降り続いていた小雨が止んだ。しっとりとした空気。濡れた路面に反射する夜の光。どれもが特別なものに思えるのは、ここが慣れ親しんだ日本じゃなくてイギリスだからだ。

 夜に沈んだロンドンの街並み。周りを見ても、自分が今どこにいるのかもよくわからない。裕介とはぐれないように、私は脚を動かす。彼は生粋のロンドンっ子のように、すたすたと歩いて行ってしまう。夜とはいえ、大都会に人が絶えることはない。独特の格好をした背中を追いながら、私は人と人の間を縫う。

「待って」
「悪ィ、名前」

 振り返って裕介がバツの悪そうな顔をした。歩くペースがすぐに落ちる。横に並んで一息をついた。歩調を合わせてくれる彼と歩く。

 同じ場所を明るい時間に通ったのに、夜に沈むと雰囲気がまるで違う。記憶にあるショーウィンドウと、今見えているものが本当に同じ店のものなのか自信が無かった。

 クラシカルなデザインの階段を裕介が、とんとんと下って行く。それだけは、行きに見たのが記憶に強く焼き付いていた。ロンドンという街に程よく溶け込んでいて、美しかったからだ。

「雨、止んで良かった」

 濡れないように、マキシ丈のスカートを少し摘まんで階段を下る。そのせいで、彼に一歩遅れた。ゆっくりと裾に気を付けながら歩いて行く。こういうとき、昔憧れたお姫様の姿を思い出す。

「これに懲りたら、そんな長ェスカート履くのは止めろショ」

 私の一段下を歩く裕介が肩を竦める。

「こんなに雨が多いなんて。ジョークかと思ってた」
「オレはちゃんと言ったぜ?雨多いから注意しろって」
「そうだったわね。裕介は、髪が大変じゃない?」
「もう慣れたショ」

 階段の一番下には、大きな水たまりがあった。裕介は長い脚で、そこをひょいと飛び越える。それから私に左手を差し出した。その手をとって、階段を小さく蹴る。ぐっと身体が引かれて、裕介の横に私は降り立った。足元で水がぴしゃんと跳ねる。お気に入りのスカートが、童話のようにふわりと広がった。まるでお姫様になったようだ。

「いつから英国紳士になったの?」
「オレは昔から紳士ショ」
「やだ。笑わせないでよ」

 大通りから外れると、人が一気に減る。私たち以外に人影は見当たらない。街灯の光が石畳に、ぽつぽつと落ちていた。かすかな水の香り。テムズ川が私たちの左を流れていく。

 どちらかわからない。多分、ほぼ同時に私たちは手を繋ぐ。骨ばった細い手を、掌で感じた。 

 テムズ川の水面に視線を落とす。裕介には見慣れたただの夜の景色も、私にとっては珍しいものだ。落ち着いた色の光が、川を柔らかく染めている。それに見とれて、私は足を止めた。繋いだ右手が少しだけ前に行って、すぐに戻ってくる。止まってくれた裕介の左肩にもたれるようにして、私は夜のテムズ川を見つめた。

 夜風が私のスカートの裾と、裕介の髪を後ろへさらって行く。街灯に照らされた彼の髪が、玉虫色に煌めいた。気持ちよさそうにしている顔を見ていると、胸の中に愛しさが溢れる。それが苦しい。息をするのが、本当に難しいくらい。

 会話がなかなか生まれないのは、話すことがないからではない。話すことはまだまだいっぱいあった。そのどれを話せばいいのかわからない。明日になったらまたしばらく離れ離れだ。昼ごろ私は、飛行機に乗って帰国する。だからこそ、残り少ない時間を無駄な会話で費やしたくなかった。

 目が合った。また吹いた風と遊ぶ私の髪のせいで、視界が遮られる。それを裕介が、空いた手で押さえてくれた。彼の目が、優しく細められる。その瞳に映り込んだ夜景に吸い込まれた。

 微かに触れる唇。至近距離の綺麗な顔。熱の名残を感じる。

 もう一度、近づくその唇に私は指を添えた。途端に目の前の顔が、不満一色になる。

「駄目よ。外じゃないの」
「どうせ誰もいねェよ」

 指の下で裕介の口が動く。少し、くすぐったい。

「そうだけど」

 髪を押さえていた手が私の左手をさらう。また唇が触れ合った。小さな音は、川の音にかき消される。

「なァ、名前」
「なあに?」
「しょげた顔すんなよ」
「そんな顔、してないわ」

 言い返す声に、自信が無い。そんな強がりを言っても、裕介には通用しない。何故だか私は、昔から彼の前ではうまく嘘がつけない。裕介が私の嘘のみ、すぐ見抜けるだけなのかもしれないけど。

「してるショ」

 三度、重なった唇。

「オレだって、名前に帰ってほしくねェショ」

 心臓が鷲掴みにされたかと思った。私の胸の奥の器官が、ぎゅっと縮こまったのがわかる。それほど嬉しかった。ほぅ、と小さく息が零れる。

「本当?」

 それでも、そう聞いてしまうのは、その口からもう一度聞きたいから。疑っていないのに、そんなフリをしてしまう。ずっと昔からの、私の悪い癖の1つ。

「嘘ついてどうすんだよ」
「冗談よ」
「知ってるショ」

 囁き声と、不器用な微笑み。優しい手が私の顔のラインをなぞっていく。それに解放された左手を重ねた。瞳を閉じれば、その温もりがはっきりと伝わってきた。

 明日の昼には飛行機に乗っていること。また9564キロメートルまで距離が開くこと。次に会うのはまだいつかわからないこと。私はお姫様でも何でもないこと。ここが外だということ。

 全てを些末なことだと、投げ出したかった。今日のこのときだけは、何も考えずにいたい。

「ねぇ、キスして」

 目を開けた先にいるのは、世界一の恋人。私にとっての全て。

「外は駄目なんじゃねェのかよ?」
「気が変わったの」

 彼はクハッと笑って、私に優しく口づける。

 その一瞬だけは、全てを忘れた。もう一度それを味わいたくて、私は両手を伸ばした。玉虫色の髪と一緒に、裕介の首を抱きしめる。青い鳥を腕の中に閉じ込めるように。




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