マシュちゃんとの会話を終えて食堂へ向かうところだった。彼女がデミ・サーヴァントとなったことは衝撃的だったし私の理解をとうに超えていたけれど、幸いなことにカルデア唯一のマスターである青年はマシュちゃんのことをよく判ってくれている。私のようなただ運よく生き残ったスタッフなんかにはとても追いつかないほど、とても、とても。今思うと、生き残ったことも、傷ついて眠る羽目にならなかったことも、何だか「運がいい」と思えないけれど。
 スタッフよりサーヴァントの数がカルデア内を上回るまではあっという間だった。戦いは厳しくなっていくけれど、私に出来ることなんてたかが知れていて。英霊たちが押し寄せる食堂の賑わいに押し潰されかけた時にはいっそこのまま潰れて無くなった方が楽かもしれないと思った。サーヴァントと会話するという選択肢が一切なかった私は、英霊たちの波にただただ流されていく。これはこれで稀有な経験であると悟り始めたおり、「生きているか」ぼやっとした私の耳に聞きなれない落ち着いた声が届くまではややかかって、はあ、と気の抜けた返事をすることしかできなかった。波から引っ張り出された私の前には真っ白な髪の英霊が立っていて、彼が私の腕を掴んでいると知って。神秘的で凛々しい顔立ちをまじまじと見つめてしまった。
 途中で我に返って私は慌てて頭を下げた。

「も、申し訳ありません! お、お手を煩わせてしまって……」
「生きているならば、それで良い」
「そ、そうですか……はぁ……」

 彼は私の安否を確認すると、英霊の波に紛れていった。そこにちょうどマシュちゃんとマスターの立香くんがやって来た。マシュちゃんはいつも先輩でありマスターである彼を呼びに行っているらしい。微笑ましいと思う。
 ぽかんとしている私に、マシュちゃんが首を傾げる。

「名前さん、大丈夫ですか?」
「ああ、うん、大丈夫……。ちょっとサーヴァントの波に乗り切れなかったのをあの人に助けてもらったんだ」

 先の彼の姿を指さして苦笑した。マシュちゃんと立香くんが瞬きする。それから顔を見合わせた二人は、納得したように頷いた。とても仲良しな姿にますます微笑ましさを覚えながら、私はその英霊の名前を尋ねた。立香くんが笑いながら応じてくれる。

「カルナって言うんだ。クラスはランサー。あと本人は多分自覚が無いけれど面倒見がいいよ」
「カルナさんですか……」

 立香くんに彼の名前を聞いてからようやっと大事なことに気付く。
 ――助けてもらったお礼、言えてない。
 言いに行く勇気も持ち合わせていなかった私は、もやもやとしたまま食事を済ませた。
 同僚との会話すら緊張しっぱなしなコミュニケーション能力しか持ち合わせていない私が、様々な逸話や経歴を抱えてここに受肉するサーヴァントとどう会話したらいいのか。気軽に話しかけていいものなのか。マシュちゃんとの会話ですらたまにフリーズする私が。どうやって。また英霊と口をきこうなどと。マスターですら同胞ですらない、ただのいちスタッフの私が。
 もやもやは続いた。具体的に言うとあの時感じた強烈な彼の美しさと、そんな英霊の手を煩わせた申し訳なさ。それらが合わさってもやもやと私の胸中に留まっていた。カルナさんを見上げた時、私は冗談抜きで神を見たと思った。それほど彼の姿は、私のような一般人にすら衝撃を与えるものだった。サーヴァントは皆こうなのだろうか。常人にすら判る強さとか諸々とか。纏う雰囲気とか。あの時必死に使った敬語は逆に無礼だったのではないだろうか。
 悩める私にマシュちゃんは「私に接してくれているような調子で問題ないと思います」と励ましてくれた。

「それにしても、名前さん、お話を聞いているとまるで……いえ、何でもありません」
「まるで? な、なに? マシュちゃん。途中で切られると逆に気になる」
「えっと……それじゃあ言わせてもらいますね」

 マシュちゃんはいつもより少し悪戯っぽい声音で言ったのだ。

「名前さん、まるでカルナさんへ恋しているみたいです」

 瞬間、私の全身の血は沸騰したように熱くなった。「いやいやそんな、まさか、そんな、サーヴァントさんにそんな」必死に否定しようと口を開くけれど大して意味のある言葉は出てこない。ここのところずっとカルナさんのことばかり考えていたけれど、あの時のお礼が言いたくてでも言えなくて食堂にもピーク時を避けて訪問してしまうけれど、立香くんづてに伝えてもらうことも悩んだけれど、でも、カルナさんはあんな些細なことを覚えていやしないかもしれないし。なにせ立香くんいわく施しの英霊。カルナさんの神々しさはまさしくであって、ああ、またカルナさんのことを考えている。顔が赤いことはとうに判っている。それでも、それでも私はこの感情を否定しなくてはならないという使命を感じていた。
 マシュちゃんが心配して背中をさすってくれるほど、私は自覚した恋心に深く悩み、狼狽しきっていた。彼女は私をわざわざ部屋まで送り届けてくれた。その日は食事も摂らずに早々に寝てしまった。頭痛と吐き気で動けなくなった。悩みすぎて体がおかしくなったのかもしれない。
 ……翌日、私はまだ頭痛に悩まされていた。部屋を出るのも億劫だった。けれど鎮痛薬を切らしてしまっていたから、どうにかドクターの元までは行かなくてはならない。恋ってこんなに辛いんだ。というか、私の体、精神の影響を受け過ぎじゃない? こんな時に頼る相手がいない私は、何とかこの身を奮い立たせて部屋を出た。
 サーヴァントに一目惚れした私がすべて悪いのだ。世界が懸かっている今、一番してはならない事象。ただでさえ『まぐれで生き残ってしまった自分』という思考の強い私には、たまらなかった。
 いよいよ不調も最高潮に達し、壁を伝っていた手が離れていく。あと数拍で冷たい廊下に体をぶつけるか否かというところで、体の傾ぎは止まった。力強い何者かの両腕に抱きかかえられ、それはそれは驚くほどあっさりと私は起こされた。

「怪我は無いか?」
「は、はい、お陰様で……」

 頭痛が増して視界がちかちかと瞬く。それでも、私は、私を抱き起してくれたひとの顔をしっかりと見た。そして叫びかけて息を呑んだ。
 カルナさん。どうしてカルナさんがここに。
 彼の涼しげな眼差しが小さな私に注がれている。綺麗な青色。私の肩に手を置いたまま、カルナさんは口を開いた。

「おまえを探していた。名前、と呼んで構わないか」
「え、えっと、どうぞお好きなように……で、でも何で私なんかを?」
「マスターから聞いた。おまえは俺に話したいことがあるのだろう? だから赴いたまでだ」
「な、な、なっ……!?」

 ――これはマシュちゃんの気遣いだ、絶対!!
 私が食堂でカルナさんに助けてもらったお礼を言えなかった後悔をぶつぶつぐちぐちと繰り返していたために、マシュちゃんはきっと立香くんに伝えたのだ。「名前さんがカルナさんと話したがっているのですが、先輩、よかったらカルナさんに伝えてくれませんか?」「わかったよマシュ、カルナに名前さんに会いに行くよう言っておく」みたいな会話が繰り広げられたのだ。そしてマスターの命とあらばとカルナさんは私のところまで来てくれてしまったに違いない。ただでさえ頭痛がするのに、心臓がバクバクと脈打って、殊更痛みは増していく。
 頭を押さえそうになったけれど堪えた。不調を無いものと言い聞かせ、慣れない作り笑いを浮かべて、今更ながら平静を装って答える。

「わざわざすみません……。有難うございます、気を遣っていただいてしまって……何と申し上げたらよろしいのか……すみません」
「何故謝る? おまえは俺に対して謝らなければならないようなことはしていないだろう? それと、そう堅苦しくする必要もない。マスターたちへ接するそれと同じで構わん」

 この英霊の底なしの無自覚の優しさは何なのだろう。そう感じるのは私が彼を特別視しているからなのだろうか。表情はあまり変わらないのに無愛想という印象は全く感じない。寧ろその言葉の節々には相手への気遣いが満ちていて、彼の逸話がちらりと脳裏を過ぎり、すとんと落ちる。納得せざるを得ない。
 私の肩から手を離したカルナさんは、さて、と改まって此方を見る。

「話とはなんだ?」
「……あ、ああ、えっと……」

 今更である。しかし、今更であっても、言うしかないのだ。そのために彼はわざわざ来てくれた。ならば私はその温情に全身全霊で応えるしかない。

「――初めてお話した時、食堂でのことです。人込みというか英霊込みに押し流されそうになっていた時に助けていただいたお礼を言い損ねていて……ずっとそれが引っかかっていたんです」
「まるで死人のような目をしていたあの時か」

 覚えていてくれたことは素直に嬉しかった。しかし死人と称されるほど酷い状態だったとは。恥ずかしくて血行が良くなってきた。こっちを忘れてくれるなと頭の方から波打つ痛みを感じる。

「私、カルデアでの仕事のことにも後ろ向きになっていて、あのままだと比喩無しに潰れていたと思うので……その節は、有難うございました! 先ほども転びかけたところを有難うございました!!」

 ようやっとお礼を言えた安堵と、思い切り頭を下げすぎたために、私の体は大きく前方に傾いだ。ああまずい、このままではカルナさんにタックルを決めてしまう……。それだけは避けようと体を何とかひねる。ひねると、その勢いのまま体がくるりと回転し、背中からカルナさんに受け止めてもらう羽目になった。はしゃいで転んだ子供を支えるようなカルナさんのサポート。恥ずかしいなんてものではない。ふらふらと立ち上がり、「何度もありがとうございます」謝罪では気分を害してしまうかもしれないから、すぐさまお礼を。
 カルナさんは少し眉間に皺を寄せて私を見る。

「……具合が悪そうだが」
「いえいえ、ドクターに比べたら元気なもんですよ!」
「その真っ白な顔で言われても、説得力がまるで無いぞ。やはり無理をしているな?」

 それは良くない、という風にカルナさんは首を振った。

「人は脆い。無理はするな。空元気もだ。……この環境だからこそと、休息は必要だと思え」
「は、はい……」
「マスターはおまえを友と呼んでいた。このカルデアにとっても数少ない貴重な人員のひとりなのだろう。上手く言えず悪いが……」

 おかしいな。カルナさんってあまり喋らないってマシュちゃんが言ってたはずだけれど。言葉数が少ないって立香くんが言ってたはずだけれど。これ、かなり喋ってくれているんじゃないかなあ。
 ふらつく私を見かねて、カルナさんは私の手を掴んだ。

「ますます顔色が可笑しいな。部屋で休め。薬なり食事なり、俺に出来ることであれば調達してこよう」
「いえ、今からドクターの元にちょうど薬とりに行くつもりなので、大丈夫です……!」
「ならば俺が代わりに向かう」
「いえいえ、私でもそのぐらいできますから! 英霊に小間使いとかさせられませんー!!」
「あまり騒いでは治るものも治らなくなるぞ」
「カルナさんが行かないでくれるなら黙りますから!」

 それでもカルナさんは私について来た。何処かで倒れてはいけない、と。ドクターから現時点で出来うる限り最速で薬を貰って医務室を出ても、やっぱりカルナさんは待っていた。

「ど、どうして待っててくれたんですか……」
「マスターから『今日一日は名前に付き合え』と言われている」
「な、何と立香くんめ……マシュちゃんめ……」
「それに、とても放っておける状態ではないしな」

 僅かにカルナさんが目を細めた……気がした。口元も和らいだような、気が。
 どうしてだろう。施しの英雄にとっては当然のことなのかもしれない。なにせマスターからの命でもあるし、私に今日いっぱい付き合えと言われて素直に従っただけで。なのに、どうしてだろう、私は嬉しくてしかし悔しくて歯がゆくてたまらないのだ。
 当然のように私の部屋に入ってきたカルナさんに、否応なしに気持ちが膨らんできてしまう。

「カルナさん……」

 私がもしマスターだったら。サーヴァントだったら。カルデアとは無関係の一般人だったら。
 こんなにも眩い彼を見上げずに済んだのだろうか。少なくとも、一目惚れなんてせずに済んだだろうか。

「どうした?」
「……今日一日、私に付き合ってくれるんですよね」

 痛みで真っ当な思考回路が失われつつある私は、じっとカルナさんを見つめた。さっき飲んだばかりの薬が効いてくるまではまだまだかかる。

「ちょっとだけ、目を閉じていてもらえますか」
「判った」

 私の言うとおりにすんなり目を閉じてしまった彼の顔を、まじまじと見つめた。眼を閉じても魅力が衰えることは勿論なく、寧ろ神秘性を増したように思える。心が騒ぐ。ただの女の子みたいな気持ちが大きくなっていく。しっかりと閉じられた彼の唇に目が移る。
 彼に知られないようにそっと背伸びをした。
 あと少し、もう少し。
 綺麗なその唇に触れるまで、ほんの少し……というところで、立ち眩みに襲われる。「わっ」思わず声を上げてしまって、気づいたカルナさんが目を開いて腕を伸ばしてきた。私は、何度彼に支えられれば気が済むのだろう。

「言いつけを破ってしまったな……」
「いや、そんな、命令じゃないんですから……気にしないでください。寧ろ有難うございます」

 支えられながら、私は微笑んだ。情けないことに、せっかく立香くんが一日彼を寄越してくれたのに、大人しく休んだ方がよさそうな状態だ。もうカルナさんには「立香くんのところに戻って大丈夫ですよ」と伝えるべきだろう。
 そう思ってカルナさんから離れようとしたら、動けなかった。正しくは、カルナさんから離れようとしたけれど、カルナさんはどうしたことか私の体を支える腕を離そうとしなかった。しっかり背中からホールドされていて、よくよく考えればかなりの至近距離。自分が招いた状態とはいえ、カルナさんのびくともしない腕に関しては全く予想外・予定外だ。
「カルナさん……?」おそるおそる呼びかける。いよいよ私は彼を怒らせてしまったのかもしれない、と心臓が縮む思いがした。
 あと少しで届かなかった彼の唇が、ゆっくりと開かれる。

「思い違いだとしたら、すまん」

 硬直して動けない私は、なにがですか、と尋ねることもままならなかった。
 僅かにカルナさんが動いて、今一度距離を詰めてくる。顔が近い。ちかい。そして彼は、前髪ごしに私の額へ触れた。私がこっそりと求めた、その唇で。
 どこまでも優しく控えめな接触に、私は息を呑む。
 触れた時と同じように、離れるのもまた、ゆっくり優しくそっとしたものであった。
 目を丸める私に、彼はしっかりと微笑んでみせる。

「更に謝らねばならないことがある」
「はい……?」
「目を閉じてはいたが、おまえが何をしようとしたかは判っていた」

 今度こそ私は思わず悲鳴を上げてしまった。その悲鳴のまましゃがみこみ、頭を抱えた。なんてこと。目を閉じていても気配で判る的なアレだろうか。だって有名な英雄だもの、英霊だもの、よく考えたらなんて不思議なことはない。一般カルデア局員が足掻いたところで、意味は無いに等しい。

「悪かった。だがこれが名前の願いなのだとばかり……」
「……不意打ちでしでかそうとした私がまずいけませんから、英霊様相手にひどいことしようとした私に非がオオアリですから……」

 私の中で彼という英霊への印象がこの数時間がまるっきり変わりつつあった。
 何か仕返してやろうかなんて思ったけれど、私に出来ることなんて何もない。何をしても彼は無自覚の寛大さで此方の予想を上回った言動を放ってくる。
 ふらりと立ち上がると、カルナさんは私をずっと見ていたらしく目が合った。
 見上げながら改めて視線の高さの違いを痛感し、私はあと5センチでもいいから自分の背が伸びてくれやしないかと本気で願った。

「そう卑屈になるな。俺も嫌々したわけではない」

 ますますどういうことなのかと頭を抱え直した私を、施しの英霊は微笑んだまま見つめていた。
 ……そして本当にマスターの命令通りに一日を私と過ごして――申し訳ないことにほとんど私を看病してくれていた――去っていった彼に、私の心は今後も忙しなく揺れ動くしかないのだろう。




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