高校三年生に進級したが、クラスは相変わらず変わらない。俺の隣の席は黒崎だし黒崎の前の席は苗字のままだ。ただ、変わったことといえばかつて一組の担任だった佐伯が緑ヶ丘から突然去ったことだった。

「婚姻届にサインなんてしてないよ。だいたい私達、お互いにまだ子供だし」

何となく話は春休みの話題へと繋がった。放課後、この風紀部の部室には俺と苗字しかいない。黒崎と由井は毎度俺達に雑用を持ってくる新任の気配を感じさっさと帰っていったので残された俺と苗字は渋々職員会議用の資料をホチキスでとめる作業を進めている。ちなみに、渋谷はたくさんの女子生徒を連れ立って何処かにいった。

「華房のことだからおまえが拒否しても強引に話を進めると思ったけど。意外だな」

卒業式の時、公衆の面前で華房に告白された苗字が二つ返事で首を縦に振ったことは記憶に新しい。華房に婚姻届を突きつけられた苗字は始めは戸惑いの表情を浮かべていたが、最後は自ら望んで華房の腕の中に包まれた。あの時の苗字はいつもの澄ましたような誰も寄せつけない雰囲気をなくし、大きな瞳を潤ませて頬を赤く染めるという、月9のヒロインみたいな表情をしていたと思う。いや別に俺が月9のファンというわけではない、絶対に。

「あの人は無理強いをしないよ。とても、優しいから」

ほんのりと頬を赤く染めながらはにかむ苗字に俺は後藤と桶川の言葉を思い出す。入学した頃に比べて苗字は確かに変わった。あの頃も綺麗な顔をしていたが、今は心の内から綺麗になったような気がする。長い髪を耳にかけながら教科書を読む姿は落ちついた証、ノートを取る色白の手に傷や痣はなく喧嘩もしていない。たまに顔に作る怪我をいつからか見なくなった。苗字を変えたのが全て華房のおかげだと思うと無性に苛立ちが募る。何もないのに胃の中から全て吐き出してしまいたいほど気分が悪かった。

「早坂は春休みどうだったの?」

苗字が俺に話題を振るので俺は気分が悪いのを悟られないように返事する。苗字に心配をかけるのは悪い気がするから。

「変なやつらがいっぱいいたけど、悪くはなかったような気がする」

「変なやつらって」

心底おかしそうに笑う苗字の姿を思わずじっと見つめてしまう。苗字はこんなふうに笑うやつだっただろうか。黒崎と話していても控えめに笑うだけで感情を表に出すようなやつではなかったと思う。苗字が男に囲まれて喧嘩しているところを何度も見たことがあるが、その横顔は冷たく、それが妙に綺麗で俺はずっと見惚れていた。憧れとでもいえばいいのだろうか、あの顔は忘れられない。

「最近黄山が殺気立っているらしいね。佐伯先生もいないし、何か嫌なことが怒らないといいけど」

ふと、悲しそうというか不安そうというか曖昧な表情を浮かべてしまう苗字に胸の奥が苦しくなった。華房が愛したこの学園の生徒をそこまで傷つけたくないのかと妙な疑問が生まれていく。何故だか分からないが苗字を見つめていると自然と華房の顔が頭の中に浮かんだ。

「そうだな」

同意を口にしながら最後の一冊をホチキスでとめる。ようやく終えた職員会議用の資料の束を抱えて俺はその場から立ち上がった。苗字も俺に続いて残り半分の資料の束を持ちながら立ち上がる。それから二人揃って職員室に向かった。放課後の廊下を歩いていると外から部活動に励む生徒の声が聞こえてくる。音楽室からは吹奏楽部の演奏が響いていた。すっかり不良の姿を見なくなったこの学園に時折佐伯のおかげだと口にするやつらを見かける。確かに、その通りだ。

「あ、」

苗字が小さく声をあげて立ち止まる。苗字の視線の先には華房そっくりの顔で微笑み会釈する人物がいた。苗字も静かに会釈する。それからお互いに何も言わず、先にその場から去っていったのは相手の方だった。

「華房の妹、だっけ?話したことあるのか?」

「ううん、ないよ。北条から少し話を聞いただけで本人とは特にって感じかな」

華房と親しい北条なら華房の妹についてよく知っているだろう。そうすると、由井も詳しいことになるのか。やがて、再び歩き出した苗字の背中を追いかける。職員室に着いてから例の職員会議用の資料を渡し、俺達は部室に戻った。お互にカバンを持ってから昇降口へ向かう。靴を履きながらどちらからともなく口を開いた。街に行こう、と。


真っ直ぐに寮へ帰らず街中へ向かった理由は簡単だ。黄山の動きが知りたいからである。黒崎と由井が早く下校したのは二人共何か情報を掴んでいるのではないかと思った俺と苗字はとにかく黄山がいるであろう街に行った。

「やっぱり黄山のやつら、妙に殺気立っているな」

ガラの悪い黄山が余計に苛立っている様子が伺える。まずい、これは来るべきではなかった。そう俺が思い始めた時には遅かったのである。

「その制服、緑ヶ丘のもんだな?」

普通に歩いていただけなのに突っかかってきた黄山の連中に俺は咄嗟に苗字の前に出る。仮にも苗字は女だ。かつて苗字も不良だったとはいえあれから苗字は喧嘩をしていない。今俺が守らずに誰が苗字のことを守るのだろうか。

「女の前だからってかっこつけてんじゃねえよ!」

五、六人くらいの男達が理由もなく殴りにくる。俺が喧嘩に応戦している後ろで鈍い音が何発も鳴った。

「前に集中して。後ろは私がやる」

酷く冷めた声だった。その声を聞いた瞬間、心臓の奥が鷲掴まれたようにぎゅうっと押し潰される感覚がした。心強いというより、ずっとこのままでいたい。一度喧嘩から退いた苗字をまたこの道に引きずり込んでしまったことが凄く嬉しかった。元は一匹狼同士の不良だけど、それが背中あわせで戦えば誰にも負けるはずがない。俺と苗字はがむしゃらに黄山に応戦し、やがて、その場に立っているのが俺と苗字の二人だけになった。

「何人倒したんだろう」

足元に転がっているのは五、六人どころではない。黄山の連中が次々に味方を呼ぶので結構な数を相手にすることになってしまった。苗字がぽつりと口にした疑問に答えようと口を開く。しかし、それよりも先に遠くから警察を呼んだ方がいいとヒソヒソと話す他人の声が聞こえた。俺は咄嗟に苗字の手を握って走り出す。以前うさちゃんマンが俺に逃げるが勝ちだと教えてくれたことがあった。まさに、今がその時だと思う。人混みの中を縫うようにひたすら走り、気がつけば人気のない小さな神社に辿り着いた。ハァハァと荒く息をする俺の隣で苗字もまた肩で息をしている。

「大丈夫か?」

苗字に視線を向けると苗字と目があう。だけど、苗字が何かにハッとしたかと思えばパッと手を離された。みるみるうちに苗字の頬が赤く染まっていく。ずっと走りっぱなしだったせいかと思ったが、それでも様子がおかしい苗字に俺は首を傾げた。

「おまえ、マジで変だぞ?」

「だって」

苗字が俯く。それから苗字は色白の両手をきゅっと握りしめながらか細い声で言ってきた。

「男の人と手を繋いだの、初めてだから」

思わず間の抜けた声が出る。確か、卒業式の時華房と抱きあっていたのだが、それを差し置いて手を繋ぐ方を恥ずかしがるとはどうなんだろう。というか、春休みに華房と何回か会っているはずなのに、まさか手を繋いだことがないというのだろうか。いや、苗字のこの反応からして確実にない。

「お、大事にならないといいね」

あからさまに話題を逸らした苗字が神社の境内の前に立つ。それから手を合わせながらわざとらしく黄山との件が大事にならないよう祈り始めた。ふと、苗字の携帯電話が鳴る。苗字は祈りをやめて携帯電話の画面を確認した。着信音の長さからおそらくメールを受信したと思われる。

「困っちゃったな」

小さな声だった。震えている苗字の声音に何事かと思い俺は勝手に苗字の携帯電話を覗き込んだ。俺の予想通り苗字の携帯電話に届いたのはメール。しかも、華房から。華房から届いたメールには近々会いたいという内容が綴られていた。苗字は携帯電話を制服のポケットにしまい、隣に立つ俺を見上げる。

「こんな顔じゃあ、雅さんに会えないや」

苗字の頬には傷がありそして口は切れてどれも痛々しい。華房は苗字に対し顔に傷をつけないよう言いつけていた。つまり、もう二度と喧嘩するなという意味である。それを破ったとあれば華房は当然苗字のことを叱るだろう。憎いとか嫌いとかそんな理由ではなく、苗字のことが大切だから怒る。だけど、俺に言わせれば今回の喧嘩は緑ヶ丘を守りたい苗字なりの選択であり、もっといえば、これは華房のためでもあるのだ。華房が愛した緑ヶ丘の生徒を苗字が守りたくて負った傷。俺なら、それごと愛してやれるのに。

「それなら、会わなくていいだろ」

俺は入学したばかりの頃の苗字に憧れていた。澄ました顔に、喧嘩している時の冷めた横顔、誰も寄せつけようとしない孤高の一匹狼を俺は慕っていたのだ。それは、今も。そう思っていたけど、本当は違った。華房の言葉をかりるなら、俺は苗字にいつからか恋していたのである。苗字が華房のものになってから気づくなんて、俺はバカだ。

「悪い苗字。俺、おまえのことが好きだ」

苗字の大きな瞳が驚いたように見開くが俺はそれに気づかないふりして苗字の細い手首を掴んで引き寄せた。誰も触れたことがない苗字の唇を塞ぐ。あの華房でも触れたことのない苗字のそれを一番最初に俺が奪ってやった。唇を離したあとの苗字はどんな反応をするのだろうか。あの綺麗な顔で涙を流すだろうか、それとも、あの綺麗な顔で怒り殴りかかってくるだろうか。どちらにせよ、これから先苗字が苦しむことに変わりはない。だけど、俺の苗字に対する想いは離れるには今まで近すぎたせいで大きくてもうどうしようもなかった。




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