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濡れた頭を拭きながら部屋に戻り、自分のベッドにダイブする。
ぎしりと軋むスプリングの音を聞きながら目を閉じた。まだちょっと後ろがひりひりしてる気がする。
(けど、まぁ……。その、痛いから付き合わない、とかそんな考えにはならないけど)
もしも、お付き合いする事になったら優しくしてもらう様に願わんばかりだ。
(――って、もしもって何さ)
何を他人事の様に考えているのか。でも真面目に考えれば考える程、自分の気持ちが分からない。
また悶々と考えている内に、俺の瞼はいつの間にか閉じられてしまっていた。
――真っ白だ。
目を瞬かせながら、またこの夢かと思った。
最近こんな真っ白な空間にいる夢をよく見る気がする。
風邪を引いた時に似たような夢を見る、というのと似ているのだろうか。
(ずっと悩んでるからこういうの見るのかな)
あれ、でもこんな夢を見始めたのはいつからだったっけ、と小首を傾げた。
悩み始めてからの気もするし……そうじゃない気もするし……。
それにしても、夢と分かっていて見続ける夢というのはどうも落ち着かない。
早く目が覚めないかな、と思っていたら、ふと視界の端で何か見えたような気がしてそちらに顔を向ける。
そこには一人の男性が座っていた。
黒い髪に、黒い瞳。長い髪を軽く結い、上は着物で、下は八分丈くらいの袴を履いている。
「日本人……!?」
慌てて駆け寄って手を伸ばすが、俺の手はその人をすり抜けてしまった。
よくよく見てみれば、その人はうっすらと透けていて、俺に気が付いてはいないようだ。
優しげな面立ちのその男性はふと顔を横に向けると、慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
俺も男性が向けている方向に目を向けるが、そこには何もいない。……彼にしか見えていないのだろうか。
(――……ント――)
彼は立ち上がって、まるで愛おしい人を呼ぶように誰かの名前を口にした。でも何故か違和感を覚える。
(――そうだ、目線が低い)
人ではありえない高さに設定された男性の目線に、はっと気づく。
もしかして、目線の先にいるのは人間ではなく、二夜やネクロみたいな動物の……。
だけど目の前の人は、どう見たって昔の日本人に見える。こっちの世界の過去が日本文化に似ていたならばまだしも、こっちの世界で受けた授業からは、どちらかと言うと西洋文化に似ていると感じた。
何で俺の世界と、こっちの世界がごちゃまぜになった設定なんだろう。
夢だから。という言葉で片付けるには、目の前の男性はとてもはっきりとしていて、とても愛情にあふれていた。
……ふと、ある可能性に気付いて記憶を漁る。
――千年経たないと、向こうとこっちの世界は繋がらない。という事は、それはつまり、俺が来る前にこっちに来た人は、千年前の人間というわけで。
そしてもう一つのおとぎ話を信じると、その繋がる場所ははあの学校のトイレの場所になるから、余程タイミング良くそこを外国人が通らない限り、日本人である可能性が高い訳で。
千年前の人って言ったら……えっと、平安、くらいかな?
つまり、俺の前に来た人は、平安時代の日本人。
――目の前の男性はその条件をクリアしてはいないだろうか。
思わずぎょっと目を見開く。
平安時代の服装とか余り分からないけれど、とにかく日本古来の服装に身を包んだ男性が、人間では無いであろう存在を愛おしい目で見つめている。
これはエレミヤ先生から聞いた話と寸分違わなくはないか。
(これは、本当に、夢か?)
少し怖くなって後ずさる。
夢だと。今まで得た情報から俺の頭が作り上げた映像だ、とはっきりと言い切れない何かがあった。
じゃあもしもこれが夢でないというならば、どうして俺はこれを見ているんだろう。
こっちの世界に来た人間だから?
それとも……誰かが、俺に見せているのだろうか。
(――『誰』って、何)
本当に怖くなって両腕で体を抱きしめた瞬間、背後にあたたかい気配がした。
振り向こうと思ったら、以前の様に目を覆われてしまう。
『時はまだ来ていない。けれど、いつかは選択する時が来る。……その時に、幸せになれる選択をしなさい――』
――彼の様に、と暖かい声が頭に響いて、そこで俺の夢は途切れた。
幼い頃、人形を誰かに貰ったことがある。
それは手足を別にくっ付けてあって、四肢を動かせるようになっている作りだった。
誰から貰ったのか覚えていない。ただ、いたく自分はそれを気に入っていて、どこに行くにも連れ回していたことは覚えている。
ある日、関節部分に何か引っかかったのか、腕が軋み、動きが悪くなった。
そのことが酷く腹立たしかった。大切にしていた人形が、まるで自分に反発しているようで。
だから思い切りそこを力任せに動かしたのだ。結果、ぽろりと人形の腕は音も無く取れてしまった。
幼い頃から、他と比べると自分の思い通りにいかない事が気に食わない性分だったと思う。ゲームの勝ち負けだけに限らず、全てが。気に入っていると、尚更。
「ゔ、ぇ……っ」
何時間こうしているのだろう。
白い便器に顔を突っ込み、吐くものが無くなっても何度も何度も嘔吐いた。
立ててある便器の蓋に力無く手を掛けなが、ら荒く息を吐く。
――どうして。
どうして自分を抑えられないのだろう。
どうしてカッとなると、壊してしまうのだろう。
毎回毎回大切な物を壊しては、茫然と手の平を眺めるのだ。
壊れてしまったあの人形と、昨日責め立てた好きな人が重なり、胃液が逆流してくるのを感じた。
爪を蓋にがりがりと立てる。嘔吐の苦しみと、それ以上の心の痛みに両目から涙が止まらない。
「……だ」
自分の思い通りにいかないと手を上げてしまうこの性分は、親から譲り受けたのだろうか。
虐待された子は虐待するようになるという話を聞いたことがあるが、それなのだろうか。
だって、好きだから、大切だからこそ、思い通りになって欲しい。そうしたらもっと好きになれるじゃないか。
(違う、おかしい)
好きだから縛り付けたい。好きだから自分だけを見ればいい。
好きなのに、こんなに好きなのに。答えてくれないなら力尽くにでも。
(――そんなの、ダメだ)
「……いや、だ……」
呻く様に呟く。
またいなくなるの。傍から離れていくの。俺が壊したの。あの時みたいに。
勝手に期待をしたのは両親だ。でもそれに応えられなかったのは、自分だ。
勝手に期待して、それが無理だと分かると、手の平を返したようだと鼻で笑った。――鼻で笑わないとやっていけなかった。
「嫌だ、いやだ……!!」
髪を掻きむしって泣き喚く。
――もういなくならないで。傍にいて。俺を愛して。
心が叫ぶのに、思い通りにならないと壊してしまう。自分から相手が離れていく原因を作ってしまう。そしてまた泣き喚いて傷つけるんだ。
「どうして……っ!!」
この負の連鎖から抜け出せない。
あんなに大切にしようと心に決めたのに。
こんなに好きになった事なんてないのに。
自分の不安を打ち明け、こんなにヒトとして足りない存在なのだと話し、それでも自分を受け入れてくれた存在を傷つけた事が許せない。
「ぁあぁ……」
呻いていると、トイレのドアを叩かれた。
「ネクロ、もう一晩中そこから出て無いだろ。……ちょっとここ開けろ」
同室者の声に涙を腕で拭いながら、吐きすぎて痛む喉から掠れた声を出す
「……嫌だ」
「嫌じゃねぇよ。そのままだと体力消耗するだけだろ、ちょっとで良いから開けろよ、な。少し腹に何か入れて、水分補給して、一緒に少し話そう」
「……イヤ」
「……ミツルはお前の事嫌ったりなんかしてないよ、きっと」
出された名前に息を呑む。
「そこに入ったままじゃ何も変わんないだろ、誰かと話すだけでも整理つく事あるんだからさ。んで、落ち着いたらミツルに謝ればいいだろ……?」
「何、言ってんのさ」
思った以上に冴え冴えと冷たい声が出た。
汚れた口元を掛けてあったタオルで荒々しく拭き、嫌な味のする唾液を飲み下す。
「許してくれるわけ、ないじゃん。ナトリちゃんがちゃんと考えてくれてるの分かってたのに、呼吸も上手くできなくなるまで責めて。あんな……あんな……っ」
同性に告白されて彼はどれだけ悩んでいたのだろう。
じゃあ取りあえず付き合ってみる? と気軽に言えない心の優しい子だ。
友情と恋愛の線引きにどれだけ頭を悩ませていたのか。真摯に受け止めてくれたあの眼差しを、どうして忘れてしまっていたのだろう。
自分の体の下で痙攣を起こした小さな体を見て、漸く彼が抱えていた悩みの重さを知ったなんて。救い難い馬鹿にも程がある。
「俺が、また壊しちゃった……。はっ、あはははっ、バカだ、俺!」
「そんな事無いから、な? ネクロ」
「五月蠅いなぁっ!!」
衝動に任せて思い切りドアを開け放つと、目を見開いていたニヤを押し倒して叫ぶ。
「ニヤは良いよね、まだ嫌われてないんだから! そんな事言いながら心の中で嗤ってるんだろ! また同じ事繰り返してるってさ!! ああそれともニヤちゃんナトリちゃんの事好きだから障害が減って嬉しい? 何その顔、バレて無いとでも思ったの、バレバレだよ、馬鹿じゃないの、本当……っ!」
ニヤの首を両手で掴み、ぎりぎりと締める。
ニヤの顔が歪み、どんどん赤くなっていった。
「……っは、ネ、ク……っ」
「こうやって……こうやって俺の腕の中からナトリちゃんを奪おうとする奴を殺して行ったらナトリちゃんは俺を好きなってくれるかな。俺だけを見てくれるかな。もう悩まないで済むのかな。……駄目だよね、もう無理だよね。こんな事したってナトリちゃんは振り向いてくれない。……でも、でもさ、ねぇ、誰の手にも渡したくないんだよ。俺から離れて行って、誰かの物になるの見るくらいなら……嫌われてもどっかに閉じ込めちゃいたい。ああ、そうだ。誰かの物になるならその前に皆消しちゃえば良いよね。……もしかしたらさ、皆いなくなっちゃったらナトリちゃんもこっち見てくれるかもしれないじゃんか……」
喋っている端から、そんな事したって無駄だと分かっていた。
笑いながらニヤの首を絞める。
ああ、一番の友達まで壊そうとしてるよ、俺。
ニヤの顔にぱたぱたと水滴が落ちるのが分かった。
もう、もう……誰か止めてくれ。
「ネク、……ロ!!!」
「ぐぁっ!」
ニヤが力を振り絞って大声を上げると、腹に一発膝を入れられた。
思わず緩んだ手から咳き込みながらニヤは抜け出すと、睨み付けながら口を開く。
「ミツルは、そんな奴かよ……」
「……え?」
「お前が好きになったミツルはそんな奴かって聞いてンだよ!」
尾を膨らませながら全身で怒っているニヤを、ぼんやりと見上げた。
質問の意味が頭の中に入って来ない。
「誠心誠意謝ったとしても許してくれないような奴じゃないだろ、ミツルは! お前はミツルのどこを好きになったんだよ……! 一度も行動しないで嫌われたとか、甘ったれた事抜かすな馬鹿!」
その言葉に、頬を張られた様な気分になった。
目を何度か瞬かせた後、ぽつりと呟く。
「……ナトリちゃんは、そんな子じゃない……」
「そうだって言ってるだろっ」
「……うん」
壊れかけていた自分がピタリと崩壊を止めた気がした。
どうすれば良いのか分からなくて、自分の手では収まり切れなかった衝動が萎んでいく。
「……ニヤ」
「何だよ」
「……お腹空いた」
「……じゃあ風呂に入って来いよ。それまでに何か作っとくから」
不機嫌そうに尻尾で床を叩いていたニヤは、そう言うと溜息と共に背を向けた。
この学園に入る前から付き合いのある親友。自分の負ってる傷を知っていて、暴走する度に止めてくれる気の優しい奴。
「飯食べたらミツルんとこ行くからなっ」
「ニヤちゃん」
「何だよ、嫌とか言ったら殴るぞ」
「ニヤちゃんなら……ナトリちゃん譲ってあげても良いって、ちょっとだけなら思うよ」
「はっ?」
ポカンと口を開けてこっちを見るニヤは本当に間抜け面だ。
「い、今の話の流れそんなんじゃ無かっただろ。てか、譲ってあげるって何だよ、譲るって……あげるって……そもそもちょっとだけって……」
ミツルはネクロの物じゃないし、というか誰かの物でもないし、それに別に譲られなくたって……とかぶつぶつ呟いている二夜ちゃんはそりゃもう一人百面相で面白い。
「まぁ安々と譲るつもりはないけどぉ」
「だから! 譲るとかじゃなくて!」
「じゃなくて?」
「……お、俺が奪ってみせる」
「あはっ俺から奪い取れるとでもぉ? 無理でしょ、それは」
「あ、言ったなこのやろ!」
「まぁ、そのヘタレ具合を直さない限り無理だろうねぇ」
「てめぇ……オムレツん中にチーズ入れてやる……」
「うわ、陰険ー。やだやだ、器の小さい男って」
さっきの事なんて無かったかの様にいつも通りの軽口を叩き合うと、小さく笑いながら風呂場に足を向けた。
「あ、それとニヤちゃん」
「まだなんかあんのかよっ」
「……ありがと」
「……ん」
短い返事と共にゆらっと尾を振って見せたニヤ。
この言葉だけで足りる友達を持ったことに感謝をしながら、風呂場へ向かう。
シャワーを浴びてすっきりしたら、腹に何か入れて、そして傷つけてしまった好きな人に会いに行こう。
「あーあ。オムレツにチーズ入ってないと良いなぁ……」
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