▼ 2
「……あの、さ」
決心して口を開くと、ネクロの肩が大きく跳ねる。……こんなに自分に余裕の無いネクロは初めて見る気がする。
「本当に、ごめん」
「っな、んでナトリちゃんが謝るの? 昨日は俺が――……っ」
「違う。俺が答えをちゃんと出さないから。そうだよね?」
「そっ」
「昨日のネクロは何も間違えてないよ、俺は、酷い事を……してる」
喋ってる内に、次は俺の顔がだんだん俯いていった。
でも言わなきゃいけない。そんな醜い事を考えていたんだと呆れられ、嫌われる事になっても、ちゃんと言わなくては。
あんなに、ネクロにあんなに責めさせる事を俺は確かにしているのだから。
「でも…………ごめん……やっぱり俺は、ちゃんとはっきりとした答えが、出せない」
俯きながらぎゅっと拳を握る。
「ネクロも、アズも……好きなんだ、同じくらい。でもその『好き』が……ネクロ達の同じ物なのか分からない。本当に情けないけど、自分の事なのに分からないんだ。もしかしたら俺はネクロやアズに好かれていたいから、こんな風に答えをだらだらと引き伸ばしてるんじゃないか、って……ごめん、本当に……ごめん」
情けなくて、申し訳なくて。嫌われたって仕方が無いと唇を噛んだ。……でもその嫌われたくない、というのも友人として嫌われたくないのか恋愛対象として嫌われたくないのか分からなかった。
こんなに自分自身の事が分からない事なんてあるのだろうか。それが酷く情けない。
「ごめん……」
「分かってる」
そっと俯いていた頭を撫でられる。
「ごめんね、ナトリちゃん。俺、分かってるんだ。ナトリちゃんが、ちゃんと考えてくれてるから答えが出ないんだって事。でも昨日、ニヤが押し倒してるって思ったら頭に血が上って」
一呼吸置いて、ネクロが小さく笑った。
それは苦笑のような、自嘲のような響きがあって、ネクロの言葉から緊張がわずかに抜ける。
「あのね、俺、ナトリちゃんの事本当に好きなんだよ。それだけは、誰にも負けないって思えるくらいに。おかしいよねぇ……。ずっと一番にはなれなくて、一番になることなんて諦めてたのに……。これだけは、誰にも負けたくないって思えるし、負けるつもりもないって」
でもねぇ、と言葉が続く。
「でも、ニヤだけは時々、敵いそうに無いって思うんだぁ」
「二夜、に?」
「そぉ」
ネクロと二夜を比べて、二夜が劣っているだなんては思わない。二夜には二夜しか持ってない良い所がある。けれど、ネクロが二夜をそう捉えているのはなんだか意外だった。
「ニヤはねぇ、家が近くて幼馴染とまでは行かなくても、結構長い付き合いなんだぁ。だからニヤは俺の事を一番知ってる。俺の家の事も、俺自身の事も……。それでも俺の友達でいてくれる、とぉっても良いヤツなんだよねぇ」
本当、良いヤツ……。と、小さくネクロは再度こぼした。
「だから敵わないって思うし……それにねぇニヤの親友としてはさぁ、ニヤにはちゃんと幸せになって欲しいって思ってるんだよねぇ……」
今までこれ程好きになった事がない、と思えるほど好きな相手がいて。
今まで自分を支えて、受け入れて、一緒にいてくれた大切な友がいて。
自分の幸せと、その大切な友人の幸せが両立出来ない物だとしたら。
その可能性が脳裏をよぎった瞬間、怖くて、怖くて。
――
一瞬にして頭を埋めた友人への、殺意に等しい怒り。
――どうして俺を選んでくれないの。俺を選んでくれれば、こんな事。
そして大切な友人にそんな想いを抱かせた原因への憎しみ。
八つ当たりも甚だしいのは分かっている。分かっていても、止められない。
好きなのに、どうして嫌わなければいけない。
大切なのに、どうして傷つけなければいけない。
幸せを願っているはずなのに、どうして。
(俺は、やっぱりどこかおかしいの)
そうしていつもの自己嫌悪に入って、周りが見えなくなって。
「ネクロ」
急に黙りこくったかと思うと、暗く沈んだ瞳をしていたネクロをそっと呼ぶ。
すると肩がビクリと跳ね、目が覚めたかの様にハッと顔を上げるとネクロは困ったように小さく笑った。
「……やっぱダメだねぇ、俺。どぉしても色々考えちゃう」
そうか細く言うネクロの事を全て分かる事なんて出来ない。でも、少しでも良いから分かち合いたい。
「俺は、一人しかいないから。一人しか選ぶ事は出来ない」
「……うん」
「ネクロを選ぶかもしれないし、アズを選ぶかもしれないし……。誰も選ばないかもしれない。選択肢に二夜が入る事はないって断言も出来ないかもしれない」
でも、一つだけはっきりとしてるのは。
「でも、例えネクロを選ばなくても、それはネクロを捨てるとか、ネクロが劣ってるとか思ったからじゃないっていうのだけは覚えておいて欲しい」
ネクロの中には、一かゼロか。良いかダメか、の極端な二択が無意識にあるような気がする。
そしてネクロはいつも、そのダメな方に自身を振り分けてしまう。
そうでは無いのだという事がどうか伝われば。
「……選ばれなかったのに、劣ってない?」
「俺は劣ってるとか、劣ってないとかで好きにはならないよ?」
「……でもさ、例えば選んだ理由が『優しいから』っていうのは、俺に優しさが足りなかったって事じゃなぁい?」
不思議そうな、どこか納得がいかない顔をしてネクロは首を傾げた。
「うーん……そうなるかもだけど、でも相手の好きなところを言葉にするのって、後付けだと俺は思うんだ。
お金とか地位とかに惹かれて、とかだったらまた違うけど、俺はそういうので恋人を選ぶつもりは無いし?」
「うーん……?」
「ほら、例えば。好きな相手よりも見た目が良くて、優しくて、性格も良くてっていうような人がいてもさ、やっぱりどうしても好きな人が好きなんだよ」
幼い頃、もう顔も思い出せない相手に抱いた淡い恋心を思い出しながら語る。
好きになってしまったら、もう理由はいらない。どうしてもいるというのならば「好きだから」だ。
「……ああ、そっか……それは、分かる」
小さく呟いた後、ネクロはそっと息を詰めると絞り出すように囁いた。
「……俺はまだ、ナトリちゃんの傍にいてもいい? ……ううん、いたい。だから……」
おずおずとそう聞かれて思わず目を逸らす。
一途なその想いに応えられない後ろめたさが俺を苛んだ。
「……俺はネクロの気持ちにすぐに応えられない。もしかしたら良い返事も出来ないかもしれない。それでもこんな俺なんかの傍にいてくれるっていうなら、俺は凄く嬉しいけど……ネクロは辛いんじゃないかって」
そう言いよどむと、ネクロにギュッと手を握られた。
「ナトリちゃん、忘れていいよ」
「え?」
「ナトリちゃんがその事で苦しむくらいなら、俺が告白したこと忘れて良い。今は友達として傍にいさせてくれるだけで良いから。だからね、これはただの仲直りって事にしよう。あんなにナトリちゃん責めてごめんねって、怖がらせてごめんって。……許して、これからも仲良くさせて欲しいなぁって、ね?」
微笑みながら、そう告げたネクロに胸が詰まる。
ネクロにそこまで言わせたことが申し訳なくて、そしてそれにホッとしている自分が許せなくて。
「ネクロ……」
「ああもう、泣いちゃダメだよぉ」
「だって、どんだけお人好し……ッ」
「……ナトリちゃん限定なんだけどねぇ……」
「え?」
「ううん、なんでもないよぉ。こぉんなイイオトコなのに、好きにならないとかおかしいって言っただけぇ!」
ぼそりと呟いた言葉が聞き取れず、聞き返すと明るい笑みでそう言われて抱き締められた。
「許してくれるぅ?」
「そんな、最初っから言ってるよ、許すとか許さないとかじゃなくて……」
「でも怖かったでしょ?」
「それは……その、ちょっとだけ」
「ね、だからごめんね」
「……う、ん……」
これは頷かないと、ずっといたちごっこだな、と思って渋々頷くと嬉しそうにネクロは笑った。
するり、と尻尾が太腿に絡んできて、ぐりぐりと頭に頬を押し付けられる。が、ピタリとそれを止めたかと思うと、静かな声でネクロが喋りはじめた。
「ね……この会話が終わったら、俺の告白は無かったことにしていいから、一つだけ教えて。……ナトリちゃん、あの犬野郎に教えて俺に教えて無い事、ない?」
あの犬野郎って……アズ、の事だよな?
「アイツ……なんか勝ち誇ったような態度とってさ、それが凄い腹立って。それからずっとカリカリしてたんだと思う。何か……アイツにシたの?」
アズに教えて、ネクロに教えていないこと。
思い当たる事といえば一つしかない。
(――俺が、人間だという事……)
アズにそれを教えたのは、嘘を吐いたままではアズの気持ちに申し訳ないと思ったからだ。
そしてネクロは告白を無かったことにしても良い、と言ってくれているけれど、それでも好意を抱いてくれているのに告げない事は……卑怯だ。
ネクロに人間であることを告げようとして……そして、やはり嫌悪されるのが怖くて言いよどむ。
悪夢の中のネクロの眼差しが脳裏をよぎる。が、どこかネクロを信じている心が大丈夫だとも告げていた。
ネクロはそんな相手じゃ無いと。
一つ息を吸い込み、覚悟を決める。
「……俺、一つだけ嘘を吐いてるんだ……」
「ウソ?」
覚悟が揺らぎ、少し口籠った俺の前髪をさらりとネクロが梳いた。
「俺ね、こんな俺を受け入れてくれたナトリちゃんの嘘の一つや二つ、受け入れるくらい簡単だと思うんだぁ」
だから、教えて。と言外の言葉に背を押され、微かに震える声で続きを紡ぐ。
「俺……本当は、カラスじゃない。鳥じゃないんだ。……人間、なんだ」
告げた後、唇を噛み、そして顔を上げるとネクロが黄緑の目を見開いてこちらを凝視していた。
「……ニンゲン、って、あの、ニンゲン?」
「そ、う。」
「それが本当の姿?」
「……うん。」
途端にネクロの目がきらきらと輝き出す。
「ナトリちゃん、そうなんだ、そうなんだ……!」
がばっと抱き締められたかと思うと、両脇に手を突っ込んで持ち上げられ、その場でぐるぐるとまわり始めた。
「そっか、そっか……! ナトリちゃんが人間……! そうか、ナトリちゃんが、俺らの始まり……!」
まさか喜ぶとは思っては負わず、その喜びように度肝を抜かれ、唖然とネクロを見つめる。
頬を紅潮させ興奮しているのが良く分かり、その表情はどこかうっとりとしているようにすら見えた。
ナトリちゃんがニンゲンだという事は、まるでパズルのピースがカチリと嵌る様に自分の中に落ち着いた。
こんなにも“ナトリ”という存在に惹かれる理由。それは彼がニンゲンだから、という事で全て片付けるつもりは毛頭無い。
けれど関係無いとは言い切れない。
自分達獣がニンゲンの姿をとれるようになった理由。
それはニンゲンとの間に子が出来た訳でも、血を受け継いだ訳でもない。一人のニンゲンを愛し、傍に居たいと強く願った獣に与えられた奇跡。
ならばその力を自然と受け継いでいる自分達が“ニンゲン”に惹かれてしまうのは仕方ない事なのかもしれない。
ニンゲンに姿を変えるという奇跡を、どう他の獣に分けたのかは知らない。
けれどこの姿は、この力は、自分達は、ニンゲンを愛した結果、今こうしているのだ。
まるでそれは自分の存在が、ナトリちゃんの為にあるかの様で。そう思うだけで叫びたい程の喜びが胸を突いた。
そんな単純な話では無い事は分かってる。
そんな事を言ってしまったら、他の存在だってナトリちゃんの為にあるという事になってしまうし、ニンゲンだったら誰でも惹かれてしまうのかという話にもなる。
ナトリちゃん以外のニンゲンに出会った事が無いから断言は出来ない。
もしかしたらナトリちゃん同様、ふらっと惹きつけられてしまうかもしれない。
けれどきっとそれはこんなにも強く焦がれる心にはならないだろう。
きっかけは、無意識下でナトリちゃんの『ニンゲン』の部分に惹かれたから。
けれどそれを育んだのは、ナトリちゃんが“ナトリちゃん”だったから。
ナトリちゃんじゃなければこんなにも好きにならなかった。こんなにも狂おしく想う事は無かった。
それだけは、断言出来る。
(やっぱり好きなんだ。好き、大好き……ああ、俺のものにしたい)
全ての獣がニンゲンに惹かれるなら、ナトリちゃんは今頃会う奴会う奴全てに好かれているだろう。
確かに多くを惹きつけてはいるけど、それでも全部では無い。
つまりこの気持ちはニンゲンだから、という言葉では片付けることの出来ない、本当の恋心なのだと再認識して、それがまた嬉しくて。
ナトリちゃんを強く抱き締めて、その場でくるくると回る事で衝動を流していた。
嬉しそうに目を輝かせるネクロに思わず驚き、回されながら肩を掴む。
そもそもそんなあっさりと信じてくれる事にまず驚きだ。アズの時みたいに羽を除けたわけでもないのに……。
「ね、ネクロ、疑ったりしないの?」
「嘘だと思えないしねぇ。それに、ナトリちゃんの言う事なら嘘でも何でも良いよ」
さらりと凄い事を言ったネクロにぐるぐると回された後、ぎゅっと一度抱き締められて床に下ろされる。
……この床に下ろされるって表現がなんとなく不満だ。
「でも烏の匂いもするよねぇ? 薄いけど、体臭薄いのかなって気にしなかったけど」
「あ、エレミヤ先生にもらった羽をいつも持ってるから」
「あー、なるほどねぇ」
納得したように頷いたネクロは瞳を光らせて、じっと俺を見つめた。
「ねぇ……ナトリちゃんがニンゲンだって知ってるのって、あの馬鹿犬と、学校ちょーと、後、ダレ?」
真剣で、どこか絡みつく様な視線に気圧されて少し後ずさる。
「後……ギリア先生と、二夜……あ、保健室の先生も、かな」
「ニヤちゃんも? 何で?」
「その、俺が初めて会ったのが二夜で」
「ふぅん、そうなんだ」
どこか面白くなさげに唇を突きだすネクロ。が、ふと何かを思いついたような素振りをすると微笑みながらこちらを見た。
「……ニンゲンだってこと、教えてくれてありがとう……ナトリちゃん」
「う、ううん、そんな……俺こそ、まさかあんな反応してもらえるとは思わなくって」
「だぁって、嬉しいよぉ? ……まぁ、それは置いといて」
ねぇ、ナトリちゃん。
その声に何故かビクリと肩が跳ねた。顔を見れば微笑んだままのネクロ。
でもその瞳にじっとりと背中に汗を掻く。
時折ネクロが見せる瞳。猫だというのに、ねっとりと、まるで蛇の様に絡みついて。
気を抜けば知らないうちに飲み込まれてしまいそうになる。
……怖いのは、それを知らず望んでしまうのではないかと思ってしまう事。
ごくり、と唾を飲み下して視線を合わせる。
「……この部屋の扉が開いたら、その瞬間から俺達は友達。俺の告白は忘れちゃって良いから」
だから、最後に。
「キス、もう一回だけさせて……?」
――お願い、と。
ただでさえネクロに酷い事をしていると心苦しく思っているのに、そう儚く微笑んだネクロを断る事なんて出来なかった。
だから一度だけなら、と頷いて――思わず、後悔をした。
頷いた瞬間、頭の両脇に手を差し入れると思い切り引き寄せられて唇が重なった。
ぐしゃりと髪をかき混ぜられ、耳を何度も指の腹でなぞり、撫でられる。
何よりも舌が、口の中に、入ってきて。
キスは挨拶代りだったと言えど、ネクロはそういうつもりじゃないというのは重々分かっている。何よりこのキスを挨拶だなんて思える訳が無かった。
歯列をなぞられて、舌を絡められて、唾液を啜られて、何度も、何度も、唇が重なって。
もう立っていられなくなりそうになった頃、漸く唇が離れた。
「……忘れて良い、無かった事にして良いから……。でも、もしも俺の事を好きになってくれたら……思い出して」
吐息が掛かる近さのまま、そう掠れた声で囁かれた。
32