わたしの名前呼んでくれませんか

物心ついた頃から料理が好きだった。自分の作ったもので誰かが喜んでくれると嬉しくて、その頃から漠然と、将来はそういう仕事に従事したいなと思うようになった。
いろんな幸運が重なって、大人になった僕は予てからの夢を叶えることになる。都内、駅近、オフィス街の一角。席数は決して多くはないけれど、立地的には抜群の利便性と集客性を備えた場所に、レストランを開くことに成功したのだ。店の開設に当たり多方面で援助してくれた鶴さんには、感謝してもしきれやしない。

「光坊は昔から料理が好きだったからなあ」

会社帰りに寄ってくれた鶴さんが、そう笑って頬杖をついた。なんだか感慨深げにも見える眼差しを受け止めて、僕は今日もカウンターの向こうでフライパンを振る。



その子を見た時、僕は身体に電流が走ったような、頭をがつんと殴られたような、そんな奇妙な感覚を覚えた。後々、これが『運命』というものなのだろうかなんて、ありがちなドラマみたいなことを考えたりしたけれど、そのくらい僕にとっては衝撃的で、驚天的で、胸を衝かれることだったのだ。

あの日、閉店間近の時間帯。お客さんも捌けてしまって、店内には僕以外誰も居なかった。少し早いけれど店仕舞いの準備をしようかと、テーブルを拭き椅子を直していたところで、控えめにチリン、とドアベルが鳴った。

「あの、まだやってます……か、」

ひょい、と顔を出した彼女と目が合った瞬間の稲妻を、僕は一生忘れないだろう。勝手に目が開き、唇が言葉を探そうとするあの感覚は、それまでの人生で経験したことがない種類のものだった。

「……あ、」

相対する彼女もまた、瞳を瞬いた。
ドアノブを握る掌に、ぎゅう、と力が篭るのが分かって、ああお揃いだ、なんて、よく分からない場違いなことを考えた。

「……っと、失礼しました、もうお終いですよね、すみません」

営業を切り上げる気配を察したのか、彼女は逃げるように身を翻した。そんな仕草が、何故か僕を敢えて避けるためのもののように感じてしまって、咄嗟に待って、と声を上げる。

「……待って、下さい」

絞り出した声音は震えていた。緊張していた。日々、初対面の人なんて商売柄ごまんと見ているのに、この人にはどうしてこんな風になるのだろう。自分でも不思議な感情の揺れ方に、心臓が騒いで仕方ない。
しかし、辛うじて足を止めてくれた彼女を、恐る恐る振り返ってくれた彼女を、ここで逃してはいけないと、僕の本能が訴えた。

「……お店、まだ終わりじゃないから。……食事、食べて行ってくれません、か」

こつん、と靴の踵が床を打つ。
ゆっくりと近付いた僕を、彼女は肩を強張らせて見上げた。

「……あ、でも……」

迷うように視線を下げた瞬間、くう、と可愛らしい音が響いた。途端に、彼女の顔は耳まで赤く染まる。堪え切れなくなって、僕は小さく吹き出して笑った。

「お腹空いてるんでしょ? ……さ、どうぞ」

中へ導くと、彼女は肩に掛けた鞄を握り締め、おずおずと店内に足を踏み入れた。正直な腹の虫に多大に感謝しながら、僕はテーブル席に彼女を案内し、メニュー表を手渡す。



出会ったあの日から、僕は彼女とちょこちょこ顔を合わせることになる。
彼女はどうやら最近この近くのビル内にオフィスを有する会社に転職してきたらしく、出勤時や外回りに出るタイミングなど、ふとした時になにかと出くわすことが多かった。彼女に会うと何故か僕はいつも呼び止める理由を探してしまって、「今日は暑いですね」とか、「今から外出ですか?」とか、努めて距離感を飛び越えない質問をした。それに対して彼女はいつも、迷うように口元を結んだ後、無難ながらも返事を返してくれる。僕はそれにいつもほっと胸を撫で下ろしているけれど、同時にどこか無性に寂しい思いも感じていた。
「そうですね」とぎこちなく微笑みながら背中を伸ばして、遠慮がちに会釈して去って行く彼女の後ろ姿ばかり、僕は見ている気がしている。

布団に潜って目を閉じる瞬間、僕はいつも彼女のあの顔を思い出す。
お店に初めて来てくれた過日。僕が出した料理を一口食べた瞬間、あの子はぼろっ、と大粒の涙を零して、そのまま言葉を失った。
カウンターの向こうに戻って食器を拭いていた僕は、横目に見た彼女のそんな様子に驚いて、乱暴に置いたお皿が煩い音を立てるのも構わずにフロアに戻った。
どうしたの、大丈夫、と慌てて側に駆け寄る。なんだろう。口に合わなかったのかな。なにが気に入らなかった?
もどかしい思いでポケットに入れていたハンカチを差し出すと、彼女はゆっくりとスプーンを置いてへにゃ、と眉を下げた。

「……昔とおんなじ味だ」

するり、自然に零れてしまったような台詞が、僕の身体を突き抜けた。はっと我に返った面持ちの彼女が、すみません、と執り成して目尻を拭う。

「なんでもありません。失礼しました、取り乱して」

僕を見上げてそう言ったが、無理矢理作った笑顔はひどく壊れそうで、浮いた涙が強く胸を惹いた。
あの、と掛けようとした声は「美味しいです、とっても」と料理を口に運ぶ仕草に遮られる。
次々と食事を腹に収める様子に、僕は口を噤むしかない。受け取られなかったハンカチを握る手に力が入って、薄い布地に皺が寄る。
頑ななそれは明らかで紛れもない、僕に対する拒絶の表明だった。

ごろん、と寝返りを打って天井を見つめる。
手の甲を額に付けると、心地良い重さが頭に伝う。瞼が徐々に重くなり、静寂の濃度が上がる気がした。
昔とおんなじ味だ、とあの時呟かれたその意味を、僕はまだ分からないでいる。『昔』って。『おんなじ』って、なんのことを言ってるの。ねえ。
尋ねたいことはいつも蟠るまま。僕は全然、一歩も前に進めないまま、こうして彼女のことばかり考えて毎夜を過ごす。