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「俺は……分かんない」
正直に答えると二夜の尻尾が更に強く巻きついて、手も強く握られる。
動揺したように身動ぎする二夜の前髪が揺れて、潤んだ水色の瞳が一瞬見えた。
「でも」
二夜の髪を掻きあげて、笑いかける。
「此処に居たいって気持ちも、確かにあるんだよ」
「……うう……っ」
掻き上げた方の俺の手に頬を押し付けて、次は二夜が泣きだした。
「行かないで……。帰らないで欲しいんだ」
「……うん。ありがとう」
こんなに思われているなんて幸せだなぁと頬を緩め、二夜の頭を撫でようとした瞬間。
「……ねぇ、何シてんの?」
聞いた人は全員その場で凍りつくような声が室内に静かに響いた。
瞬間、風を切る音が聴こえて、俺と二夜の間に脚が刺しこまれた。
それを上に跳ねあげれば二夜の顔面に。下に振り落せば俺の顔面に確実に物凄いダメージが与えられるだろう。
「え? え? どゆこと? 部屋に入ったら、ニヤがナトリちゃんを素っ裸で押し倒してて? え? 全然意味分かんない。ねぇ何シてたの? 何スるつもりだったの? え? 無理矢理? 無理矢理? 無理矢理なの? 無理矢理ならニヤでも駄目だよそれは駄目。いくらなんでも、ねぇ? え? 殺されたいの? 俺に? 俺に殺させるの? え? まさか同意? 同意なの、ナトリちゃん。同意なわけないよねぇ、同意なら……うん。同意でも蹴らせてニヤ。とりあえず一発」
凄い勢いで喋るネクロが無表情で二夜を見下ろすのが目の端に見えた。
「ちょ、ま、待った!ネクロ!」
大声を上げると、ネクロの顔が歪む。
「同意なの?ねぇ、ナトリちゃん」
「ど、同意とか分かんないけど、とりあえず、あ、脚、脚下ろそうよ! あ! 俺の顔面じゃなくて、脚を抜いてから!」
必死に懇願すれば、ネクロの脚がゆっくり間から抜かれた。
抜かれた瞬間、二夜がポンっという音と共に猫の姿になる。
べしゃりと胸の上に落ちてきた二夜は「死ぬかと思った。ぜってぇ蹴られると思った……!!」と繰り返しながらぶるぶる震えている。どうやら気が抜けると、急激な戻り方をするみたいだ。
怯える二夜があんまりにも可哀想で思わず抱きかかえると、ネクロが更に顔を歪め、二夜の後ろ首を掴んで背後に放り投げた。
「え!?」
ビタン! と遠くの方で聞こえて、慌てて身を起こそうとすると、次はネクロが俺の上に跨ってくる。
「ちょ、ネクロ! 何で二夜……っ」
「猫だから大丈夫」
「猫だから、って……」
しかし投げ飛ばされた二夜と思わしき塊は、視界の端でピクリとも動かない。
どうにかしなければ、ともがいても、ネクロに物凄い力で抑えつけられている。
二夜の方ばかり気にしていると、突然顎を掴まれ、無理矢理視線を合わせられた。
「――酷いよ。酷い。幾らなんでも。俺に答えもせずに、他の雄とスるとこなんか見せるなんて酷いよ」
苦しげに喋るネクロの言葉が胸に刺さって動きが止まる。“酷い”という単語が心を抉った。
(……そ、うだ。俺は答えを出さずにずるずると引き摺って、ネクロを苦しめている)
それを皮切りにぶわりと想いが溢れ出して来る。
アズにもだ。どうしても答えが出せない。
嫌いな訳が無い。好きだ。大好きだ。でも、それが恋愛としての「好き」かが分からない。
「ごめん。友達としか見れない」と言えば、さっさと済むのかもしれない。
ギリア先生に言った通り、それで友情がどうにかなることはきっとないだろうから。
では何故答えを出し渋っているのかと自分を見つめ直せば、もしかしたら、俺は……二人とも好きなんじゃないだろうか、という答えに辿り着いてしまう。
だからこの二人の好意をただ、手放し難く思って、それで、その好意に、無様に、醜く、縋ってるんじゃ――。
(――あ、ああ……俺は“酷い”)
『未だ答えを出す時じゃない。……ごめんよ、それ以上自分の心を見つめないでおくれ……』
ぐるぐると色々な考えが巡る頭の中で、何時ぞや聞いた優しい声がふと響いた。と思った瞬間、胸が急に苦しくなった。視界があの時と同じ、誰かに覆われる様に、また、白く――。
「……ナトリちゃん?」
苦しい思いを吐露したネクロは、ふと満の様子がおかしい事に気付いた。
目はどこを見ているのか分からず、ひっ、ひっ、と息を吸い込むばかりで吐いていない。
「ナトリちゃん!?」
慌てるネクロの大声に、部屋の外で待ってろと言われて待っていたアズとギリアが、何事かと入ってくる。
「どうした?」
大声なんか出して……と入ってきたギリアは目の前の状況に一瞬頭が真っ白になった。
――まず足元に雑巾のように伸びている縞猫はなんだ。そして、何故ナトリの上にネクロが跨っている?
おまけに取り乱して、どうにか満に正常な呼吸をさせようとしているネクロは傍から見ると、一瞬首を絞めているかの様な格好にギリアは見えた。
それはアズも同様で。
「……え? ――は?」
小さく呟くとその場で二人とも硬直してしまった。
「ど、どうしよう。どうしよう! お、俺の所為で……っ息、吐いて! 吐いてってば! 吐け!」
ネクロの悲痛な叫びに、まずギリアが我に返る。
「お、まえ何したっ!?」
「分かんないよ! 俺は、ただっ、ただ―――」
ネクロは自分の頬に爪を立てて青ざめ、ガタガタと震え始める。ギリアが知っている、捉え難いほど飄々とした猫はそこにはいなかった。
「――ちっ」
ネクロから事情を聞く事は今は無理かと即座に諦めたギリアは、まだ硬直から解けないアズを怒鳴りつける。
「おい、直ぐにデューイを……っ保健室の先生呼んで来い!」
その怒鳴り声に我に返ったアズは無言で背を向け、大きな音を響かせてドアを閉めた。
出来れば抱きかかえて保健室まで連れて行きたいところだが、不用意に動かしてはいけないと自分に言い聞かせる。
自身の不甲斐なさに舌打ちを一つ零し、取り乱すネクロの襟首を掴むと、想いを押し殺して声を絞り出した
「取り乱すんじゃねぇよ、助けたかったらどうしてこうなったか細かく話せ……っ」
『――ああ、本当にごめんよ。本当に、君にだけは申し訳ないと思っているんだ』
耳元で本当にすまなさそうに囁く声と、視界を塞ぐ白はとても優しくて、声は全然似ていないのにふと母さんを思い出した。
声はとても心が籠っていて、悪意はないのだ、と漠然と理解をする。
だから、別に気にして無いと首を横に振る。そして、首を振ってから、一体何の事について謝っているのか分からない事に気付いた。
「……ぁ、なに、を……あやま……」
「ナトリ君? 起きた?」
その呼び声に目を開けると、何時ぞやの保健室の先生が覗き込んでいた。
「あ……れ? ここ、どこ……」
「大丈夫? ここは保健室だよ。もう苦しく無い? 狗王君に言われて慌てて二夜君の部屋に駆けつけた時にはもう治まってたんだけど……。息を吸ったまま吐かなかったんだって? ナトリ君って何か発作系の病気持ってたりする?」
「吸ったまま……いや、持ってない筈ですけど……」
「そっかぁ。じゃあストレス性の物かもね。ネクロ君の話を聞く限りでは、その可能性が一番だし」
にっこりと笑いながら先生が差し出してくれた、湯気の立つ甘い飲み物を啜る。
「ネクロ……」
ずきりと胸が痛む。
そうだ。ネクロに答えを出していなくて、それを考えている内に息が苦しくなって。
ハッともう一つ大切な事を思い出す。
「二夜! 二夜は!?」
ぐったりと伸びている様に見えた二夜は大丈夫なのだろうか。
ここが保健室ならと辺りを見渡したけど、隣の簡易ベッドは空いていて、居るのは俺と先生だけだった。
「ニヤ君は軽い脳震盪だったから大丈夫だよ〜。それにしても情けないね。猫が着地出来ずに脳震盪だなんて」
眉根を寄せて困った顔をした後、先生は安心させるような笑顔を向ける。
だけどその口から出て来た言葉に、手に持っているマグカップを落しそうになった。
「確かに生活が変わるとストレスは本人が感じている以上に精神に負荷を与えるからね。それが世界規模だと、本当に大変だと思うよ。だから無理はしないでね」
つるっと滑った指で慌ててカップを支え直す。
い、今……。
「えっと、俺、その……」
「ああ、学校長から君の事聞いたんだ」
君が倒れたって連絡がギリア先生から行ったみたいでね〜。もしかして、誰とも違うからなんじゃないかって相談されたんだよ。と微笑を口の端に乗せて先生は俺を見た。
「じゃあ、俺が……」
「うん。ニンゲンだって事知ってるよ。まあ、今回ナトリ君が倒れた事がきっかけで教えてもらったけど、ここを任している立場上、いつかは話さないといけないと思ってたみたいだね」
ほら、人間と僕達だと身体的な違いで病気とかも変わって来るかもしれないから。という言葉に身体が無意識に強張った。
「せ、先生は俺が人間ってわかっても……気持ち悪いとか、無いですか?」
「気持ち悪い? ……は無いねぇ。びっくりはしたけど」
白衣の前を一度引っ張って、先生は脚を組み直す。
「僕達の大半は君が人間だって知っても多分気持ち悪いとは思わないと思うよ。何せ僕達は、そのニンゲンの姿に化けているんだから」
まあ、気持ち悪いっていう輩もゼロではないかもしれないけども、と、おどけた様に肩を竦めてみせる先生はどこかエレミヤ先生に似た感じがした。
ただ、エレミヤ先生に比べて先生は、何となく冷めているというか……。
「でもね」
突然指をつきだされて、少し仰け反る。
「気持ち悪くは無くても、君の存在は他から見たら“怖い”かもしれない」
「怖、い?」
「そう」
想像していなかった単語に言葉が詰まる。
なんで俺が怖いんだ? むしろこっちの世界の人達の方が力の面では強いくらいなのに。
垂れた耳を少し動かした先生は、明るい色の瞳でこっちを見た。
「突然、物語化しているほど昔の存在がこっちの世界に来たら、肝の小さい奴は疑っちゃうんだよ」
何故来たんだろう。
何をしに来たんだろう。
もしかして自分達を脅かす存在かもしれない。
「ってね。勿論、ナトリ君がそんな事しないって言っても、悲しいかなその声は届かない」
――異質な存在は、常に排除の対象にされやすい。
分かるかな? と首を傾げられて、俺は首の軋む音を聞きながら頷いた。
良く知っている。
そういう感じの内容の映画を向こうの世界でいくつも見た。
それらは他の星から来たり、他の時間軸から来たり。
大抵は地球侵略という目的があったけれど、そうじゃない設定の話もあった。
それでも“他の”という単語がついている以上、それは確かに排除すべき対象として描かれていた。
自分に全然関係ないと思っていたSFが、急に現実味を帯びる。
それも自分はそんなつもりはなくても敵方目線だ。笑えない。
エレミヤ先生がやんわりと目を反らさせてくれていた事を、この先生は剥き出して見せてくれた。
それは夢の中で『気持ち悪い』と言われるのとは違った、しかしそれと同じくらい大きなショックを与えた。
「傷ついちゃったかな……ごめんよ。僕、口が悪いっていうか、オブラートに包み忘れるっていうか……」
「あ、大丈夫です……」
本当は余り大丈夫ではないけれど、申し訳なさそうな先生に思わず「大丈夫」と返す。
これは傷つける為に告げた訳ではなく、正直に教えてくれただけだ。それは感謝すべきで、責める事では無い。
「ナトリ君、大分起きなかったからね。もう日が暮れてしまったけど……どうする? 辛いなら今日はここで寝て行く? 僕としては寝心地を考えると、自室のベッドが良いと思うけど……」
「あ、はい。お世話になりました」
またそんなに寝てしまったのか、と思いながら先生に向かって頭を下げ、空になったカップを渡す。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「いえいえ、お粗末さまでした。あ、そうだ」
笑いながらカップを受け取った先生は、思い出した、と声をあげた。
「ネクロ君には、今日じゃなくて後日声を掛けてあげてくれない? ナトリ君が倒れた事で酷く責任を感じていたみたいだから」
「……っ、わかりました」
今は誰も触れないでやってくれという事なんだろう。
ネクロが気に病む必要は全く無い。俺が悪いだけのに……と歯噛みしたけれど、今はそれを伝えれない。
保健室のドアに手を掛けて出て行こうとすると、「最後に」と先生が声を掛けた。
「これはきっと学校長も言ったと思うけれど……。君が人間だと言う事はあまり口外しないようにね」
その言葉が酷く真面目な声で紡がれていて、思わず先生を振り返る。けれど、先生はやんわりとした笑みを浮かべているだけだった。
「君が思っている以上に、暗いとこは暗いから。利用価値があるとみなされたら、どんな事されるか分かんないよ」
笑みを浮かべながら、ぞっとしない事を言われて背筋が粟立つ。
「わ、かりました」
「ん、じゃあ気をつけてね。またもし発作が起きたらすぐに連絡頂戴」
思いやりのある言葉をもらった俺は、両腕に立った鳥肌を擦り擦り、小走りで自室に戻った。
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