私ったら、つい。信長様がお忙しいにもかかわらずお引き止めしてしまい申し訳ないです」

「いや、構わない。先に声をかけたのはこっちだからな。蘭丸、許せ」

彼女に声をかけてから信長様は私にも気遣いをみせた。信長様は本当に優しい方だと思う。私は信長様に頭を下げ、そしてようやく私と彼女は城下へ向かう。ふと、痛みを感じて掌を見つめると赤くなっている。無意識に掌に突き立てていた爪の痕がしばらく消えず残っていた。


青々とした空の下を歩きながら私は彼女の横顔を盗み見る。彼女は城で気を張っている時とは違いまるで子供のように無邪気に瞳を輝かせていた。かわいいと思いながら私は頬を緩める。大人の女性は化粧して艶やかな姿を作るけど私にはどうにもそれが理解できなかった。私がまだ大人になりきれない子供という中途半端な年頃のせいでそう思うのかよく分からない。私にとってどの大人の女性よりも自分の姉が一番魅力的に感じる。立場上あまり派手な化粧をしない彼女はありのままの姿だけで綺麗だった。そういえば、信長様もよく彼女のことを綺麗だと言っている。信長様だけではない、彼女は何処ぞの馬の骨かも分からない男共に目をつけられていた。私が許せないほどに。

「見て、蘭丸。風車が売ってる。綺麗ね」

不意に彼女の手が私の手を引いた。いくつもの色が交わって作る幻想的な景色をもっと見ようと彼女は風車売りに近づく。私は火傷しそうなほど熱を持つ手を何とか動かして彼女の手を握る。極自然に繋がれた手を私はしばらく魅入ってしまった。

「あまり余所見していると危ないですよ」

「平気よ。だって、蘭丸がいるもの」

さらりと返ってくる言葉に他意はない。そんなこと分かっているのに私は嬉しくて顔がにやけてしまう。彼女は私の姉だ。そんなこと、分かっているのに。恋情というものをまだ知らない私は一番近しい人を異性として認識してしまうのだろう。姉弟である私達は顔が全く似ていない。性格も似てるとは言われたことがないので多分似てないのだろう。だから私は姉に他人という錯覚を抱き恋した気になっているに違いない。きっとこれは私が大人になれば薄れていくもの。頭の隅で冷静に分析している自分がいるからこの先大丈夫だろう。必死に圧し殺した感情がとっくに砕け散っていると気がついたのはもう少しだけ先だった。


信長様に暇を貰った日から数日後の朝、私は彼女の布団の中で目を覚ました。なかなか寝付けない時は彼女と一緒に眠る。すると、驚くほどすんなりと私の瞼が重くなるのだ。深夜に突然私が彼女の布団の中へ許可なく潜っても彼女は優しく笑って寝惚け眼のまま私の頭をぽんぽん撫でる。それから彼女はまたすぐに夢の中へ行ってしまうのだ。年齢より若く見える彼女の寝顔を見つめながら気がつけば私も眠っている。そんな心地良い時間が私は好きだった。それでも全てが良いこと尽くしではない。私は夢の中で彼女の身体を抱く妄想を見る。乱暴に抱いても彼女は私の首に腕を回して受け入れてくれるので、私は夢であることをいいことに更に彼女を抱く手に力を込めた。そして、朝起きると夢と現の間に悩まされ、私はおかしいのではないかと感じるのだ。矛盾。確かにそう思う。

「姉上、朝ですよ」

隣で眠っているはずの彼女を探して布団をめくるが彼女はいなかった。もう仕事に向かったのかと思いながら辺りの様子を伺っていると自分の身体に違和感を覚える。妙に身体が怠い、寝巻きがいつもより乱れている、何より敷布団の皺が異常に多いのだ。これは私が彼女を抱いた夢を見た朝に必ずある光景である。つまり、今朝の夢もそれだった。私は重苦しい身体を無理矢理起こして部屋を出る。襖を開いた先で見た景色は恐るべきことだった。

「まだ、明け方なわけがない、はず、」

震える声でそう言ったものの、何処までも茜色に染まる空を見るたびに自信がなくなった。太陽はない。不気味なほど橙色しかない景色のせいか現実味が湧かなかった。その瞬間、目の前に化物が現れる。禍々しい気配と耳障りの鳴き声はこの世のものとは思えなかった。状況が分からないくせに戦の国に住む者の本能なのか私はすぐに刀を手にし化物を斬る。次々に襲ってくる化物を退治し、私はまずは主君の無事を確認するべく城内を走った。ようやく辿り着いた大広間から化物の鳴き声が聞こえてくるので柄を握りしめて室内に飛び込むと寝巻きのまま化物を退治し終える信長様と目が合う。信長様は表情を変えず刀を鞘にしまうとすぐに私に背を向けてしまった。

「蘭丸、着替えてこい。支度でき次第城下の様子を見に行く。まだ残っている人間にも伝えろ」

「信長様!」

信長様は足を止めるが振り向かない。私は一呼吸遅れてから震える声で問いかけた。

「姉上が、いないんです。姉上を、見ませんでしたか?」

「あの化物に襲われると神隠しに遭うようだ。それ以上、何も分からない」

質問の答えか否か分からない返事を信長様は淡々と口にしてから今度こそ大広間を出ていく。私はまずは信長様の指示に従おうと踵を返す。この日から空に太陽が上らず式神が其処彼処に現れる地獄が始まった。そして私は、いなくなった彼女をまるで亡霊でも追うようにずっと探し続けている。彼女がいないせいか深い眠りに誘われることがなくなった。そして、彼女の身体を抱く夢も見ることなければ、朝起きると衣服や布団に乱れもない。今迄は何だったのか、私は答えを見出せないでいた。


月日が経っても彼女の消息は分からないままだった。私が護人として世界を旅するようになっても状況が変わることがない。私はぽっかりと空いた心の穴を埋めるよう目的に精を出すがやはりそう簡単に私の頭の中から彼女が消えてくれなかった。そればかりか、いつか彼女がひょっこり私の前に現れてくれるのではないかと自分に都合の良い妄想を抱いている。

「蘭丸、お姉さんのことだけど」

ある時立ち寄った天の国で、私はイナバが持ってきた分厚い文献に目を落とした。イナバは天の国を束ねる領主の屋敷から見つけてきたらしい。勝手に持ち出したわけではないと太子殿が口添えするので間違いないはずだ。

「おそらく、これのことだと思うが」

長い耳を垂らして泣きそうな顔をしているイナバの隣で太子殿が文献の一部を指でなぞる。私は示された内容を一瞥し、だけどもう一度その内容をよく読んだ。太陽の巫女を異世界から呼び戻すにあたり、その代わりに日ノ許の世界に住む人間を一人異世界へ譲渡するという内容が書かれていた。

「まさか、そんなことって」

それ以上言えず口を噤むと太子殿が眉間に皺を寄せる。重苦しい太子殿の声は私を余計に悲しみへと突き落とした。

「誰でもよかったわけではない。太陽の巫女の代わりだからそれなりに力を持つ者でないとダメだそうだ。蘭丸が護人の一人なら、その血縁者である姉君も何かしらの加護を受けている可能性がある。現に、城の何処を探しても姉君の祝詞はなかったんだろう?」

式神に襲われるとその場に祝詞が落ちている。私自身も祝詞となり、太陽の巫女に助けてもらったことがある。しかし、彼女の場合何処を探しても祝詞はなく、しかも彼女が消えた痕跡すらなかった。世界中探しても見つからないのならば、彼女が太陽の巫女の身代わりとなった可能性も捨てきれない。

「可能性の話だ。まだ決まったわけじゃないからな。もう少し、お姉さんについて調べてみようぜ」

イナバが空気を変えるようにわざとらしく明るい声でそう言ったので、私は曖昧に微笑みながら礼を述べることしかできなかった。そんな私達の会話を密かに聞いていた人物に気がつかずに。


そして今日、戦の国の鳥居が通常とは違う場所に結ばれる話をイナバが神獣仲間から聞き出した。戦の国に滞在していると狙い通り鳥居が開かれる。私はイナバを追って鳥居に来たが彼女がこの先にいる確証がないせいでこれ以上進むことができなかった。もし仮に彼女が異世界にいるとすればきっと彼女はもう異世界の人間として暮らしているのだろう、私を忘れて。或いは、実は彼女は異世界にいない可能性もある。式神に襲われて命からがら逃げて日ノ許の何処かで生きている可能性だって捨てきれない。そう思えば思うほど私がどう行動すればいいか分からなくなった。

「姉上、何処にいるんですか?」

ぽつりと鳥居の向こうへ呼びかけるが返事はない。私はその場に力なく膝から崩れ落ちた。そんな私の膝の上にイナバが小さな手を置いて心配するよう見上げてくる。その時だ。突然私とイナバを取り囲むように数ある式神が何処からともなく現れる。私は咄嗟にイナバを庇うように刀を鞘から抜き式神を斬り捨てた。しかし、あまりにも数がいるせいで私一人では太刀打ちできなかった。最悪イナバだけでも逃がせればいいのだが、生憎退路を確保する余裕もない。

「イナバ、ごめん」

疲労のためか身体中から力が抜ける。地面に投げ出される身体には痛みすら感じず自嘲気味に笑い、ゆっくりと瞼を閉じた。ザー、ザー、ザーと脳裏に不鮮明な映像が映る。よく目を凝らすとそこにはあの晩の彼女の姿があった。私は我を忘れた獣のように彼女に襲いかかる。彼女は乱れた衣服をそのままに私にされるがままだった。獣のように昂ぶった私と、時折聞こえる彼女の甘ったるい声、乱れた布団に汗ばんだ二つの身体。そこで私はようやく全てを理解した。私は、おかしい。私の妄想は全て現実だったのだ。

「蘭丸、ごめんね」

映像は変わり、彼女が乱れた衣服を簡単に直してから私に振り向く。それから薄っすらと濡らした瞳で微笑んでいた。私が手を伸ばしながら目を開けるとそこには彼女の姿はなく代わりにあるのは先程と変わらない式神だけ。徐々に鮮明になる記憶は私が都合良く失くした実の姉にした酷い仕打ちだった。つまり、この時初めて、私は自分の理性がとっくの前に砕け散っていたことに気がついたのである。

「姉上がいなくなったのは、私のせいだったのか」

「おまえはまだ何も分かってない」

聞き慣れた声がしたかと思えば馬に跨ったまま刀で式神を薙ぎ払う。イナバがぴょんぴょん嬉しそうに飛び跳ねながら私の身体を揺すった。

「蘭丸!起きろ!信長が助けにきてくれたぞ!」

式神が片付いてから信長様が馬から降りて私の元へゆったりと歩いてくる。私が何とか身体を起こし謝罪と礼を述べると、信長様はそれに対して返事しないまま私の首根っこを掴んだ。

「いいからさっさと姉弟喧嘩を終わらせてこい」

「姉弟喧嘩で済む話ではないと思いますが」

「それもそうだな。姉弟喧嘩ではなく、痴話喧嘩か」

信長様の言葉の意味が分からず私はまた口を開く。しかし、それよりも前に私の身体は信長様の力付くにより強制的に鳥居の向こうへ投げ出された。イナバの悲鳴が耳に届く。私は一瞬の間を置き、何処かの地面に身体が叩きつけられる。辿り着いた場所はどういうわけかそこは異世界ではなく天の国にある幻想的な湖だった。

「いたた。どうして鳥居じゃなくて湖なんでしょうか?」

重い身体を起こして辺りを見回す。本来鳥居同士が繋がっているはずなのに、私はこの国の鳥居からずいぶん離れた場所に辿り着いたようだ。ふと、幻想的な景色の中で美しく舞う人がいる。扇子を仰ぎ艶やかな舞を踊る姿は時折戯れに踊る信長様と重なるものがあった。

「姉上?」

ぴくりと彼女の肩が跳ねる。そこにはずっと一緒だった人がいた。ぴたりと舞うのをやめた彼女がゆっくりと私に振り向くと驚きを露わにした表情でその場に固まってしまう。

「蘭丸、どうしてここに?」

彼女はハッとしてから何処かへ向かって走っていく。私も咄嗟に負けじと彼女を追いかけて夢中で細い腕を掴んだ。

「姉上!行かないで!」

「離して、」

もう何処にも行ってほしくなくて逃げられないように彼女の身体を抱きしめた。彼女が息を飲む。私はスッと息を吐いてからようやく気づいた間違いを謝罪した。

「すみません、姉上。私は、」

「違う。謝るのは私の方なの。ごめん、ごめんなさい、蘭丸」

彼女の肩が震える。私は彼女の心を深く傷つけたことを自覚しながらもこれからどうすればいいか分からなかった。ただ何となく、もう姉弟ではなくなることだけは薄々感じていた。


もう何度目になるか分からない溜息を吐いた。藍色の空は薄っすらと白澄んでいる。私は首に貼り付いた髪に風を通すよう手で払った。

「いつからだ」

「知っているくせに」

明け方の縁側に突然音もなく現れた男に私は目を向けることなく淡々と返事した。立場上不躾な態度になることは分かっているが長い付き合いなのでお互い気にすることはない。それを分かっているので向こうも私の返事を聞きながら私の隣に腰を下ろした。

「あの子、真面目なんです。優しくて、いつも一生懸命で」

「ああ、知っておる」

「だから時々疲れちゃうみたいなんです。表の表情を消して、男の顔になる。別人格なのかしら?次の日には全て忘れてしまうんです」

思い返せば彼が変わったのはもうずいぶん前からだった。私が近所の男の子達や信長様と遊んでいると彼は表面上は明るく笑うけれど時折二人きりになった途端豹変する。私のことを姉上と無邪気に慕うくせに嫉妬に苛まれた瞬間容赦なく私を我が物にしようとするのだ。私の姉上だ、だから、何処にも行かせない。彼は決まってそう口にしてから私の身体を抱きしめて離さなかった。それだけならまだかわいいが、大きくなるにつれて彼の嫉妬は幼い頃の比ではなくなった。ひとたび嫉妬に狂うと私の身体を求めるようになってしまったのである。それでも私が彼を受け入れたのは単純に彼のことを弟として好いていたからだろう。

「蘭丸が嫉妬に狂った時は口づけやら身体やら何でも求めてくるけれど、結局覚えてないらしくて次に会った時は無邪気でかわいい私の弟に戻っているんです。だから、私、蘭丸のことを突き放すことができなかった」

信長様にはあっさりと本音を曝け出してしまうのはきっとお互いによく知る旧知の仲だからだろう。信長様は私を一瞥するとぴったりと閉じられた襖に目をやった。襖の向こうには穏やかな顔で眠る彼がいる。

「理由はどうであれ、蘭丸も色を知る年頃ということか。それで、蘭丸と身体を合わせて何が問題ある?」

信長様が私に振り向いた。私は思わず眉根を寄せる。信長様はただ黙って私の返事を待っていた。

「私達は姉弟です。こんなの、蘭丸の教育に良くないわ。あの子はまだ子供なんです」

「そうか?蘭丸はもう子供ではない。いいかげん、話してやったらどうだ?」

ぴくりと肩が跳ねることが自分でも分かった。頬が強張る。それでも私は震える声で何とか言葉にするよう努力した。

「私はあの子が生まれた時のことも知っている。あの子にとって物心がついた時から私は姉だった。その関係を今更覆すことができないんです。だって、私は、」

「近い将来、蘭丸の前から消える」

信長様は私が言葉にする前にさらりと言ってのけた。私は信長様から視線を外す。何処に目を向ければいいか分からず当てもなく彷徨った視線は最終的に自分の手首に辿り着いた。薄っすらと赤くなっているのは彼が私の手を押さえつけたからだ。行為中、何処にも行かないでとうわ言のように懇願する声に何度泣きそうになっただろう。私はどうしたって彼との約束を守れない。

「いつかいなくなるのなら、まやかしでもいいので姉弟のままでいたいんです」

「姉弟ごっこに興じているのはおまえの方だ」

「そんなわけない!」

「ならば、何故言わない?おまえが森家の人間ではないことを」

息を飲んでから反射的に信長様の目を見つめた。信長様は感情の読めない表情を浮かべてただじっと私を見つめ返している。信長様が深く息を吐く。息を吐き切るまでの時間が途方もなく長く思えた。

「言えるわけないです。言ってしまったら、蘭丸は今と違う態度で接してくる」

「違うな。それはおまえ自身が家族ごっこを続けたいからだ。自分を捨てた織田家の代わりを探してる。それがおまえの本心だろう。蘭丸に言えば蘭丸はかつての城の人間達と同じようにおまえに対して腫れ物に触るよう接してくるかもしれない。おまえは怖いんだろう?蘭丸の心がおまえから離れ、そしていつか森家にも捨てられるようになることが」

「分かっているなら」

「放っておいてくれ、と?誰がそんなバカげた真似をすると思う。自分の妹が苦しんでいる時に知らぬ存ぜぬを決めこむ兄が何処の世界にいる?」

信長様は口角をあげて笑みを浮かべた。私は言葉に詰まる。信長様は簡単に私の心の中の壁をあっさりと壊してしまった。これからどうすればいいのだろう。私はまだ彼に本当のことを言えない。偽りの姉弟関係だと言ってしまえば彼を深く傷つけてしまうだろうから。ふと、白澄んでいた景色が変わる。徐々に迎えつつあったはずの朝が突如茜色と化した。前触れもなく訪れた現象に信長様が驚いたようにその場に立ち上がる。私も呆然としながらただ視線だけを空に向けた。

「何、これ?」

「嫌な予感がするな」

信長様が発した言葉通り其処彼処で邪悪な靄がかかる。その瞬間、不気味な鳴き声と共にこの世のものとは思えない化物が私と信長様の周りを囲んだ。母親の遺品に混じっていた文献で読んだことがある。おそらくこれは。

「式神よ!」

「はぁ?なんだそれは?」

「襲われたら神隠しに遭います」

「よく分からないがおまえが言うならそうなのだろう。一先ず、面倒な客人であることは理解した」

信長様は常に持ち歩いている刀で式神を斬る。しかし、次から次へと現れる式神に信長様は眉間に皺を寄せた。ちょうどその時、天の国からの使者が空から私を迎えに来る。使者を見た瞬間、私は彼の前から姿を消す時間が早まったことを悟った。これでよかったのかもしれない。私は彼の姉のまま彼の前から消える。誰からも捨てられることなく私は楽しかった思い出だけを胸に抱えて生きていけるのだから。

「信長様」

信長様が振り向いて私を見つめる。私はへらりと笑ってからかわいらしく手を振った。

「これで本当に、さよならです」

使者にせがまれて私はそちらに向く。最後にちらりと襖の向こうにいる彼に視線を向けた。

「蘭丸、ごめんね」

ぽたりと涙が頬を伝って落ちた。弟を置いていく寂しさなのかは分からないが胸に虚しさだけが残る。一方使者は私の気も知らず再び急かし、何やら不思議な力で私の身体を包んだ。なるほど、鳥居まで行かなくてもこれで天の国まで行けるのか。

「名前、」

天の国へ飛ばされる瞬間、信長様に呼ばれて振り向くと信長様は口角をあげて鼻で笑った。それからいつもの調子で断定的に言ってのける。

「諦めろ」

言葉を耳にした瞬間世界が変わる。私は信長様にどういう意味かと尋ねる前に天の国へ飛ばされた。私がいなくなったあと、信長様は虚空を見つめ続けていた。やがて、襖の向こうにいるだろう人物に視線を向ける。

「蘭丸はそう簡単に素直に頷く性分ではない。それはおまえが一番身を持って知っているはずだ」

信長様の予言は私と彼には聞こえない。だけど、結果的に彼は私の元へやって来たのだった。


彼が仲間と一緒に天の国へ訪れた時、私が太陽の巫女の身代わりに異世界へ渡されたという可能性が彼等が調べた結果だと偶然聞いてしまい正直ホッとしていた。これで彼は私のことを諦めてくる。綺麗な関係のまま会わずに済むと安堵していた。だけど、彼が突然再び天の国に現れ、しかも私の目の前にこうしている。戸惑いと驚きと疑問で心がいっぱいなのに、彼を目の前にして涙が溢れた。彼を見た瞬間何かが胸の中に広がった。彼は私を姉だと思い続けている。下手をすれば責任を取って自害すると言いかねない雰囲気だ。

「私、あなたに話さないといけないことがあるの」

泣いてばかりいられない。私は着物の袖で乱暴に涙を拭う。それから真っ直ぐ彼の瞳を見つめた。彼が息を飲む。私は覚悟を決めた。これで姉弟ごっこは終わりだ。

「私はあなたの本当の姉ではありません。戸籍も、私は森家の人間ではない」

私は織田家の当主と妾の間に生まれた。当主というのは信長様の父親に当たる。妾は正室にも側室にも属さない女のこと。要するに織田家に認められない人間である。つまり、私と信長様は事実上腹違いの兄妹ということだ。私の母親は天の国の女官として働いていた。そのため私も半分は天の国の血を受け継ぐのでいずれは天の国の領主様の元へ戻らなければならない。母親は父親に私を預けつつも、頻繁に天の国と戦の国を往復していた。そのせいで、母親は無理が祟り亡くなったのである。私が物心ついた頃の話だ。その頃、父親も政で忙しくなり、私は一人放っておかれるようになった。勿論、妾の子など織田家の人間が相手するわけがない。それを不憫に思った父親の家臣であった森家が私を育ててくれるようになった。戸籍上は織田家の人間だけど森家の人達は優しかったのを覚えている。ちなみに、森家の人達は私が半分は天の国の血筋であることを分かっていたのでいずれは戦の国の地を去ることは理解していた、暗黙の了解というものだろう。そして、彼が生まれた。何も知らない彼は私を本当の姉のように慕ってくれている。やがて、織田家の当主に信長様がなり、信長様は私の過去を知り、私を蔑んだ人達を全て辞めさせ、城内の人間を入れ替えた。それから信長様は私を再び織田家の人間として迎え入れてくれたのである。

「蓋を開ければこういうことってわけ」

一息に何てことのないように言ってのける。話を聞き終えた彼が俯いたので私から表情を見ることができなかった。

「私の前からいなくなることは、ずっと前から決まっていたことなんですね?」

「ある程度の年齢になったら天の国に戻ると領主様と約束していたの。有事の際は年齢関係なしに戻ることになっていたから、結果的に予定より早まったけど」

彼が再び黙り込む。重い沈黙が広々とした湖を包んだ。私は未だに顔を見せない彼に声をかけた。

「他に質問は?」

ぴくりと彼の肩が跳ねる。それから一拍置いてから彼はゆっくりと確かめるように尋ねた。

「私とあなたは姉弟ではないんですね?」

「そうよ」

「あなたは今でも織田家の人間で、私は森家の人間、そういうことですよね?」

「つまり、私達は他人なの」

自分で返したくせにあまりにも素っ気ない言葉だった。彼が顔をあげる。無表情を浮かべてるその姿に何故か背筋が凍りつく。それは私が幼い頃からずっと見続けていた彼のもう一つの顔だった。

「そんなこと、どうでもいい」

私の全てをそんなことで簡単に片付ける彼に私は目を見開く。私の過去を彼は何てことのないように言うので私の顔面から血の気が引いていった。いや、違う。彼のあまりにも普段との変わりように私は言葉が見つからないだけ。

「私は、間違ってなどなかったんだ」

それは本当に一瞬だった。言うか早いか彼は力付くで私の肩を抱き寄せ、乱暴に私の頭を掌で押さえる。塞がれた唇から躊躇いは感じず、無理矢理口を割って入り犯してくる舌は容赦がない。

「やめて、」

何度強く彼の胸板を叩いても彼は離してくれなかった。息苦しさに思わず膝から力が抜ける。彼はその場に崩れ落ちる私を追いかけて一緒に地面に膝をつけた。ブツリと二人を繋ぐ糸が切れる。彼は浅い呼吸を繰り返したかと思えば無邪気に笑った。

「これであなたは、正真正銘私のものです」

いつもと変わらない笑顔のくせに私は寒気を覚える。一方彼は子供みたいに掌の指を一本ずつ折りながら思いついたことを言ってのけた。

「あなたに群がる悪い虫には容赦しなくてもいいし、あなたを狙う輩が信長様の家来だからって遠慮もいらない、これまで以上に私はあなたを抱いていいことになる。こんなに嬉しいこと以外、他に何がありますか?」

私は彼が好きだった。無邪気でかわいい弟である彼のことを好きではあったが、身体を重ねたということは少なからず男としても意識はあったのだろう。だけど、今目の前にいる彼は果たして本当に私の好きな彼なのだろうか。

「どうしたんですか、姉上?そんなに怯えた表情を浮かべて。ああ、違う。もう姉上ではありませんでした。ね?名前さん」

彼の骨張った指が私の頬を撫で、そのまま鎖骨に触れる。びくりと身体が震えた。怖いのだ、彼のことが。

「あなたは誰にも渡さない。何処にも行かせない。もうこの気持ちを抑えなくていい。ね?そうでしょう?」

ドクドクと心臓が早鐘を打つ。諦めろ。あの日告げた信長様の言葉が頭の中に響いた。信長様は知っていたのだろうか、彼の心の底に眠っていた本性に。

「もしも私が、拒んだらどうするの?」

「拒む?あなたが?私を?」

彼はぱちぱちと瞬きを繰り返す。刹那、その瞳がぎらりと不気味に輝いた。私の両肩を彼が容赦ない力で強く掴む。ぎりぎりと鈍い音を発しながら彼は私の顔を覗き込んだ。

「まさか、私以外に誰かの存在があるんですか?それとも、私と同じように優しさにつけ込まれて誰かに抱かれたんですか?」

「ち、違う!私には、蘭丸しかいない!」

言ってからまずいと思った。彼は再び無邪気な笑顔をパッと浮かべる。私の肩に加える力はそのままに彼は私と自分の顔の距離を近づけた。

「それならば、あなたから私に口づけしてください」

「私から?」

「できるでしょう?あなたが私を本当に愛しているのならば」

彼がゆっくりと瞼を閉じる。私は悟った。彼は最初から私に拒絶の道を用意していない。私の肩を掴んだままなのは私の返答関係なく離すつもりはないのだ。

「ちゃんと、愛してるよ」

私は震える指で彼の頬を撫でる。彼を甘やかした代償がこれなのか分からないが、私は生涯をかけて壊れた彼を直すことを決めた。決意を胸に彼の唇に自分の唇を寄せる。未だにまるで子供みたいに癇癪を起こしている彼を全て受け入れよう、そう自分に言い聞かせた。私がいなくても彼はもう眠れる、そう思っていたことがこの関係の始まりだったのだろうか。両方の顔の記憶を取り戻した彼に私が言えることは何もなかった。