明日の約束 1


「あー、疲れた…」


朝からぶっ通しだったバイトから解放されて、ようやく帰ってきた。床に落ちている短ランやスウェットを足で払ってベッドに倒れ込む。飯は後でいい。とりあえず寝たい。
ガリガリと頭を掻く。ワックスで固めた髪は繰り返したブリーチで痛みまくっている。レザーブレスを机に投げて三連ピアスを外す。寝転んだままカーゴパンツを脱いで毛布を被った。……………おかしい。いつもなら布団に潜り込んでくるはずの、


「…スゥ?」


そう、スゥがいない。スゥ、というのはペット、になるのかどうかは知らんがウチで飼っているスライムだ。スライムだから、スゥ。ネーミングセンスがないとか言うな。ガキんときにつけたんだから仕方ねーだろ。
小学生のときに見つけたスライム…スゥは、紫陽花の葉にちょこんと乗っていた。小指の爪くらいの大きさで、しかも透明だったから雨粒だと思った。丸い目に小さな口、見たこともない生き物に驚いて、連れて帰った。

あれから八年。バスケットボールくらいまで成長した。餅が好きで、ピーマンが苦手。スゥが白かったら共食いだな、と言ったら身体を赤くして怒られたこともある。悲しいときは青くなって、嬉しいときは黄色くなる。スゥの感情はわかりやすい。


「スゥ、どこだ」


重たい身体を起こしてスゥを呼ぶ。いつもならすぐに近付いてきて、抱っこ、と短い手を伸ばすのに今日は出てこない。
部屋を見渡せば少しだけ開いたままのクローゼットが目についた。きょろりとした瞳はオレと目が合うとすぐに引っ込んだ。薄く緑に染まった身体に思わずため息が出る。拗ねたスゥの機嫌を取るのはかなりめんどくせぇ。


「…なに拗ねてんだよ」

「っ、や!」


洋服がごちゃごちゃ詰まったクローゼットからスゥを拾い上げれば、手足をバタつかせて離れようとする。ハイハイと適当に頭を撫でながらベッドに横になる。だんだん濃くなる緑色と、ぷっくら膨らんだ頬。何に拗ねているかは知らんが、拒否されるのは案外ツラいぞ。


「はなしてよぅ」

「だーめ。なぁ、オレなんかした?」

「…わすれて、る、」

「は?」


忘れてる?オレが?何を?
意味がわからなくて首を傾げれば、スゥの身体がみるみるうちに青く変わる。丸い目には涙が浮かんで、ぽたん、とオレの腕に落ちた。


「な、なに泣いてんだ!」

「うぇっ、きょ、きょうは、スゥと、けぇき、たべるって…」

「ケーキ?スゥとケーキ………あっ!」


慌ててスゥの涙を拭いながら考えて、思い出した。そうだ。そうだった。今日はスゥの誕生日、つってもオレが拾った日なんだけど、だから、一緒にケーキでも食うかって言ったんだった。
甘いもん全般好きなスゥはケーキのなかでもチョコレートケーキが一番好きで、特に近所のケーキ屋のザッハトルテが大好物だったりする。買ってくるって約束してたのに、すっかり忘れてた。

シフトを代わってほしい、と今日の朝早くに先輩から連絡があって、世話になってる先輩だったから仕方なく引き受けた。今日に限って忙しいし、寝起きの頭じゃスゥとの約束を思い出せなくて、今の今まで忘れていた。


「悪い。バイトは言い訳になんねぇよな…」

「たの、しみに、して、た」

「うん。ほんとごめん」

「ふぇ…」

「悪かった。今から買いに行くか?」

「やぁだぁ!」


ポロポロ涙をこぼしながら、小さな手がオレのシャツを力一杯握り締める。つるんとした背中をさする。青と緑が混ざって渦みたいな模様をした身体から、スゥの気持ちが伝わってきた。
ごめん、ごめんな。頭のてっぺんに唇を落とす。ぐすり、と鼻を鳴らしたスゥは潤んだ瞳で見上げてきた。


「きょうは…ぎゅう、してて」

「おう」

「あした、けぇき」

「おう。一緒に食おうな」

「ん、」


ぽすん、オレの胸に顔を埋めて、ぐりぐりと擦り寄る。潰さない程度に腕に力を込める。ようやく落ち着いたらしく、身体が透明に戻った。とん、とん、と優しく叩くと、スゥの中心に淡いオレンジが浮かぶ。…よかった。機嫌直ったみたいだな。
安心したせいで眠くなってきた。スゥの体温を逃がさないように抱きかかえて、重くなった瞼を閉じた。









「…だぁいすき」


小さくささやいた言葉も、溶けるように笑った顔も、鮮やかに染まった桜色も…そっと触れた唇の熱も、寝ているオレは何一つ気付くことはなかった。




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さくひん
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